第147話 <リゼ 1/2>


 ……ああ、緊張する。


 ラズエナの避暑地で偶然出会ったジェイクと、比較的普通に話せるようになった気がしていたけれど……それは自惚れだったようだ。

 半月以上ぶりに姿を見た彼の姿に胸の高鳴りが止まらない。


 緊張の理由は久しぶりに会ったからだけでなく、舞い上がっていつもしないこんな格好で来てしまったからか。

 カサンドラに勧められたものだけれど、いざとなると恥ずかしくてしょうがなかった。

 自意識過剰だと思う、人は自分のことに大して興味なんかない――分かっていても羞恥の感情に襲われる。結果的に今日、リゼはいつも以上に動揺しっぱなしだ。


 リゼは椅子に座って、チラと横目でジェイクが準備をする様を眺めていたが未だにこれが現実だという事が信じられない。

 そもそも――勉強を教えるということで正面に彼が座るものだと思い込んでいた。だが今、リゼの正面に座ってニコニコ微笑んでいるのはカサンドラその人である。


 何故ジェイクがリゼの左隣に座っているのでしょうか。

 しかも近い、凄く近い!


 ????


 背中に冷や汗が伝うのを誤魔化すように、冷たい氷入りのジュースに手を遣る。


 カサンドラは全くこちらの様子に頓着している様子はなく、ふふふ、と楽しそうな顔でこちらの様子を眺めているだけだ。

 彼女はきっちりと課題、宿題をこなすタイプだと見受けられる。

 だからリゼが彼女の宿題に干渉する必要はないから、彼女と距離が離れているのは構わない。


 だがいくら教える必要があるとはいえ、ジェイクが座る隣の椅子が近すぎるのでは……?

 文字を追ったり指で示すなら手が届く範囲じゃないと難しいから、この配置は理にかなっているのかも知れない。もはや冷静に判断できない。


 緊張のあまり無表情のままのリゼは、椅子に座ったはいいものの身の置き場が無かった。一度腰を下ろした以上突然距離を取るのも失礼な気がするし、今日はこの位置関係のまま過ごすしかないだろう。


 腹に力を込め動揺する自分に喝を入れるリゼ。


 変に気を遣い過ぎては、本来の目的を達成できない。

 この場に来てくれたジェイクにも大変申し訳ない事なので、気持ちを切り替えよう。

 動揺して一言も喋れません、恥ずかしくて何も言えませんでは話にならない。


 広いとはいえ室内で落ち着いた場所で同席しているというシチュエーションはリゼの心を追い詰めていくけれど。

 自分が頼りにならない人間だと思われるのだけは、まっぴらごめんだ。


 頼まれた以上は全力を賭してやり遂げねばと気合を入れ直す。





「ジェイク様、どこまで終わっているのか見せてもらって良いですか?」


 彼に渡してもらった冊子を三冊、パラパラと捲る。


 意外と字が上手だということに驚いた、文字を見れば育ちが分かるというが……ところどころ雑になった箇所はあるけれど、想像とは違う筆致で驚いた。


 内容に関係ない事に感心してしまったが、確認すべきはそこではない。

 さて、進み具合は――


「想定の範囲内です。

 今日中に終わらせることが出来るよう、頑張りましょう」


 半分以上は何とか終わらせているようだ、何とか今日中に終わらせることが出来るギリギリのラインか。

 彼の方からSOSを発してきたのだ、もしかして全く手をつけていないのではないかとドキドキしていたが、彼なりに時間を見つけては出来る箇所を埋めていった努力の跡が見て取れた。


 気乗りしないだろうが、これを乗り切らなければ夏が終わらないことは彼も理解しているはずだ。


 とりあえず面倒な単元から済ませて……と、今日のために考えていた計画を頭の中で整理する。


「では、とりあえず政治学の――荘園関連のところ終わらせましょう」


 形態の異なる中央と地方の制度の違いから全て記述式で纏めて提出する課題!

