第148話 <リゼ 2/2>


 カサンドラはまだ戻ってこない。

 何度扉の方に視線を馳せても、扉が動く気配さえ窺い知ることが出来なかった。


 前触れなしのジェイクの行動に動揺しつつ、せめて彼女が戻ってきてくれればこの感情を誤魔化せるのではないかと念じてみるリゼである。

 だが無情にもこちらの救いを求める切実な心の訴えは、この場にいないカサンドラに届くことは無かった。


 じん、と掌が熱を持つ。


 まだ左手が自分のもの以外の体温を帯びているような気がするが――

 そんなの気のせいだ、と。心を落ち着かせるため、頬杖を解く。


 じっと自分の手を見ても当然、何の変わりもない見慣れた手があるだけ。

 小さくて薄い手、それを恐々こわごわと握っては開いてを繰り返す。


 横を見ると彼も真面目に宿題を続け指を動かし続けている。しばらく無言の時間が部屋を覆った。


「よし、こっちは終わったから次は何だ?」


「了解です、一応目を通しておきますね。

 先に文章穴埋め問題、やっておいてください。

 参考資料はここです」


 彼の手で書かれた宿題用の冊子を、掌でズイッと自分の眼前に引き寄せる。

 その代わりに、数ページにも渡る授業中に何度も教え込まされた文章、特に法律関連の穴埋め形式の問題を彼の前に置く。

 ついでに分かりやすいよう、教書のページも既に開いておいた。


「先は長いなー」


 辟易した様子のジェイクだが、まだ始まって三十分くらいしか経っていない。

 とりあえず面倒なもの、そして簡単でスラスラできる内容などを交互に取り組むことで集中力を長引かせる作戦に出た。

 思考の転換で気分も変わる事だろう。


「分からないところは聞いて下さいね」


 彼の文字を目で追う。気を緩めるとニヤニヤしそうになる頬を片手で押さえながら。

 一緒に勉強をしたり、授業の席が隣でもなければクラスメイトの字を見る機会はない。意識的に「誰々の字」と気に掛けることもないだろう。

 新しい発見に胸が弾む。


 リゼの字は少々丸っこい癖がある字だ。あんなに大量の文字を書いたノートをプレゼントしたのかと少し恥ずかしくなった。

 ノートに書く時には出来る限り読みやすいように書いたつもりだが、彼に下手な字だと思われていたらと想像したら肝が冷えた。


 特に文章や内容にリテイクが必要な個所はないようだ。

 リゼは冊子を開いたまま、広いテーブルの上で当面勉強の邪魔にならないところに暫定的においておく。

 記述式の宿題はもう一問ある、休憩が終わった後に取り組むようにして……


「なぁ、これの空いてる箇所ってなんだ? 遡及か?」


「そうです、で、こっちの地名はエリューズで合ってます。

 法の遡及が駄目って原則がありますけど、これはエリューズの法官がやらかした告発案件で――」


 一学期に習った事なら頭に入っている。

 選択講義で座学を選んでいないので、その他の専門的な知識を掘り下げた知識は未修得だ。それは惜しい事だと思う、専門家の持つ特別な知識を無償で教えてもらえるなんて夢のような話なのだから。


 だが掘り下げた話を聞かないことで、試験対策がやりすいという側面もあった。

 試験の範囲は授業範囲で、その他の趣味や好奇心、教養のために受けた講義の知識は関係ない。


 勿論物凄く興味はあるが、リゼの選択講座の履修状態は体術と剣術でほぼ埋まっている。

 たまに気分転換がしたいと頼み込んで座学を受けさせてもらうことはあったけど、それも数回の事だ。

 ああ、いつかしっかりと腰を据えて好きな講義を受けたい……!


