第156話 王妃教育?



 翌朝、リゼはいつもの時間に登校していた。

 教室の自席に座って機嫌良さそうにノートを開いているところに声を掛ける。


「あ、カサンドラ様。おはようございます」


 彼女は栗色の髪を飾る赤いリボンを翻し、勢いよく立ち上がった。

 白地を基調とした制服は彼女に良く似合っていると思う。プリーツスカートの裾は相変わらず膝を覆っている。


 午後の講義が終わった放課後、役員会に顔を出して欲しい旨カサンドラは言伝を実行。


「はい、分かりました。

 挨拶だけですね」


 名前とクラスと一言、とりあえず会議の冒頭で彼女が雑用係になったという紹介さえ終えれば事前準備は万端だ。


「……まぁ、もう今から授業の勉強ですか?」


 机の上のノートを覗き込むと、昨日受けた授業の復習で字がみっちりと一枚埋まっている。

 明らかに気合の入れ方が違うと分かる、その前向きな努力に感動さえ覚えた。


「カサンドラ様程じゃないですよ、私なんかまだまだで」


「そのようなこと」


 すると彼女は、屈託ない笑顔でカサンドラを撃ち抜く。



「だってカサンドラ様、王子の婚約者だから学園こことは別に、王妃教育? っていうのもあるんですよね?」



 ………刹那、カサンドラの表情が衝撃で崩れそうになる。それを掌で押さえ、無言で微笑むのが精一杯だ。





「この間リタに借りた本に書いてありました。

 偉い人は偉い人で、本当にやること沢山ですよね」



 最近恋愛モノも良く読むようになったのだと彼女は言う。


 庶民が王子に見初められて結婚する、所謂シンデレラ・ストーリーが描かれた恋愛物語。

 その途中の下りで、主人公が王妃になるために勉強や学習、礼法作法などを一から学ぶことになり、健気に努力する姿が印象的で。

 ひたむきな姿がリゼの琴線に触れたと話してくれた。



 ……まず平民が王族に嫁ぐことなどない、という常識は置いておいて。

 そこは物語だから良いとして、でも王妃教育という単語は気になる。


 言葉にされると、そういうものが実際にあってもおかしくないのでは……

 いや、むしろ”あるべき”なのでは?





