第145話 <リタ 2/2>


 劇の幕が上がると同時に、否が応でも舞台裏の緊張感と熱気が比例し上がっていく。


 リタは劇の進行について全く分からない門外漢なので、忙しく駆け回る裏方たちの様子を固唾を飲んで見守るだけである。

 最後の方に剣舞のシーンがあって、その後ヒロインが死んじゃってー、と軽いノリでシェリーが教えてくれた。まさかの悲恋話で驚いた。


 こんな切羽詰まった時に指示を仰いで動くというのは邪魔になるだけだ。


 重たいものを運ぶ時や使用済で今日はもう出番のない衣装や道具を邪魔にならない場所に移動させる時に率先して手を挙げる他、リタにできることはない。

 台本の一冊もなく、台詞を万が一演者が忘れた時に舞台袖でフォローするような役も無理。何に助けにもなりはしない。


「次! 背景の準備は!?」


「並び順がおかしいでしょ、リリー、前に出て」


「次幕まで五秒ーー! きゃーー! 中央に飾り落ちてる! 誰か拾ってええええ!」


 決して広くない舞台裏は衣装替えやら出番待ちやら、それは多くの人間でごった返している。

 歩けない足に苛々しながらも、的確に指示を出して何人もの団員を動かすシェリーは凄いなぁと思って尊敬の眼差しだ。


 ここまで来れば、足を引っ張らないよう静かに成功を祈る他ない。


 だがリタが心配することはない。

 彼らも何度も本番さながらのリハーサルを繰り返してきたプロの集団である。

 多少手間取った箇所があったものの大きなトラブルもなく、予定調和的に劇は進行していった。


 良く透る男性の声、まさに芝居がかった女性の声。

 シーンに合わせ奏でられる音楽は、劇そのものの臨場感や雰囲気を高めるために控えめだがメッセージ性を込めた響きだ。

 ピアノの旋律が耳に触れる度に背筋がゾクゾク戦慄わなないた。



「最後の背景!! 早く入れて!」


 幕が一度降り、演劇のラストのシーンに移るところだった。

 あっという間だったなぁ、とリタは時計をチラっと眺めて一息つく。


 背景のシーンは舞台上に予め何枚か重ねて置いて、使用順に一枚一枚表から仕舞っていくようにしている。その方が楽だから。


 だが最後の大河の背景に限っては、途中何度か使用するものだったのでシーンごとに直接運び込んでいたものだ。

 つい一時間前に使用した重たい背景板を、幕が降りている間にもう一度速やかに運びいれることになる。


 一枚板の背景は大変重たく、一人で運び入れることなど出来ない。


 力仕事なら任せて欲しいとリタはその板をもう一人の道具係の女性と一緒に運び入れる手伝いをした。


 置き場所の位置を確認し、よし、と手を離した瞬間――

 グラッと背景の板が揺れた。

 上手く立たない。


 舞台は広く、決してこの一枚の板だけで全てを覆うことはできない。

 リタ達が運び込んだ背景板は舞台右半分に設置するものだったのだが……


「……えええ!?」


 恐る恐る足元を見ると、この重たい背景をしっかり支えるはずの土台に亀裂が入っていたようで。ぱっきりと完全に折れて役に立たなくなっている事に気が付いてしまった。


「ど、どうしたの?」


 運び込むのを手伝ってくれた団員も、足元を眺めて顔を青に染めた。

 厚く重たい板を支えるには、相応の土台が必要だ。

 表と裏の下端で、L字型の木で支えるはずのその土台が完全に折れ役に立たず、上部がゆらゆらと傾ぐ。そのままバタンと後ろに向かって倒れる寸前だ。


 リタは倒れて来ないように腕で重たい板を支えるけれど、支えがなくなれば――不安定に揺れ、果ては前後どちらかに倒れてしまうだろう。

 かと言ってこのままリタの体重を腕に掛け支えても、力を込めて押しすぎれば逆に背景板を前方に倒しかねない。


 そちらの方が不味い。

 このまま幕が上がって舞台の前で演技をしている演者たちにこんな重たい板が背後から倒れ込んでしまっては怪我ではすまない可能性も……


 幕が上がる時間は刻一刻と迫っており、異常に気付いた舞台袖の団員が騒ぎ出す寸前。




 リタは覚悟を決め、背景板の裏側に横、縦、斜めと規則的に打ち付けてある細長い木の板を掴んだ。

 大きな一枚の板が撓ったり歪んだりしないよう補強のために裏から打ち付けている細長い板。

 強度補強のために打ち付けているもので、決して裏から誰かが持って支えることを念頭にしたものではない。


 だからリタが掴もうとしても全力で手の指を広げないと掴みきれないほど幅がある。

 

「駄目だよ、倒れてきたら……あなたが潰れちゃう……!」


 このシーンが終われば終幕だ。

 あと何分だ、二十分か? 三十分か?