 ふんふん、と彼は頷きながら空欄を埋めていく。

 決して内容が分からないおバカな生徒ではない。時間ややる気の問題なのだろうが、まぁ本当に優秀な人はそういう多忙な中でも勉強もおろそかにしないはず。

 きっとジェイクは座って物事に集中するのが苦手な性状なのだ。


 空欄問題も終わり、良いペースで消化できている。

 時間がなく、どうしようもなくなったら自分の宿題を写せるように持ってきた。こちらはどうしても間に合わない場合の最後の手段だ。

 夕方になっても終わりそうになかったら、写しても問題がないものだけ写してもらおう……


 比較記述課題などは流石に自分の言葉で書いてもらわないと写しがバレて問題になりそうだ。




「少し休憩しますか?」


 時計をチラと見上げれば、もう一時間以上経過している。

 黙々と、淡々と。

 予想以上にスムーズに進んでいるが、人間の集中力はそう何時間も持つものではない。

 適度な休息も必要な事は身を以て知っているリゼである。


「はぁ、そうする……

 ホント、付き合ってもらって悪いな」


 彼は椅子の背もたれに体重を預け、両手を天井に向け突き上げる。

 そして凝った肩を自分の手で何度かぐっぐっと押し込んでほぐしていた。


「いえ、こちらこそ色々……便宜をはかっていただいて」


 便宜、という言葉の手前に彼の馬に乗せてもらったという出来事が口から飛び出しそうになって焦った。

 こんな状態であの日の事を思い出してしまっては、恥ずかしさの余り息が出来なくなってしまう。あの時は情けなさや悔しさの方が勝ったけど、本当にこの人の馬に乗せてもらっていた事を思い返すと赤面しそうだ。


 ペコっと頭を下げると、彼はこちらを無言で眺めているのでギクッと肩を揺らす。

 こちらを穿つような鋭い視線に晒され息を呑んだ。


 橙色の双眸にハッキリと注視されているのだと思うと、まるで身体全体が金縛りにあったように動けなくなったのだ。


 手を膝の上に置いたまま、彼の様子を伺うような格好で静止中。

 不備や不満でもあったのかとビクビクしてしまうリゼである。

 

 何かあるならはっきり物申して欲しいと思う反面、彼に拒絶の言葉を掛けられたらと想像するだけで身の毛が弥立つ。


「リゼ、お前さ」


「は、はい!?」


 彼はトントン、と指先で樫作りの頑丈なテーブルを叩く。

 その指圧は強く、かなり大きな音が響いた。


「バイトとかしてるのか?」


「……いえ、今は特に」


 急に何を言い出すのか、と目を丸くした。


「アルバイトはした方が良いと思ってますが、早々都合の良い話もなくてですね」


 リゼもつい顎に手を添えて渋面を作る。

 ジェイクの誕生日の時にも、そして今も痛感しているが自分には自由に使えるお金が足りないと思う。

 万年金欠状態を解決するにはどこかに臨時で雇ってもらって給金を得るのが最も手っ取り早いことだ。

 学園も公序良俗に反しないものなら働くことを容認してくれる。


 そもそも王子やジェイクだってしっかり自分の立場を全うするため働いているのだから、一般生徒のアルバイトは駄目という制限もないわけで。


 ただ条件が良いバイトなんてそうそう自分に回ってくるわけがない。

 世の中には自分と同じ年で学校に通わず、長時間働ける青少年はいくらでも存在するのだ。


 敢えてリゼのような時間に制限があり、特殊な能力もないただの生徒を雇うような酔狂な職場など滅多にいない。

 あったとしても、何だか怪しい。

 

 小遣い稼ぎをしつつの学園生活というのは、口で言うよりも遥かに難しいものだと痛感しているところである。


「……嫌なら断っても良いんだが……

 お前、家庭教師のバイトする気はないか?」


「私がですか? うーん、それは一考に値すると思いますが……

 需要ありますか? ないですよね?」


 貴族の子女が学園に入る前に家庭教師を雇うのは一般的な話だ。

 だがその道のプロ、教養を積み重ねた専門の講師を雇うのが普通。ただの一生徒、それも実績のない特待生を雇う家があるのだろうか。


 貴族ではない子供を対象とした働き口かも知れないが、金を出す以上はそれなりの成果を求めるだろう。

 そういう上流社会の生活に慣れていない自分が全うできる職とは思えない。


「雇うのは俺だが」


「……え?」


「正確にはお前を雇いたいって言い出したのは――お袋なんだよ」


 どういうことだ。

 一瞬思考が遠い空の向こうへ跳んで行ってしまったのだが……?