 ※





 役員会議に、リゼと共に向かう。

 緊張しているのかと思いきや、意外に平然としているリゼは胆が据わっている。


 ジェイクに話しかけられると少し動揺していたが、傍でじっと見ていたカサンドラしか分からない程度のリアクションだったのは流石の一言だ。




 リゼは他の学級委員、要するに役員達に顔見せの挨拶を無事に終えた。

 彼女が生徒会室に出入りすることはあるが、その範囲は極めて限定的だという説明とともにリゼは堂々と名乗り、そして場に会する一堂に深く頭を下げる。

 単なる形式上の顔見せだ。


 カサンドラ達はクラスメイトだから当然知っている顔でも、他の学年の生徒は知らない者もいる。

 また三つ子なので他と見分けがつかないだろうと、『赤いリボン』が自分だと強調した。



 挨拶が終われば、リゼ自身は役員会の内容を聞き留める立場にない。

 生徒会室の出入り許可をこの場において役員に周知させた後、シリウスは彼女に退室を促した。


 一体彼女が何故――という疑問の声が上がらないわけではなかったが、基本的に彼らは王子をはじめとする幹部の決定には従順だ。

 それに彼女には来年度の生徒会へ推挙の話があると言われ、秘匿事項と通達されれば一々事の是非を問いただすようなこともない。


 雑用係として部屋の掃除やら資料の整理やら書類頒布や掲示の手伝いやら、そのような事を担うのだろうという共通認識があったに違いない。

 馬鹿正直にその思い込みを訂正し、事の経緯の全てを詳らかにする必要もあるまい。


 冒頭の挨拶も滞りなく過ぎ、二学期最初の役員会が進められていく。

 議事進行を請け負いながらも、カサンドラはその日一日、ずっと朝の言葉が引っ掛かっていた。


 リゼとの会話の中で出てきた、『王妃教育』という単語の事だ。

 将来的に王妃となるだろうカサンドラはさぞかし大変な王妃教育を日々受けているに違いないという話の振られ方だった。


 しかしながら、カサンドラはこれと言った王妃になるための教育を受けているわけではない。


 いや、というかそもそも王妃教育ってなんだ? と首を捻る。

 庶民の間では王妃となるからにはそれ相応の特別厳しい訓練があって、それをクリアしたものだけが王妃になれるのだ――なんて認識があるというではないか。


 言われてみれば成程、王子と結婚する以上は王妃教育たるものを受ける必要があるのではないか。

 ……それを一切提起されないということは――


 王妃候補ではないのか? いや、それでは話がおかしくなる。

 婚約者だから、当然王妃になるのでは?


 そんな疑問が沸々と浮かんできて、新学期早々開かれた会議の内容も半分以上、上の空だった。


 恐らくそんなカサンドラの地に足がついていない様子に、シリウスは気づいたのだろう。

 会議が終わった後、カサンドラに「居残るように」という指示をいただいてしまった。


 ……流石に何度も隣のアイリスに「カサンドラ様!」と呼びかけられ慌てて進行を確認するような状況では、彼もお冠状態だろうことは予想できること。

 さぞかし苛々させた事だろう、と心の中で戦慄した。


 だがシリウスが自ら居残りを命じ、説教タイムだとけんもほろろな態度ならば逆にこちらにも好都合だ。

 恐らくこのような話は、シリウスに問いただすのが一番早いと思う。

 王子に直接聞くのは不躾が過ぎる気がする。


 シリウスの説教を食らうのは嫌だけれど、背に腹は替えられない。

 会議終了後にすたこらさっさと会議室を飛び出るジェイクは、こちらを肩越しに見やる。

 同情の籠もった視線だ、憐れまれてしまった。








「――カサンドラ。今日のお前は集中力を欠いていたように見受けられる。

 休みけというわけでもないだろうに、何か腹に抱える事物でもあるのか」


 彼は綺麗に整った顔を不機嫌そうにゆがめ、その黒い双眸でカサンドラを真正面から睨み据える。

 こうして会議室で二人きり、真っ向から対峙すると彼の存在感、威圧感に圧倒された。

 王子とはまるで逆だ、にこにこと優しく微笑む太陽が王子ならば。

 シリウスは凍える吹雪そのもの、冷たくて――でも、見ている分には綺麗でもある。


「あの、少々気がかりなことがありまして……」


「ほう?」


 彼は柳眉をひそめながら、腕を組む。

 言いたいことがあるなら言ってみろとでも言いたげに。



「わたくしは、王妃教育を受けておりません。

 王妃の務めを果たすべく、教育を受けたいと思っております!」



 すると彼は、露骨に目を丸くした。



「王妃……教育?」



「はい。将来の王妃に相応しい者であるよう、王家の一員として振る舞えるような徹底した教育が望まれるのではないかと。

 その、わたくしは王宮からそのような通達を頂戴したこともありません」


「ああ、そういうことか」


 何故か彼はホーッと細い吐息を床に這わせた後、あからさまに目を逸らす。


 そして眼鏡の角度を人差し指で調節しながら、気を取り直したのか険しい眼光でカサンドラを射抜いたのだ。


「カサンドラ。

 お前は王妃に必要なものは何だと考える?」

 

「それは勿論――王の配偶者となる者ですから。

 相応の知識、立ち居振る舞い、礼法作法、王宮行事においての細やかな決まり事、所作などの習得。

 時には王の名代として、王がご不在の際には王族として民の前に立つこともあるのでは……」


「………はぁ。

 お前が何を思い描いているのかは想像もつかない話だが……

 現時点で王妃に相応しくない、作法を知らぬ人間を王子の婚約者として推挙する恥知らずなどいるわけがない、そもそも陛下が頷くと思うのか。

 地方貴族とは言え侯爵家の令嬢だぞ、お前は。それなりの教育を受けているだろうが」


「いえ、ですから……」


 それでは足りないのでは?