「でも今更作り直しなんて出来ないだろうし、お願い! このまま続けてもらって……!」


 ここで一分二分遅延させたところで、本格的に支えを付け直すのは難しいだろう。

 どのみち誰かが裏で支えて背景を誤魔化すしかないのなら、このまま時間通りに進めてもらった方が良い。


「大丈夫、このくらいなら。

 私、力仕事には自信があるし!」


 不安そうな表情の道具係の女の子は、足元に転がる折れて意味をなさなくなった支えの土台を回収し、舞台袖まで走る。

 困惑する進行役に耳打ちをすると、彼女の「正気か?」という驚愕の視線を横から浴びた気がした。


 ………指と指の間が痛くて力を込めるのが難しい。


 でもこれを複数人で支えるのも、力加減の関係で困難だと思う。

 

 少しでも力を込めすぎれば背景板ごと前に倒しかねない。その大惨事を避けるには、最悪自分が下敷きになる覚悟でこちらから支えるしかないように思えた。

 冷静に考えたらベストの危機回避方法は他にあったのだろうが、とにかく切羽詰まっていたのだ。


 大変だな、演劇って!

 十秒二十秒、そんな厳しい時間制約の中で忙しなく動き回らないといけない。


 進行が僅かでも遅れればその分、劇全体のリズムも悪くなる。裏でゴソゴソ用意する時間は最低限におさめる必要があるのだと実感した。

 舞台裏での演者の早着替えには感動さえしたものだ。


 彼らの努力を遮ってたまるものか。

 

 右手は縦板、左手は板の中間部を補強するため打ち付けられた横向きの板。それらをぎゅっと掴んだまま、リタはしばらくの苦行を覚悟した。




 時間通りに幕は再び上がり、最後のシーンがこの板の前で繰り広げられているはずだった。

 大勢が動く音が聴こえる、台詞も聞こえる。


 何人も剣舞のためにドスドスと舞台上で飛び跳ねるものだから、その小刻みな振動に板を支える指に伝わり擦れて痛い。

 半分涙目になりながらも、まさに「裏」方状態でリタは必死に時間が過ぎゆくのを待ったのだ。


 その間聞こえてくる音楽、とりわけピアノの音だけが救いだった。


 ヒロインが死んでしまうらしい最期のシーン。

 演者の悲痛な絶叫と、それに重なり覆いかぶさってくるピアノソロ……! 

 聞いているだけでも指がこんがらがってきそうな速度で、高音低音を織り交ぜ見事にその悲しみや絶望を表現している音楽。

 その曲の調べとリタの「早く!! 終わって欲しい!」という内心の絶望さえ見事に包み込むような演奏であった。


 今まで生きてきて、ここまで音楽の表現したい感情と己の心境がシンクロした瞬間があっただろうか。いや、ない。



 指に、腕に力が入らなくなってきた。

 ここまで来たら最後まで耐え抜いて、今日一日の演劇をつつがなく「成功した」という思い出で終わらせたい!

