第157話 敗北感


 新学期が始まったというのに、もう最初の週を終えた段階でカサンドラはげっそりしていた。


 目に見えて頬がこけるなどの極端な変化はない。

 しかし始業式の前日まで通学を楽しみに浮き浮き状態だった彼女とは全く違うことは誰の目にも明らかだったろう。


 王子の姿を見ることが出来た、話をすることも出来た。

 それらはとても嬉しい事だったというのに、その喜びを上回る衝撃的な事案がカサンドラを多段攻撃で追い詰めてくる。


「……姉上、先日もお伺いしましたが何かあったのですか?」


 死んだ目をした義姉の姿を目の当たりにし、折角の夕食が不味くなるとでも言わんばかりにアレクが再度の尋問を試みる。

 昨日ベルナールがシンシアにしでかしてしまった事は頭の痛い事であった。


 憂鬱そうに溜息を落とすカサンドラを気遣ってくれたアレク。

 昨日は言葉を濁したわけだが、今日はその言葉に縋りたくなってしまう。


 シンシアの様子が分からなければ善後策だって考えることは出来ない。


 だが今日に至ってはシンシアは欠席!


 朝から空席状態の彼女の居場所を確認するだけで心が重かったが、それに加えて王妃教育とやらの単語に惑わされシリウスと大層気まずくなってしまった事も思い出すと猶更気が沈む。

 シリウスはああは言ったものの、やっぱり王妃になるために必要な知識や教育ってあるんじゃないかなぁ、とか。

 一応納得した風で引き下がったが、モヤモヤしているのは確かだ。

 そういう風習が存在しないなら、何故リゼが読むことがあるような物語に王妃教育なんて単語が出てくるのだ?

 と、不審に思うのはしょうがない。


 来週の土曜日は自分の誕生日で、王子と一緒に過ごせる! とるんるん気分で過ごしていたはずなのにこの惨状。

 どんよりとした黒い雲を頭の周囲に浮かべるカサンドラにもう一度話を聞こうとしたアレクの行動はごく自然と言える。


 なんでもかんでも年下の義弟に相談し、頼るなんて姉としての沽券に関わる。

 だが今日に至っては、もう限界だとばかりに彼に愚痴を言い倒すことに決めた。


 彼の方から尋ねて来たのだ、ならば心行くまでこの鬱屈した思いを吐き出させてもらおう。

 ……このような事を相談できる身内がいる自分は恵まれているのだとつくづく思う。


「――ベルナールの事なのですが」


「ウェッジ家のベルナールさんですか?

 あの人、夏にもレンドールには帰省されていなかったんですかね、あちらでは会いませんでした」


 彼が実家に帰っていようがずっと寮住まいで過ごしていようが些末な問題である。

 どのみち社交の場が大嫌いな彼のことだ、実家にいたとしてもアレクと顔を合わせるような華やかな場に出ることはなかっただろう。


 一月以上の空白の時を跨げば、ただでさえ大人びて見えたアレクが一層落ち着いた美少年にしか見えず戸惑う。

 彼のような髪色を白銀の髪プラチナブロンドと呼ぶのだろうが、いやはや並の令嬢よりも美しいとしか表現できない絶妙な顔の造作とのバランスが素晴らしい。


 アレク程、こんなに子どもの頃から「あ、凄い美少年!」なんて誰もが見惚れる貴族の子もそうはいない。

 しかも元はレンドールでも傍流の家の出身で、クラウスが見出して養子にもらい受ける事になったのが奇跡のような遠い縁だというのに。

 彼を見出した父の嗅覚がすさまじかったのか、アレクの目立ちっぷりがとんでもなかったのか。


 地方の領主、それこそベルナールのように粗野な性格の子息もいる中で、アレクの存在は別格だ。


「実は彼が、わたくしの同級生のお嬢さんにとんでもないことを……」


「ベルナールさんが?

