第144話 <リタ 1/2>


 あと一週間で夏休みが終わってしまう。

 休みが終われば二学期が始まる、教室でラルフの姿を見ることが出来るのは大変嬉しいことである。


 だが、毎日制服を着て早起きして学園に通わなくても良い自由な生活は捨てがたい。

 宿題だってまだ残っているのだし、あと一週間という期間が今更重たく圧し掛かってくる。始まってしまえばラルフの姿を見ながらニコニコ笑顔で通い始める、そんな現金な自分の姿が想像できるのだけど。


 八月も終わりなので、そろそろ陽射しも凶悪さがなりを潜めている。

 随分過ごしやすい気温になってきたことは大変良い事だ。暑いとあらゆる事のやる気が萎える。

 カサンドラに連れて行ってもらった避暑地の涼しさがどれだけ貴重なものだったのか、帰宅して早々三人で実感したものだ。


 リタは宿題や勉強漬けの毎日の気分転換をはかるため、寮で朝食をいただいた後街に出かけることにした。


 特に何か用事があったわけではないのだが、部屋の中でじっとしているのは苦手だ。


 リゼはロンバルドまで剣の指導を受けるに行くのだと、寮から早朝より姿を消している。

 あんな長距離を走れるか、と文句を言っていた癖に律儀に一時間以上かけて走っていくリゼの生真面目さにリタは戦慄する。

 毎日一時間書き取りの練習をしろと指示されてやり抜ける自信など、リタにはない。

 自分の苦手分野であそこまで食らいつけるのはもうそれは才能だよといつも思う。


 負けず嫌いって怖いわぁ、と実の姉に恐怖を感じる今日この頃。



 朝の街道は静かなものだ。

 昼前になれば人混みも増えてごった返すが、九時前後は露店も開き始め街がしっかりと目を醒まし起き始めの時間である。

 人通りもまばらな大通りを歩き、うーん、と両手を天に向けて身体を大きく伸ばす。


 買い物をするだけのお金もないが、露店を冷やかして歩くのは好きだ。

 来月お小遣いをもらったらあれを買おう、これを買おうという楽しみが出来るのだから。


 そんな風に足取りも軽く道を歩いていたリタの目に、とんでもない光景が目に飛び込んできた。


 通りの向かい側で数人の子供が楽しそうに遊んでいる姿だ。

 やんちゃそうな子供たちが朝から走り回る姿は微笑ましい、だが少年らが遊んでいるのは店の前だ。

 その店の前には沢山の木材が立てかけられ、積まれている。

 かなりバランスの悪そうな適当に置いた木材の傍で駆けまわる子供、それはもうヒュッと息を呑む光景でしかない。

 もしじゃれ合いついでに立てかけた木材に触れれば、そのまま子供の頭上に倒れて来るのではないか!?


 危ないと声を掛ければ停まってくれるだろうか。

 いや、大声で刺激を与えるのも事故の元だ。


 リタは慌てた。

 少年たちに注意を促すべく、大通りを横切ろうと身体の方向を変える。


 だがその行動も遅かったようで、少年の一人が友人にドンっと突き飛ばされた衝撃で蹈鞴を踏んでしまった。


 ――突き飛ばされた少年が木材に背中からぶつかり、数本の長い木材が上から倒れてくる……!

 ガラガラと絶望の音を立て、てんでバラバラの方向に倒れてくる木材。

 その内の一本はどう考えても少年たちを上から押し潰さんばかりの角度で……


 血の気がザァっと引いた。


「あぶな……」


 ……駄目だ、間に合わない。


「危ない!」


 だがすぐ傍をたまたま通りかかった一人の女性が少年たちを庇うように両腕に抱え、その勢いのまま前方へ倒れ込む。

 恐怖に身を竦ませた子供らは、彼女に押し出され路上に尻もちをついた。

 木材が地面に転がり折り重なるが、幸い子供たちは無事なようだ。


「大丈夫ですか!?」


 子どもたちは口々に怖かった、だから押すなって言ったろ馬鹿野郎、などと助けてもらった礼を言うことも忘れてその場から逃げ出してしまった。

 女性に庇ってもらえなければ今頃あの木材の下敷きになっていた事だろう。


 眼前の恐怖に怯え逃げ惑う子供を追いかけて謝らせるよりも、リタは女性の傍に駆け寄ることを選んだ。


「い……痛た……」


 彼女の足の先に、木材の先が乗っていた。

 重たい角材に挟まれ足を抜けずに困っていることはすぐにわかる、リタは木材をひょいと持ち上げて横に転がす。


「ごめんなさい、ありがと…痛い…っ!」


 足にかかる負荷はなくなったものの、地面に挟まれた衝撃で足首がすっかり腫れてしまっている。

 リタは眉根を寄せ、上手く動けない女性を助け起こした。


「歩けますか?