 体力を振り絞って己を押しつぶさんと倒れ掛かってきそうになる板を支え、リタは幕が降りる最後の瞬間まで耐えきったのである。





 ※




「おい、大丈夫か!?」


 顔面を真っ青にしたオジサンが、リタの身体を引っ張る。

 ふっと指先から重みが消失し宙を掻いた。


 が、支えを失って倒れるはずの背景板は数人の裏方役に持ち上げられ、そのまま舞台上から「えっほ、えっほ」と運びだされる。



「まさか支えが破損するとは……今まで何ともなかったのに」


「ああ、多分それ、昼間にオジサンが叩いたからじゃないですか?」


 シェリーが怪我をして十全に動けないという報告を受けた時、彼は確かにあの大河の背景板を衝動的に叩いたはず。その勢いで亀裂が入った可能性を考えた。

 支える途中にその場面を思い出し、ちょっとだけ恨んだリタである。


「あっ」


 一度、二度使った時は問題は発生しなかった。

 だが最後の最後、何度も背景板を入れ替える途中、亀裂の入った木の土台が破損してしまったのだと思われる。


「そうか……嬢ちゃんには迷惑かけたな。

 本当に済まなかった」


 ははは、とリタは力なく笑い両手をブラブラと横に振る。

 確かにこんな風に体力を振り絞る何かが起こるなんて思ってもいなかったが、何とかやり過ごせたならそれでいいではないか。

 他にもっとスマートな回避法があったとしても、こうして無事に幕が下りたのなら。

 お前の頑張りなど無駄だったと言われたって、別に構いはしないのだ。


「何とかなって良かったです、お疲れさまでした」


「……とは言ってもなぁ。ここまで手伝ってくれた嬢ちゃんに何もしないわけには……

 金を払うっていうのは難しいが、片付け終わったら団を挙げての打ち上げがあってな。

 良かったら一緒にどうだ?」


「わぁ! 是非是非!」


 お昼もご馳走になった上に、更に団員同士内輪の打ち上げにも混ぜてくれるという。

 それはとっても嬉しいお誘いだった。

 とにかくこの招待客に披露する初演に関しては、毎回緊張の綱渡り状態だと彼らは言った。



「なーに言ってるの。

 それだけで礼になるわけないでしょうが!


 ………。リタ、ちょっとこっち来なさいな」



 シェリーは熊のように大きな裏方リーダーの背中に、診療所から借りた杖の先をぐりぐりと押し付ける。

 「元凶はお前か」という精一杯の苛立ちを杖の先に込めて。美しい眉間に皺がくっきり浮かんでいた。


「……私ですか?」


「ええ、そうよ。

 貴女にお礼がしたくって」



 別にお礼何て良いですよ、と辞退しようとするリタ。

 何かが欲しくてここにいたわけではない、中々得難い体験もできた。

 それに何よりラルフのピアノの演奏も聴くことが出来たのだ。

 落ち着いた環境で聴けなかったのは大変残念だったけれど、予期せぬ出来事、幸運とすれば素晴らしいものだと思う。

 これ以上を望めば罰が当たるような気がした。


「貴女、劇が始まってからチラチラ女優――いいえ、ドレスを見ていたじゃない?

 そういうの、興味があるんでしょ?」




 ※




 誘惑に打ち勝てなかった自分が情けない……!


 と、鏡の前に座らされたリタは肩を落とした。

 劇という催しが終わった直後だというのに何故か化粧係のお姉さんに髪や顔を弄られている。


 確かに劇の最中、豪奢な衣装に身を包んだ女性演者をボーッと見てしまったこともあったかも知れない。

 劇に使う用の衣装だから派手で目立つドレスを纏って舞台に立つ彼女達は凄いと思った。

 ……羨ましいとも、ちょっと思ったかもしれない。


 シェリーを始め、裏で作業をする団員は皆シャツにズボンという色気も素っ気もない動きやすい服で延々と作業に明け暮れている。

 対して彼女達は演技のために煌びやかな衣装を纏って皆の注目を浴びるのが仕事なのだから。


「いやー、今日は本当にありがとうね!

 っふふ、実は私がシェリーにお願いしたのよ、貴女の顔を作りたいって」


 ぼさぼさの黒髪をひっつめに適当に纏める、背の高い眼鏡のお姉さんはシェリーと同年代かもう少し年嵩の女性に見える。

 彼女はウキウキと楽しそうにリタの顔を化粧で塗りたくって、鼻歌まで聞こえてくる始末だ。


「元の顔が可愛くて癖がない子って素敵ね……!