 いやいや、あの方は一見乱暴な人に見えますけど、根は優しく良い人じゃないですか。

 むやみに他家のお嬢さんを傷つけるような事はしないでしょう」


 アレクは耳を疑うかのような素振りで、少々肩を前に出す。

 前傾姿勢でこちらの様子を伺っているようだ。メインのラム肉を切り分ける直前、両手に銀のナイフとフォークを握りしめながら。


「良い人……?」


 ギリ、と唇を噛み締める。

 カサンドラだって知らない相手ではない。口は悪いが良い奴、という印象を抱いての今に至る。

 だがそれでは到底フォローも出来ない事態だ。


 カサンドラは目を三角にしてアレクに始業式以降の出来事を語って聞かせた。

 上級生のベルナールが急にカサンドラの教室に姿を現して、いつもの調子で話しかけてくるものだから周囲を大いに戸惑わせたこと。

 そして先日、事もあろうに夏に初めて会っただろうゴードン商会のお嬢さんに惚れ込んで――公衆の面前で戸惑う彼女に熱烈な求婚宣言を行ったこと。

 恐れに震え、混乱したシンシアは悲鳴を上げて教室をとびだし、翌日も欠席のままだということ。


「えっ……

 ゴードン商会のお嬢さんと言えば、姉上のドレスのデザインを提案してくれた?」


「ええ、そうです。

 とても慎ましやかでおとなしいお嬢さんで、守ってあげたいタイプの家庭的なお嬢さん。

 ああ、ベルナールの好みに合致すると気づいた時には事が起こった後でした」


 まさかそんな事態とは思いもしないアレクは、当たり前のように絶句した。

 しばらく、双方ともに沈黙を続ける。


 コチ、コチ、と。壁に掛かった大きな時計の針が進む音だけがやたらと大きく響く、気まずい夕食。


「シンシアさんが、実はベルナールさんのことを心の底では憎からず思っている可能性は?」


「そうであれば良いと思うのはこちらの希望的観測でしょう。

 本当に思い合っているのであれば、急な告白とは言え絶叫して逃げ出すことはないと思うのです」


「奥ゆかしくてシャイなお嬢さんなら、嬉しいけれども恥ずかしくて逃げ出すこともあるのでは」


 自分達の知己が、一人のお嬢さんを絶望の淵に叩き落したという衝撃はいかんともしがたい。

 衆人環視の中で男性が求婚したのだ、そこに思い込みや勘違いがあったとしても良い歳をした青年の言うことだから消し難い噂が流れるのは必定。


「………可能性を考え、お互いに誤解のないようお話を伺いたいものです」


「ですね、明日にでも聞きに行った方が良いのでは?」


 もしもシンシアが全くベルナールに対して好意を抱いていないのなら、ベルナールの拙速であり彼女に迷惑をかける行為を行った事を誠心誠意謝罪するべきだ。

 少なくとも彼女の態度通りなら、恐怖のあまり悲鳴を上げ、翌日も休まざるを得ない精神的ショックを受けたということなのだから。

 そして正式に「ベルナールの完全な空回った行動であり、シンシア嬢と関係は一切なく疚しいことは何も無い」と正式に表明しなければ。


 この学園で過ごす中、結婚相手を探す生徒も多いことは暗黙の了解であろうが。

 こんな変な噂が流れこの先のシンシアの縁談に「男の影」という不安材料を残しておくわけにはいかない。


 逆にそれを表明すればベルナールは完膚なきまでに失恋状態だ。

 これ以上シンシアに接近すればトラブル防止のために咎められることになろう。


 ……カサンドラが勝手に判断してしまえば、彼女の本心を知らないままに二人の関係に決着をつけることになってしまう。

 本音を言えばベルナールの首根っこをひっつかんでゴードン商会に頭を下げて謝罪に出向きたい。今すぐに。


「そうですね、確か彼女は寮住まいだったかと。

 気が進まないなどと言っている場合ではありません、彼女の胸の内を聞かせてもらうことにしましょう」


 カサンドラに無関係ではないというのがまた心が痛む。

 何とかしなければと気ばかりが急くが、これがまた恋愛がらみなので厄介だ。

 恋は盲目とも言う、また恋わずらいという言葉もある。

 熱情に浮かされた人間の行動は、理解しがたく御しがたい。


 ベルナールの一方的な恋情の押し付けを見てしまうと、カサンドラも心の奥底がどろどろと濁った泥に浸されていくような気がする。


 いくら好きでも、公衆の面前で好きだと叫べる程の恋をしていても、相手に受け入れる覚悟がないとただの迷惑行為。