 話をよくよく聞いてみると、ジェイクの母であるロンバルド侯爵夫人はジェイクの一学期の成績を聞いていたく驚き喜んだらしいのだ。

 絶対赤点だろう補修だろうと思われていた子が結構な成績を叩きだしたのだから、普通の親なら嬉しいことは想像できる。


『シリウス君に教えてもらったの!?』


 なんて事細かな追及を免れることが出来ず、立役者がクラスメイトだという話をしてしまったせいで――夫人は二学期以降も勉強を見てもらうよう都合をつけてもらえと言い出した。

 クラスメイトを家庭教師になど非常識な話だから嫌だと言うものの、夫人は聞く耳を持たない。


 タダで教えてもらうなど無償労働を強いる事、他人様が聞いたら眉を顰めてしまうだろう。

 ちゃんと雇用契約を結んで定期的に見てもらうように、というのが夫人の言。

 要するに責任を紐づけろと。


「勿論お前が今働き口があったり、面倒なら断ってくれていいからな。

 そこまで手間かけさせるのはどうかと思う」


 ジェイクは母親に言われたから、こうして提案してくれている。


 だから本音は必要ない、断って欲しいと思っているのかも知れない。

 彼はそんなに勉強することが好きではないようだし、定期的に勉強を強いられる時間があるのは絶対に嫌だ! と考えている可能性は捨てきれない。


 でも、もしも本当に嫌だったら。

 こんな提案自体リゼにしないのではないか。

 無かったことにして握りつぶせばいいだけの話では?


 緊張して喉がカラカラなのに、もうグラスの中は空っぽ。

 ひりひりと焼け付くように、喉が痛い。


「ジェイク様はどうお考えですか?

 いくら雇用条件が良かったとしても――当人のやる気がなければ、雇ってもらったとしても見合うだけの成果を望めないでしょうし」


 家庭教師を務めるとはいっても、実際に机に座って頭を働かせ”勉強する”のはジェイクだ。

 いくら大金を積まれようが一緒にいる時間が増えることになろうが、彼が嫌々首輪で繋がれる想いで苦痛の時間を過ごすことになるのなら……


 嫌だな、と思った。


 本人の意思が全く無いのに、嫌な時間という認識で一緒にいるのは嫌だ。

 第一、嫌々やらせたところで報酬に見合うだけの成果を出せないだろう、ただの給料泥棒だ。


「今日も散々俺の用に付き合わせてこんな事言うのも図々しいよな。

 だけどお前教えるの上手いし、都合がつくなら頼みたい……っていうのは本音だ。

 嫌だったら最初からこんな話持ち掛けないって」


 ここで嘘をつく意味もないか。

 そう言ってもらえるのなら、果たしてこの話を受けない理由が逆にあるのだろうか。


 内心の興奮を必死で隠し、リゼも真面目な顔で彼の顔を見据える。

 これは天が与えてくれたチャンスだ。

 いや、これについては自分が最初に起こした行動が起点になっているものか。


 自己満足だと割り切っていたことが、彼にとっての役に立っていたならこれほど嬉しいことがあるだろうか。

 ――天は自ら助くる者を助くのだ。


「そのお話、詳しく教えてください。

 バイト先が決まるなら、私もとても助かります!」


 しかも雇い主がロンバルド家という、こんなに安全安心な雇用主などそうそうない。


 定期的にジェイクに会う時間が約束される上、給金ももらえる……だって……?