 腕が鳴るのよね! 女の子だもん、可愛いカッコには興味あるよね!」


 シャルローグ劇団に雇われた化粧係は、まさにその道の職人だ。

 ニコニコ笑顔ながらも手の動きは別の生き物のように素早く、呆気にとられるリタの顔を一筆で撫でて変えていく。


「目を大きく見せるのが大変なんだけど、貴女みたいに最初っから大きいとやりやすくて良いわぁ」


 はぁ、どうも。


 リタは曖昧に笑う。


 あまり自分の顔に自信はない。

 不細工だと罵られるほどではないけれど、可愛い子や美人な女子生徒がデフォルトの学園内にいて自信が持てる程神経が鋼鉄で出来ているわけではなかった。

 十人並みと言う言葉がこれほどあてはまる容色もあるまい、と良く思う。


「舞台に上がるわけじゃないし、自然な感じでね」


 そう言って彼女が”作って”行く顔をジーっと鏡の中で眺めるリタ。

 ナチュラルメイクなどと謳っているがゴテゴテと色んな粉を塗りたくられている気がする。ナチュラルとは…?


 ………時間としては恐らく十分も経っていない。

 でも、ふと自分の顔を客観的に眺めると……



「――誰!?」



 自分でも叫んで立ち上がってしまうくらい、鏡の中の自分はまごう事なき美少女であった。

 睫毛が長い! 肌が透き通って白く見える! 目が大きく見える!

 口元の印象が全く違ってお淑やかに見える……!


 何これ!

 化粧でここまで人相さえ変わるのか、全くの別人ではないか。

 食い入るように鏡の中を凝視する。


 メイクの可能性、女性の変わりざまにリタは恐怖さえ覚えた。


「後はー、長~いウィッグと、合いそうな衣装を着てみない?

 お姫様みたいになれるわよ~」



 化粧師さんの少しねっとりとした声が耳元に触れる。

 ふふふ、と楽しそうな彼女の言葉の誘惑に抗える気がしない。



 だってリタは普通の女の子だ。

 多少腕力や体力には自信があるだけの、御伽噺や恋愛劇、恋愛物語などが大好きな――リゼが言うには悪い意味での、夢見る乙女。


 こうやって顔を化粧の力で作ってもらい、更に可愛らしい恰好が出来るなんてまさに夢のような話だ。

 別人の姿に変身して、お姫様のように振る舞える。


 望むべくもなかった夢が現実になるとしたら、抗いきれるわけがない。







 気が付けばドキドキと跳ねる心臓を宥めつつ、劇場内をウロウロ歩いていた。

 ”出来上がった”自分の姿は、どこからどう見ても良家のお嬢様にしか見えない超のつく可憐な美少女だ。

 メイクはどんな魔法より魔法らしく、リタの姿を完全なる別種の人間に変えてしまったのである。


 いかに顔を劇の役に相応しく作るかが彼女の役目とはいえ、自分をお姫様っぽい顔に変えるなんて物凄い技術の持ち主ではないか。

 きっと国一番の化粧師に違いない、とリタは尊敬の意を込めて大きく頷いた。


 淡い桃色、可愛らしい花のような衣装に着替えたリタを見て、今日一日一緒に仕事をしていた裏方の皆がひっくり返った。

 誰だ! と言われたが自分も鏡を見てそう叫んだのだから仕方のない話だ。


 ここぞとばかりに、今まで学園で選択講義やらカサンドラの屋敷で受けた礼儀作法を思い出し――いつものガサツさが表面に出ないように気を付けて振る舞ってみた。


 どうにもいつもの姿だと照れが入って楚々とした挙動なんかできないと思ってしまうのだけど。

 今は別人だ。

 自分が思い描く、理想のお嬢様のように振る舞ってもそれがリタだなんて知っている人間はネタバラシをした団員以外いないのだ。

 その団員だって普段のリタを知らない、今日限りの知人なのだから。


 歩き方や微笑み方、ドレスの裾を持って階段を移動する。

 やってみたかった”しゃなりしゃなり”とした貴婦人ウォークに興じるリタ。


 彼女は劇場内の後片付けの必要はないからと追い出された後、外を散策することにしたのである。


 こんな姿なのだから、誰もリタだなんて気づけない。誰も今の自分を知らない。

 亜麻色の長いウィッグを被ったリタは解放感を身に纏い、広い劇場をまるで招待客の一人でしたという態度で練り歩く。

 受付の女性は畏まって頭を下げてくれたが、不思議そうな顔をしている。

 こんなお嬢さんいたかしら、と怪訝そうな表情になったので慌てて建物内に引き返そうと踵を返した。


 危ない、危ない。

 詰問を受けたら面倒だ。


 引き返す道すがら――

 見知った人物が視界に入り、思わずリタは丸い柱の影に隠れてしまった。

 反射的に、見てはいけないものを見てしまったような後ろめたさを抱えて。



 ――カサンドラ様と、王子!