 王宮でやっていけないのではないかという不安が彼には伝わらないのだろうか。


「王妃の一番の務めは、次代を残すことだ。

 次の務めは、社交界に蔓延り暗躍する有象無象どもを牽制し、政治の中に持ち込ませないこと。また、適宜必要な情報を収集すること。

 別にお前にこの国の歴史全てを暗記しろなど誰も言わん、有用な施策を打ち出せなど一切期待していない。


 ああ、先程お前が述べた事は全て自助努力でどうとでもなるものではないか。

 学ぼうと思えば学べる環境にあるとは思わないか?

 王国最高峰と言える専門家を揃えた講師、調べようと思えばいくらでも過去を紐解ける蔵書数を誇る図書館。

 ……学べるものから目を逸らして、手っ取り早く課題を寄越せと強請られるとはな。


 まあ現状、お前の言う王妃教育――王妃が詰め込みで教育を受けてまで国に奉仕しなければいけないという決まりはないな」


「………?」



「カサンドラ、お前……忘れているのか?

 この国の王妃が現在、空位であるという事を」



 シリウスは憂鬱そうな吐息を吐いた。

 こんなことは言いたくなかったとでも言わんばかりに。


「現国王は若くして身罷られた王妃を深く愛しておられた。いや、今もなお変わっていない。

 側室も娶らず新しい王妃を迎えることもなく、現在も空位のままだ。

 国の形として健全な状態とは言えないが、その情の深い国王陛下の決意は民衆の多くの支持を得ている。

 ……分かるか?

 王妃が空位でも、この国は廻る。

 彼女は次代の王子を残すという一番の務めを果たした、その功績は素晴らしく十分なものだ」



 だからと言ってカサンドラが王妃に相応しい存在になれるよう、正統な教育を受けないで良い理由にはならないのではないか。

 カサンドラは必死で彼に訴えた。

 やはり王室に入るにあたって、細々とした決まり事など沢山あるはずだ。

 それを卒業後の一年、ないし二年などの限られた時間で全て修得することができるのだろうか。

 学ぶのならば早い方が良いのではないかと言う現実的な話だ。


 既に書類上も婚約者同士、そして舞踏会でのお披露目も終わった。

 王妃になるために必要な勉強があるというのなら、日常の勉強項目に合わせてそちらも修得する必要があるのでは?




 シリウスはこの話を大変倦んだ様子で聞いていた。

 そしてその烏の濡れ羽色の髪を掌で掻き上げ、盛大な溜息を落としたのだ。



「現段階でお前に足りない明確な課題があれば、上の方から指示が出ているだろう。

 それがないということは、国王を始めとしたお歴々の方は今のお前の状態で十分だと判断しているのではないか?