 想いのおしつけとはこういうものだ! とまざまざと見せつけられた気持ちになるのだ。


 もしも先走ったりしなければ、お互い友人から始まってゆっくり関係性を育んで――結果的に結婚という幸せな結末も考えられたかも知れない。

 でもこの件で彼女が心を閉ざしてしまえば、可能性は消えてしまう。



 ……王子に『好き』だと言った後。

 あからさまに嫌そうな顔をされることはなくても、受け入れてもらえなかったら……

 相手の負担になるだけだ。

 未来の可能性さえ閉ざす、それはカサンドラには受け入れがたい。


 斯くも恋愛というものは、己の思うように進まない。


 自分の想いと相手の想いが同時に双方向でぴったり重なるなんてありえない奇跡ではないかと錯覚する。


「成程、姉上がベルナールさんの件でお悩みだったのは理解できました」


「理解してもらえ、姉はとても嬉しいです」


 つい能面のような顔になってしまったのに、アレクは困ったように首を傾げた。

 レンドール出身者がしでかしたことは、全く関係がないとは言えない。

 どうということはない、なんとかなるなんて気休めを言う立場ではないことは確かだった。


「ええと、他にも煩ってらっしゃいますか?」


 彼はこの際だからと、引きつった顔でこちらの顔を伺う。


「――。

 ありがとうございます、他には特に思うことはありません」


 だが彼に愚痴を言ってばかりでもしょうがない。


 また、生徒会役員後にあったシリウスとのやりとりは言葉にして出せる程カサンドラの中で咀嚼できていない。

 呑み下せない、というか。

 アレクにどう思うかと聞いたところで、現状は変わらない。


 自分に出来ることは、精々より一層襟を正して後ろ指をさされることのない『王子の婚約者』として過ごすことだけだ。

 その中で王妃になるために学んだ方が良いと判断できる事があれば、自ら選択していく他ないのかも。



 ――王妃とはどうあるべきか、か。



 例えば数多の有名な詩集を諳んじ、格言を知り、歴史を学び会話の節々にそれらを垣間見せるような振る舞いが出来れば周囲から尊敬されたりするのだろうか?

 他国の要人と会う時などに完璧な所作を以て跪礼をすれば皆が認めてくれるのか?


 ……結局、何処を向くのか、という問題なのかもしれない。



 王宮内での住みよさを優先し、しきたりを積極的に学び旧き女官たちに薫陶を受け王宮の女主として振る舞う王妃に立つか。

 例えば王族なんて人気稼業と割り切って、平民たちにより親しまれるように多少周囲から疎んじられても慈愛の精神に則り民に慕われる王妃になりたいか。

 妃とは王の配偶者であり、王の意思に完璧に沿い余計な事はせずに王にとって安らげる癒しの象徴になりたいのか。

 知識や弁論力を携え社交界を牛耳り、その社交力でよりよき政治の助けとなるよう積極的に政策、経済について語れる実務派王妃になりたいのか。


 全てを完璧にこなせれば一番良いだろうが、理想を全部詰め込んだ結果全てが中途半端ではお話にならない。

 民衆の支持と王宮職員の支持を同時に得るのは難しそうだ。

 王宮で働く人間は皆特別意識や選民意識を持っている、そういう者たちが民にせっせと奉仕するような王妃に良い印象を抱くはずもないし。

 その両立を可能にした亡き王妃がどれほど人格者で優れていたのかと、そういう観点でも驚かされる。


 王妃と言っても一人の人間、得意な分野も気質も性状も違う。

 そもそも代々の国王陛下とて皆特徴や個性に溢れていたわけで、決して判を押したような同じ人格や能力の持ち主ではなかったはず。

 その時代、情勢に応じた個人の資質も大事だと思う。

 

 ならば自分はどういう強みを以て、王子の婚約者だと胸を張って言えばいいのだろうか。



 ――学ぼうと思えば学べる環境と断言したシリウスの言葉も、一理ある。



 所詮王妃に期待などしていない、そんな側面があるのかも知れない。

 それこそ、世継ぎを産んで初めて一人前と認められる女性の人権無視の過酷な環境なのかも。

 


 もしも、もしもと仮定する。

 世界がこのまま平和であって、王子も生きたままカサンドラも追放されず三つ子も聖女の力に目覚めずに未来が続くのなら……


 漫然と過ごしているわけにもいかないな、と改めて神妙な心持ちになるカサンドラだった。




「そういえばアレク、王都に帰還後は何をしているのですか?