 すっごい仲良さそうに腕組んで歩いてる!



 雷に撃たれたような衝撃に一気に動悸が激しくなった。


 王子と一緒に歩いているカサンドラの姿が眩しすぎて直視できない……!

 あまり学園で二人が一緒にいる場面を見た事がないリタだったが、プライベートではこんなに仲が良いのだなと一目で理解できる様子に興奮すら覚える。

 流石ロイヤル、自分のようなゴテゴテに塗りたくられて作られた「お嬢様」とは全く違う本物のオーラに圧倒された。


「……!」


 あまりにも熱心に眺めてたせいだろうか、影に隠れていたはずなのにカサンドラと目が合ってしまった。


 今日も素敵な装いですね!


 なんて言葉をかけることも出来ず、ただただ彼女が行き過ぎるまで黙って微笑んでおくしかない。


 でも――

 その姿が強烈過ぎて、偽物の自分がここにいるのが見苦しすぎる気がして。


 頭をペコっと下げた後、反射的に別方向に駆け出してしまった。 

 彼女は自分を”リタ”だとは気づいていない様子だった、どこかの令嬢でも見るかのよう。


 見も知らぬ他人の自分に対しても、彼女はとても柔和な表情で好意的な視線さえ送ってくれたのだ。

 彼女を騙しているような気がしてきまりが悪い。


 所詮、これは作られた姿。

 一流の化粧師によって描かれた一枚の絵のようなものだ、それが貼り付いているだけに過ぎない。

 外見だけ変わったとしても、リタは何も変わりなどしていないのに。

 どれだけ可愛くて、花のように綺麗な衣装を着ていても作られたまがい物に過ぎない。


 自分でもビックリするくらい変容した姿で、誰もリタであることに気づかない。


 最初はそれに解放感を感じていたが、一度本物を間近にしてしまえば夢が一瞬で醒めてしまった気がした。

 ……自分は彼女のように本物のお嬢様になどなれはしないのだ。




 ※





「……君は?」


 廊下をトボトボと歩いていると、前から誰かに声を掛けられたことに気が付いた。

 ハッと顔を上げると、そこには黒いモーニングコートを纏った麗しい男性――ラルフが立っているではないか。


 内心、大混乱に陥る。


 彼は不思議そうな顔でこちらをめつすがめつ眺めているのが分かる。その視線が肌を突き刺していくかのようだ。

 ヴァイル家に関わる人しか招待していないはずなのに、彼が見たことのないお嬢さんっぽい人がいたから警戒しているのかもしれない。

 どうしよう、不審者として通報されたら。


 ……緊張で全身が震える。

 恐怖が背中を這う。


 でも、今日は彼の姿を見ることは出来ないと思っていた。


 最後の最後に、ピアノの音だけではなく実際に会えて嬉しいと思う。

 例え自分が誰か分からないとしても、彼の素敵な姿を目にすることが出来たのはラッキーだ。

 そう思うと不意に顔から緊張感がなくなり、笑ってしまったかも知れない。



「……リタ嬢? 何故ここに……いや、その姿は?」



 ふぁ!? と顔を上げて愕然とした顔をする。滝のように汗が流れそうだ。

 彼は心底不思議そうに首を傾げ、疑問符を周囲にまき散らしながらそんな事を聞いてくる。


 ――カサンドラ様だって気づかなかったのに!


 完全に見違える別人と化け、リナやリゼがいたとしても一見して自分だなんて悟られない自信さえあったのに。


「な、なんでわかったんです……? ラルフ様」



「――? 多少化粧をしたくらいで別人になるわけでもないだろう?