 むしろタダでも喜んで受け入れたいくらいの話ではないか。


 勿論金銭授受が発生することなら自己満足で終わらせるわけにはいかない。

 彼の二学期以降の成績について、一定の責任が伴うという事だ。それは洒落では済まないこと、ロンバルドの夫人が一枚噛んでいるなら猶更だ。



「ホントか!? ……ありがとうな、助かる!」



 そう言って心底嬉しそうに彼が笑ってくれたものだから、その瞬間自分がその光輝に当てられてジュワッと浄化してしまったのではないかと錯覚した。


「ジェイク様でしたら、私でなくとも誰でも教えてくれそうなものですけど……」


 彼が一声掛ければ、喜んで殺到してくる生徒の群れが容易く想像できる。

 それこそ同学年だけではなく、上級生からも挙って集ってくるに違いない。

 単なる同級生と言う以外繋がりもない庶民の自分に声がかかるのは結構不思議な話だ。


 すると彼は厭そうに眉を顰めて口を尖らせる。


「信用できないだろ、どんな見返り目的かも分からないからな」


 そういうものなのだろうか? まぁ、本人が言うならそうなのだろうが。

 あまり恩に着せられたくないという彼個人の事情も多分に絡んでいそうだ。


「私は良いんですか?」


「あのノートは滅茶苦茶有難かったし、現に結果も出てただろ」


 ……ということは自分は完全に無欲のボランティア精神溢れる人間と彼に評価を受けている――ということになる。


 人が下心を持って媚びて近づくことを嫌がるのに、そんなに簡単にリゼを信用して良いのだろうかと相手の事ながら心配になる。


 リゼだって下心が無かったわけじゃない。


 むしろ下心の塊だ、彼に何とか喜んでもらえる誕生日プレゼントを考えた末出来上がったものだけど……


 ジェイクの役に立ちたいだとか、喜んで欲しいだとか。

 そういう気持ちが下心にカウントされるとするなら一番信用してはいけないのはリゼ本人。リゼと同じように善意の皮を被って近づいてきた女性に騙されないか不安になってきた。


 全く他意の無い、単なる世話好きのクラスメイト扱いを受けていることは複雑な想いである。

 ジェイクに対して何の『見返り』も求めていない、そういう部分を信用してくれているならかなり心苦しい。


「では二学期の事は後で考えましょう。

 今は残りの宿題を終わらせないと、ですね」


 壁時計を指差してリゼは言う。

 眉間に皺を寄せ、彼は渋々ながらも再度ペンを手に取って目の前の冊子に視線を落とす。




 ……見返り目的、かぁ。




 別に大金が欲しいだとか就職斡旋してくださいだとか、何か自分にとって有利になるよう便宜をはかって欲しいとは思わない。


 逆だ。

 そんなものが彼の周囲にあるのは、邪魔だとさえ思う。




 ふふ、と自然と笑みが零れた。



 彼と同じ空間にいる時間が、増える。

 一緒にいる正当な『言い訳』が出来る。



 こうやってジーッと眺めていても咎められることがないなんて楽園だ。

 幸せ過ぎて頭がどうにかなってしまいそう。

 



「じゃあ私も頑張らないと……!

 シリウス様にだって負けるわけにはいかないですね!」


 俄然やる気がわいてきた。

 人に勉強を教えるということは自分も今以上に授業内容を理解していなければいけないし、その中で知識や記憶も定着しやすくなるだろう。

 教える相手がジェイクだとしたら猶更手抜きなんかできやしない。



 二学期の剣術大会のことも視野に入れ、やらなければいけないことは沢山あった。

 カサンドラが言うには自分はその大会で上位に入賞しなければいけないと確信を以てリゼにアドバイスしてくれている、それを裏切るようなことも出来ない。


 今まで以上にハードな日常生活になりそうだが、むしろ期待感の方が遥かに強い。




 不退転の決意でリゼは拳を握りしめたのである。



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