 リゼは凝り性なので、ありとあらゆる資料を調べるために街の古書店を巡り巡って資料をメモし論文形式にして提出予定だが、そこまでの必要はないと思う。

 一学期に受けた授業のノートを見返して埋めていけば十分書けるだろう。


 憂鬱そうな表情のジェイクだが、ここまで来た以上やらざるを得ない。

 リゼに言われた通りうずたかく積まれた授業関係の資料を探し捲っている。


 教室で隣同士の席の生徒より、今のジェイクとの間隔は狭い。

 一列に並んで座る形式の講義室の座り方に似ているが、それでもこんなに隣の生徒に詰めて座りはしないだろう。


 少し動けば腕同士が触れてしまうような位置取りだ。

 広い樫作りのテーブルだというのに、カサンドラの思惟を感じずにはいられない。


 彼女は特に口を挟むことなく自身のペースで最後の課題に手をつけているようだが……


 カサンドラがいてくれて本当に良かったと安堵する。

 もしもジェイクと二人の空間だったら嬉しい以上に感情の持って行く場所がなく困惑しただろう。

 第三者からの視線の抑圧がないとたがが外れてどうにかなってしまいそうだ。


 カサンドラという存在は、単なる同級生以上の頼もしさを感じる。

 彼女にだけは失望されたくないし、ヘマをしたところを出来る限り見られたくない人だ。

 ……まぁ、錯乱した己の姿を何度も見られているので今更という気もするが。


 困ったことがあってもすぐにフォローしてくれ、救いの手を伸ばしてくれる。

 勉強会が実現したのもカサンドラの声掛けがあってのことだし。

 いくらジェイクに打診を受けていたといっても、彼女の協力なくしては実現さえしなかっただろう。





 まだ始まって十分も経っていない、ようやくジェイクがまともに宿題に向き合い始めた頃だった。

 扉がコンコンと忙しなく叩かれ、朝リゼを案内してくれたメイドの一人が深々と頭を下げながら入室してくる。


 何かあったのだろうかと彼女の動きを見ていると、エプロンドレスのメイドは着席したままのカサンドラに――何かの紙をそっと渡した。

 その紙片をチラっと一瞥したカサンドラは「まぁ」と感嘆の声を上げ正面に座るリゼとジェイクに向き直った。


「ご招待した身で甚だ失礼なこととは存じますが……

 しばらくの間席を外しても宜しいでしょうか」


「なんだ、急用か?」


 冊子から顔を上げ、ジェイクは頬杖をついてカサンドラを視界に入れる。


「少々面倒ごとが生じたようです。

 一、二時間程度で戻りますので、しばらくお二人で進めていただいても宜しいですか?」


「別に――っていうか、お前が俺に付き合う必要もないしな。

 やることがあるなら、そっち優先で良いだろ」


「申し訳ありません、出来る限り早急に対応してまいります。

 どうかわたくしの事は気になさらずに。

 何かご用があれば中央のベルをお使いください」


 カサンドラは大変申し訳ないという心咎めの様子で頭を下げる。



 ……ええええ?



 そんな様子を唖然として見つめるリゼの心は大嵐そのものだった。

 つい今しがたまで頼りになるから同席してくれて嬉しい! と思っていた当の本人が颯爽と身を翻し、部屋から出て行こうとするではないか。


 出来れば彼女に傍にいて欲しい。

 この長時間の間に浮ついて何かやらかしそうな自分の心の重石になっていて欲しかった。


 だがこちらの動揺など委細気にせず、勉強用具はそのままにカサンドラは静かに部屋を出て行く。

 それを留める言葉も、理由もリゼには思いつかずに引きつった笑顔のまま見送るのみだ。


 扉を閉める直前のカサンドラと、目が合った。

 形の良い唇を彼女はハッキリと動かす。



  ”頑張ってくださいね”



 声に出ないよう口元の動きだけでリゼを激励して――無慈悲に扉を閉じて去って行った。



 そんな馬鹿な、と全身が怖気に震える。



 あんぐりと口を開けるリゼの心境は彼女には全く伝わっていないようだ。



「じゃ、続きやるか。

 早く終わらせないとアイツにも迷惑だろうしな」


「そ、そうですね…」


 こんな風に二人になったところで、勝手に意識して気恥ずかしくて頭を抱えたくなるのは自分だけ。

 彼は全くこちらの存在など気にしていない、それこそ家庭教師の一人が隣で待機しているかのような無関心ぶりである。

 それだけ目の前の宿題に集中しているのだろうが、何とも複雑な気持ちだった。

 

 全く事前の覚悟もない状態で二人きりになってしまったリゼとジェイク。

 しーんと静まり返った部屋の中央に、ぽつんと二人。

 その異様な光景に今更、頬にカァッと朱がさしそうでもう一度震える指でジュースを一口。

 誤って小さな粒の氷まで一緒に呑みこみ、予期せぬヒヤッとした感触が喉を通り胸元を内から冷やし落ちていく。


 自分ばかり内心でドタバタしているのは情けない事だ。

 色々とイメージトレーニングしてきたはずなのに、いきなりカサンドラという大前提の存在が姿を晦ましたのだから大変困ってしまう。

 どれだけ自分はあの人に頼っているのだと自嘲したところで、もう遅い。

 既に賽は投げられてしまった。


「……んー……」


 少し呻ってペン先を人差し指で叩くジェイクの手元を注視した。

 覗き込まなくても、少し首の角度を変えれば彼の書いた文字はすぐに目に入る。


 先程も思ったが、綺麗で読みやすい筆致であることに動揺してしまう。


 この性格で! この武骨な手で!