 表情を見たら何となくそうかと。

 ここに君がいることには、少し驚いたけれど」


 

 何でもないことのように言わないで欲しい。



 以前自分は、彼の事を外見や地位や当人を飾り立てるものではなく、その人の本質を見る目があるのではないかと思ったことがある。


 でも、まさか一言も発さず全くいつもと違う自分のことを、一発で言い当てられるなんて思いもよらないことだった。

 それが彼にとっては当たり前のことかもしれない、着飾ったものや人の手によって施された化粧などで変化した違和感くらい、彼には全てお見通しなのかもしれない。



 駄目だ、駄目だ。

 自分は決して特別などではない、ただの同級生という立場以外の何物でもないと分かっている。

 なのにこんな事を言われては勝手に期待してしまう。



 思い過ごしだ勘違いだといくら己を諫めても、鼓動の高鳴りが止まらない。



 最初に出会った時よりずっと、想いが強くなっていく。




 笑いながら今日の出来事を彼に説明する。

 その最中も、嬉しくて嬉しくて泣きたくなった。




 こんな風に思い知らされなくても、分かってる。 




  ――私はこの人が好きだ。




 綺麗な格好をして誰かに可愛いと思われたいのではない、この人に”特別”だと思われたいだけなのだ。





 ※





 何となく話の流れで、ラルフも舞台裏まで着いてきてくれた。

 シェリーと会った朝のこと、準備を手伝ったお昼のこと、そして最後の最後で疲れ切ってしまったアクシデントのことも。


「……ラルフ様!?」


 既に後片付けは殆ど終わっている、裏方の皆の手際の良さにはリタも舌を巻く。


 だが急にひょっこりと、本来顔を出すこともないだろうラルフがやってきたせいで一様に皆息を呑み、瞬時にピリリとした空気が張りつめる。


 シェリーを始め、リーダーのオジサンも大きな身体を後ろに仰け反らせて目を白黒させているだけだ。


「きょ、今日の劇に、何か不備でもございましたでしょうか」


 腰を屈め恐る恐るラルフの御機嫌伺をするオジサンの姿を、一同が固唾を飲んで見守る。


 きっと今日の進行に文句があったから、わざわざ注意しに来たに違いない。


 ラルフ直々の叱責など、失職ものの大きなやらかしだ。

 声が震えているのも仕方のない事だが……


「いや、皆素晴らしい働きだった。

 僕がここに来たのは、君達に頼みがあるからだ」


「はは、何なりとお申し付けください」


 平身低頭するオジサンの額に浮かぶ汗の玉、それは暑さのせいで浮かんでいるものではないだろう。



「これから団員の皆で食事……いや、打ち上げに赴くと聞いたのだけど」


「……? 左様でございます。

 あの、それが何か……」


「良かったら僕も同席させてもらって良いだろうか」




   ………えっ




 流石にそんな提案が彼の口から飛び出すとはリタも想像してはいなかった。

 彼らに労いの言葉の一つでもかけるのだろうと油断していたリタは、驚愕に口を大きく開けてラルフを見上げる。

 折角の美少女面が台無しになる表情に、ラルフは顔を背けて少し笑っていたが……リタとしてはそれどころではない。



「と、突然何を……」


「リタ嬢も参加すると言っていたし、普段このような機会もないから興味もあってね。

 迷惑はかけないようにする」



 皆初演の成功に打ち上げで乾杯という気持ちだっただろうに、リタが打ち上げの事を話してしまったばかりに申し訳ないことだ。

 だが最初は面食らっていた裏方たちも、別にお叱りがあったわけでもないし。


 何より普段顔を見ることもないような相手が声を掛けてくれたことを光栄に思わないわけがない。

 この劇団にいる以上、ラルフの事は誰もが知っていてお近づきになりたいと考えているはずだから。



「い、良いんですかラルフ様。

 どこかで食事される予定とか、あったんじゃ……」



「ああ、今日は近くの餐館レストハウスで済ませようかと思っていたけれどね。

 こちらの方が面白そうだから」



 彼はなんてことのない口調で言う。


 そんなに軽い事で良いのだろうかとリタの方が不安になる。


 本人が言っているのだから良いのだろうが……



「――ところでリタ嬢」


「は、はいっ!?」



「君はいつまでその恰好なのかな?」


「や……やっぱり変ですよね!? ははは……」




「そんなことはない、とても綺麗にしてもらっていて驚いた。

 でも普段の姿の方が、君らしくて良いと思う」




 彼の言葉の一つ一つに動揺し、翻弄される。

 咄嗟に頭に被せてもらった亜麻色の髪のウィッグを投げつけたい衝動にかられたが、今は顔が真っ赤になるのを抑えるのに精いっぱいだ。




 自分の顔が好きだなんて思ったことはなかった。



 でも少しだけ、前より自分の姿が好きになれそうな気がする。

 

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