 近頃ずっとお部屋に籠っているというお話を聞きました」


 己のアイデンティティについて考え、険しい顔のままだったことに気が付く。


 そんなに気に病んでいるのかと腫物を見るような視線のアレクに気づいて、カサンドラは努めて明るい表情で話しかけることにした。

 愚痴を言いたくて仕方なかったとはいえ、一度吐き出してしまうと耳に障りのある話を聞かせてしまったなと気まずい想いだ。


 だが、明日シンシアに会いに行った方がいいという現実的な提案をしてくれた。

 存外自分は混乱していたようだ、頭を冷やしてくれたアレクの提案は十分すぎるものである。


「ああ、僕ですか?

 レンドールに帰っていた間にお会いした令嬢方から、連日のようにお手紙をいただきまして……

 返事がまだ書き終わらないんですよね」


「……手紙……?」


 ぴく、とカサンドラの耳が動く。

 確かにアレクは毎週定期的に侯爵への報告を行う筆まめな少年である。


 そんな彼が王都に帰還してなお今も、自室に籠って返事を書き続けている……?

 一体全体、どんな状況なのだ。



「アレク、良ければわたくしにもどのようなお手紙をいただいているのか見せてもらっても宜しいでしょうか」  





 ※




 夕食の後、アレクの自室を唇をへの字に結んだまま暴くカサンドラ。

 カサンドラが勇み勢いよく開けた扉の奥にスタスタと歩いて行くアレクは、ペン立てのある机の上に積まれた「白い山」に向かう。


 両腕にどっさりと封書の束を抱えて部屋の中央の大きなテーブルに置いたアレクは、「まだこんなにも要返信なんです」と僅かに肩を竦めるのみなのだけど。



 許可を得て一通の封書を検め、カサンドラは盛大に仰け反った。


 それは年端もいかない少女の書いたものと思われる、幼いながらも憧れや想いをしたためたまごうことなき恋文ラブレター!?


 あまり字が上手く書けない年頃のお嬢様は、代筆を立てて手紙を贈ることが慣例のようなものだ。

 相手方に失礼にならないように。



 ……だがカサンドラが今まじまじと眺めている可愛らしい桃色の紙に書かれた文字はたどたどしいながらも一生懸命本人が書きました!

 という愛らしさ大爆発のお手紙であった。



 お茶会でお話をしてくれた事のお礼だとか。

 他のお嬢さんも晩餐会でお話が出来て嬉しかっただとか。

 一緒に森を散策したり、野いちご狩りをしたりだとか微笑ましいエピソードをしたためる手紙もあった。


 中には丁寧な美しい少女らしい文字で書かれた宛名の封書もある。



「ええ……?」



 少なくとも、カサンドラが王子に毎週のように渡していた手紙の数十倍は相手への好意、想いが溢れる見ている方が照れくさくなるような文面。

 眩しさのあまり、うっと片目を覆ってしまうくらいだ。


「こ、このようにたくさん……

 代筆を頼んで返送するという方法もあるのでは?」


 恐らく御三家の御曹司への手紙など、彼ら自身が目を通すこともなく家の人間が全て滞りなく儀礼的な返信を送っている勝手なイメージがある。

 もはやこの量は、彼らに準ずる対応でも許されると思う。



「一生懸命書いてくれた手紙を、そのような心無い扱いなど出来ませんよ」



 レンドールという地で、出掛けた先歩く先のお嬢さんや令嬢をその容姿と身分と紳士的態度で落としてきたとでもいうのか。

 何という事だ、これは本当に予想以上のモテっぷりである。


 恐らくラルフ達が相手にするには幼すぎる年代の少女が、こぞってアレクをターゲットにしているに違いないと戦慄した。

 自領の中でのことだから注目度は高いと思うけど、それにしたって何十通あるのだ……?


「姉上が王子とご結婚ともなれば、レンドールも王家の外戚ですからねぇ」


 まるで他人事のようなセリフだが、親はそうでも子供がこんなに拙い文字で「慕っております!」と秋波を送ってくるなど聞いたことがない。

 しかも律儀に一通一通心を込めて自分で返すなんて、一層相手をその気にさせるだけのような気もするけれど。





 ……でも、こんなつなたい幼い文字なのに、好意全開の明け透けな手紙を書けるなんて……




 もしかして自分は顔も知らない幼女たちに負けているのではないか?



 様々な意味で衝撃を受けた、金曜日の夜だった。 

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