 こんなにも読みやすい綺麗な字を書ける……だと?

 そのギャップに心に矢を刺され、リゼは顔を覆いたくなった。


 彼の育ちを鑑みれば決しておかしくないことだ。

 なのに、たったそれだけの事でドキドキする。


 意外性さえ、 ――好き! となる自分が怖い。


 もしも印象通り字が汚かったとしても、それはそれで彼らしいと納得したはずだ。そしてそういう部分は可愛いなぁと思っていたに違いない。

 書いた文字が蚯蚓ミミズがのたくったような字でもリゼは全力で解読してみせる自信があった。そのケースも十分覚悟していたのだ。


 でも読みやすく字が上手な印象とのギャップにも胸を詰まらせてしまう。


 ……この矛盾した感想、どうあがいても彼の事を好意的にとらえてしまう現象。

 外側から見たら自分はおかしい、どこか狂ってしまったのだと判断せざるを得ない。


 ここまで自分の思考が一貫性もない状態に支配されることになるとは、半年前の自分に言ったら鼻で笑ってしまうに違いない。


 ふと、彼の手元からそのまま腕、肩、首、顔にゆっくり視線を持ち上げる。


 隣に座っているからこそ良く分かるすっきりした目鼻立ち、太い首筋に喉仏にも心が騒ぐ。

 ……駄目だどの角度から見ても格好いい……!


 自分はもしかして面食いだったのだろうか。

 だが、他に綺麗だと皆に絶賛される美形の王子やラルフ、シリウスらを見ても特に何とも思わない。

 絵画を見て「きれいだねー」というレベルか。遠巻きで客観的な感想しか湧いてこないのだ。


 ジェイクは別だ。

 姿を見ているだけで自分の正体がなくなるんじゃないかというくらいドキドキする。


 顔を見ていると心臓が働き過ぎてその内ストライキを起こしそうだ。

 こんなに近くで遠慮なくまじまじと眺める機会が次にあるのかどうかわからないが、顔をじっと見られても彼も落ち着かないだろう。

 だからリゼの蒼い目は、再び降りていき彼の手元に向かう。


 スラスラと黒い文字が連なっていく様子を微動だにせず一点集中で見つめていた。

 だが、それはそれで彼にとっては妨げになったのかもしれない。


「……? 誤字でもあるか?」


 彼は首を傾げ、もの問うてくるではないか。


 しまった、ガン見しすぎた……!

 パッとジェイクが書いた文字列を把握するが、特に指摘するような箇所もない。


「そういうわけではないのですが」


「間違ってるなら言ってくれな」


 そりゃあ、リゼ本人も自覚できるほどじーっと見入っていたのだから不審に思われても当然か。

 意外にも字が綺麗だったから驚いていましたというのも、聞きようによっては失礼に思われるかもしれない。


「……いえ、その……

 やっぱり手が大きいなぁと思っただけで」


 何を口走っているのか、と。秒速で自分で自分に突っ込みを入れた。

 確かにそれは本音の一つだが、今言うことでも無いだろうに。


 何かしらの返答を迫られた時、人は焦るととんでもないことを言い出すものだ。

 心にもない事を言うことは出来ない、実際に思っているのだから油断するとこうして口を突いて出る……!


 顔を覆って、今の無し! と叫びたかった。

 何も指摘することがないというだけで良かったのに、宿題の内容に無関係なことを言ってしまったことを後悔した。


「手? お前と比べたらそうだろうな」


「……ですよね」


 はは、と愛想のように笑うしか出来ない。


「手か……こればっかりはしょうがない。

 フランツもお前の手が小さいのが気になるみたいでな、持ちやすい剣を造らせるとか。なんか張り切ってたぞ」


「ええ!?」


 たかが学園の一選択講義で指導をしてくれている担当教官が、そこまで親身に……?