 王妃に値する教育と言われてもな、何故王妃にだけそこまで厳しい教育や教養を課さねばならんのだ?」



 本心から疑問に思っているようでもある。

 個人的にはそこまで王妃の地位が軽んじられていることに吃驚だよ、と思う。

 ……理由は大体分かるけれども。


 歴代の王妃はロンバルドやエルディム、ヴァイルの三家がそれぞれ政治的に『配慮』を重ねてお互いに納得できる王妃候補を選定していたというではないか。

 王妃とは彼らにとって”選ぶ”もの。

 だからこそ、カサンドラがポッと婚約者だと発表された時「裏があるのではないか」「何を企んでいる」などとラルフも責め立てた。

 それを決めるのは自分達の役目なのにと言いたげに。


 今はまだカサンドラも父のクラウスも目立った失策を打っているわけではないから表面上は平和だけど。


 彼らの信を得られなければ、カサンドラへの嫌がらせのために三家のどこからか側室の一人や二人でも輿入れる話が湧いてきそう。

 想像すると、少々怖い。

 敵対はしたくないなと、心底思う。


「王妃は……本当にご立派な方だった。

 彼女の心根は人から教わったものではない、生まれもっての資質だ。

 人に親しまれ、慕われる――教育如何で、あのお人柄が培われるなどとは思えない。

 知識のみ、上辺だけ取り繕っても意味がない」



 王子の亡くなった母、王妃の話になると心の底から痛ましい表情に歪んだ。

 王妃様はとても民衆に慕われていた人気のある王妃様だった。

 彼女が如何ほど優れた能力を持っているのかは知らないが、少なくとも亡くなったことを王国中の平民にさえ惜しまれる人。


 シリウスも思い出して胸を詰まらせたくらい、美しく優しい王妃様。



 ――古き人に聞いた話だが、と前置きをしてシリウスは語る。


 亡き王妃は、カサンドラと同じように王子の婚約者として学園に君臨していた。

 その上で必要な知識を己で考え、必要なものを学び、将来に渡る円滑な人間関係を築けるよう対人関係も大事にしていたという。

 味方をつくり、周囲の信用を得ていった。たゆまぬ自己研鑽の末、名実ともに王妃候補として認められたのだと言われては「そうですか」としか返答できない。



「皆がお前の振る舞いを、この学園での姿を見ている。

 その上で誰の指導もないという事は、現状のお前に瑕疵がないという事だ。

 引き続き励めばいい」



 それはそれで不安だが、一応シリウスなりに励ましてくれているのだろうか。



「特別な教育はわたくしには不要だと?」


「王宮での細かな決め事の習得など卒業後で十分間に合う。

 少なくとも、あの程度の事を分からないなどと泣き言を言う者は、普段日常での態度もしれている。

 勤勉実直であれば、難のないこと。既に高位貴族として培ってきた素地があるのだからな」


 ――過去には他国の姫君を王室にお迎えしたという話もある。

 そういう姫君が皆全てクローレスの慣習に詳しいわけでもないし、慣れぬ地でも王妃の務めを果たしていたはずだ。

 カサンドラに出来ないわけがない、とも思う。



 王妃の恥は王家の恥、王家の恥は仕える家臣の恥。

 シリウスもその恥を甘んじて受け入れるような人ではないし、案外カサンドラのことを信用してくれているのかもしれない。

 良いように解釈すれば、だが。


 他にも理由があるのかも知れない。

 だが今のカサンドラにはその理由に思い至らず、喉の奥に何かが引っ掛かったようなもどかしさを感じるのだ。


 言葉に出来ない感情に襲われ、静かにかぶりを振った。





「しかし何を言うかと思えば、王妃教育とは……」


「……?」


「いや、何でもない」


 彼はフッと視線を逸らす。


 どういうことだろう、と首を傾げたカサンドラ。



 はて。


 シリウスは王妃の最も大事なお務めは何だと言っていたか……と、会話を反芻し、ぎょっとした。

 王妃にとって、次代の王を世に送り出すことが最も有意な務めだ。王妃の何より重要な仕事だとシリウス”は”考えているという。

 ……ならば?





  ――王妃の務めを果たすべく、教育を受けたいのです!




 という意気込んだカサンドラの言動は、果たして彼にどう聞こえたのだろうか。

 一気に足元ががくがくと震える、もの凄い台詞にも聞こえないだろうか。

 いや、勿論誤解はすぐに解けたから実害はない。

 ないけれども!


 カサンドラは全く己に非があるとは思っていないが、お互いの認識に差があれば予期せぬ事故が起こることも知っている。



 ぎょっとして目を逸らしたシリウスの胸中など、知らない方が良い気がした。 

 




 お互いあらぬ方向に視線をやり、そのままどちらからともなく鞄を持って部屋を出る。






    ―― 聞くんじゃなかった ……!!



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