 リゼに対して善くしてくれる理由が思い至らず、頭の中は疑問符でいっぱいだ。


「アイツ真面目な奴が好きだからな。

 ――そうは言っても見込みがなかったらこうまで入れ込まない。

 期待されてるんだろ、良いヤツ用意してもらえよー」


「私でも使いやすい剣、ですか」


 リゼは己の両の掌を机の上で開いて眺める。


 肉刺はもう治っているものの、畑作業をずっと継続して手伝っていたリタよりも手の平や指先が荒れている気がする。

 剣術の指導は想像以上に手に負担がかかるというのは体験済みだ。

 軽めだという今使用している模造剣でもリゼには柄が太く、思うように扱うのは難しい。

 フランツの心遣いに正直感動した。夏休みでも毎週のように厳しく叱りつけつつも指導してくれる有難い存在。


 ――普段大人を頼ることのない環境だったから、親以外で自分をここまで気にかけてくれるフランツのことは頼もしさしか感じない。

 自分と同じくらいの歳の子がいると言っていたが、その子がちょっとうらやましい。

 筋金入りの凄腕の剣士と田舎の農民を比べるのは己の父に申し訳ない事だと分かっているけれど。



 この手にもしっくり馴染むような剣、か。

 でも剣っていくらくらいするのだろう、相場がちっともわからない。


 学園に関わる貴族達の金銭感覚が理解できないリゼは、開いた手の先を震わせる。

 高価すぎるものを受け取るわけには……


 そんな戦慄く自分の左の掌に、急に何かが覆いかぶさった。


 一瞬何が起こったのか分からず状況把握が出来ず硬直する。

 だが自身がじっと眺めていた掌の上を完全に覆う、もう一人の大きな厚い手の存在を知覚した瞬間。

 悲鳴を喉の奥に押し殺した。


 咄嗟に開いている右手で、自分の口を塞ぐ。

 変な声が漏れ出ないように。


「まぁ、二回りは違うしな。

 これだけ小さかったらそりゃ持つのも大変だ」 


 それは手の大きさを確認するためだけの、手の付け根を合わせて広げただけだ。

 指先の一関節分はあろうかという二人の手の大きさの差を左の親指と人差し指ではかり――

 「ほらな!」と。長さの差分を表した指先を、楽しそうに目の前に持って来る。


 確かにそうやって指と指の空隙を見れば二人の手の大きさの差は歴然だ、納得できる。

 ……できるけど!


 その差を測ったことに満足し、彼はすぐに手を離して再度宿題の続きに取り掛かる。

 リゼの心境を可能な限りごちゃごちゃに掻き乱し、呆然とさせた事など何も無かったような態度に二の句が継げなかった。



 いや、待って。


 そもそも手の大きさ測るなら他にやりようが……



 時間にすれば僅か数十秒、いや、十秒もなかったかもしれない。


 だけどこの手は、まだしっかりと覚えていた。


 一学期の最後、彼と一緒に社交ダンスの練習相手に声を掛けてもらった事。

 その時触れた手の厚みを、節くれ立った指の固さを、その熱を。




 その場に顔を伏せ絶叫することが出来れば、このやり場のない感情を発散してスッキリするのだろうか。


 これだから貴族は! と、彼にしてみれば心外だろう表現がつい心の中に浮かんでしまう。


 リゼはパーソナルスペースが比較的広い方の人間だ。

 意味もなく他人と近づくのは苦手だし、集団で物事にとりかかることも好きではない。

 だからそういう、挨拶程度の触れ合いが全く馴染めないのだ。


 社交ダンスの時も思ったが、貴族の皆さんはどうしてこうもパーソナルスペースが狭いのか。

 舞踏会やら何やらで異性同士普通に手を繋いだりするような社会で生きている人たちだ、自分の理解が及ばないのはしょうがない。



 でも不意打ちは困る。

 予想外に大きすぎる幸せ感を抑えきれない自分は、今、絶対耳まで赤い。


 ――ヤバい。



「ジェイク様、先にその部分だけ終わらせてくださいね。

 次の単元の資料の準備、しておきますから」



 彼がこちらに向き直って話しかけてくることが無いよう祈りながら、声帯を震わせる。

 ジェイクの座っている左側の腕で頬杖をつけば、こちらの表情は隠せるはず。




  鼓動よ鎮まれ。落ち着け。



 リゼは歯ぎしりをする寸前まで食いしばり、右手で既に氷の溶け切った味の薄まったオレンジジュースを口に運んだのである。

   


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