 随分腫れているみたいですけど」


「………」


 だが女性は顔を蒼白に染め、ふるふると頭を横に振った。

 うつ伏せの姿勢から普通に腰を地面に着ける体勢に座り直したはいいものの、どうやらそれ以上は動けないらしい。

 片足で立とうとしても、手の支えだけでは難しい。

 彼女は呆然と己の動かない足に指先で触れた。


「嘘でしょう……?」


「とにかく診療所に寄りましょう。

 私、一緒に行きます!」


 リタは彼女の腕を掴み、己の肩に回させる。幸い身長が同程度で、体重も軽い女性はすんなりと身体ごと持ち上げることが出来る。

 彼女の咄嗟の行動で子どもたちは怪我を免れたのに、肝心の女性が怪我をしてしまったのは辛いことだと歯噛みする。


 心配して様子を見に来た他の大人たちがバラバラに倒れた木材を「おいおい」と渋い顔で見据える。

 そして木材を二人がかりで移動させ、今度は横向きに積み直してくれた。


 気遣う声を背に受け、怪我をした左足を文字通り引きずる女性を近くの診療所に連れ込んだのである。




 ※



「あああああ! もう! もう、最悪よ!!」



 骨を折ってはいないけれど、強かに木材を打ち付けられた足の腫れはしばらく引かなさそうだ。

 歩行が困難なので杖を持って歩けと医者に言われ、薬を塗布してもらった女性は前髪を掻きむしりながら絶叫した。


「あんなガキども、助けてやるんじゃなかったわ!」


 キィィ! とヒステリックに叫ぶ女性に若干引いたリタである。

 良く見ると美人のお姉さんだ。

 銀色の綺麗な髪を動きやすいようお団子に纏めているが、きっと髪を下ろしたら印象もガラッと変わるのだろう。


「貴女にまで迷惑かけてごめんなさいね。

 ……はぁぁ。もう、ほんっとうにどうするのよ私……

 これじゃ、仕事にならないじゃない」


 顔を覆って溜息の嵐。

 シェリーと名乗った女性は外見通りリゼより二歳年上のお姉さんで、職場に向かう途中に事故に遭ってしまったのだ。

 事故と言うか、少年たちを怪我から救ったのだから英雄のようなもの。

 だが肝心の子供たちは蜘蛛の子を散らすように逃げて行って、代わりに怪我をしたシェリーが残されただけという何とも痛ましい話である。


 リタがもう少し早く気づいていれば……

 いや、大声を出して静止させていれば防げたのかもしれない。

 そう思うと罪悪感が胸中を襲う。


「休むにしてもクビになるにしても、職場まではいかないとね。

 あーあ、ついてないわ」


 肩を竦め気丈に振る舞うシェリーだったが、その瞳の奥は不安と焦燥で今にも消えてしまいそうな頼りなさ。


「良かったら私、一緒に行きますよ。

 今日暇なんで」


「ありがと、でも良いの? 誰かと待ち合わせじゃないの?

 デートとか」


 いえいえ、そんなまさか。


 ブンブンと手を横に振ると、彼女はしばらくリタを頼るべきかどうか考え込んだ。

 だが最終的に一人で現地まで向かうのが厳しいと判断したのだろう、掌を合わせ拝むように「ごめんなさいね!」とリタに返答したのである。


「杖なんて使ったことないし、どうすればいいのかしらねぇ」


 診療所から借りた一本のステッキを手に、むむむ、とシェリーは顔を顰めた。


「確か怪我をした足の側に、杖の先をついて歩くんですよね?」


「ン……案外難しいわね……」


 まるでお年を召した老婆のように、杖を持つシェリーの掌はプルプルと小刻みに震える。

 さっきまで健康に両足で歩いていた人間が、急に杖一本を器用に使って歩けと言われても難しいだろう。

 体重を乗せるから掌が痛いなど、自然に歩くのはかなり難しそう。


「じゃ、負ぶって行きましょうか?」


「なーに言ってるの、ここから結構距離があるのよ?

 貴女みたいな細い子、潰れちゃうわよ」


「いえいえ、大丈夫です。――こう見えて力仕事には自信があるんで!」


 実家が農業を営む子らの体力を侮ってもらっては困る。

 手伝いを積極的にサボっていたリゼとは違い、常日頃畑仕事の手伝いに駆り出されていたのだ。

 それを思えば軽い女性の一人や二人運ぶくらい、リタには全く問題にならないことだった。



 ※


 

 ――シェリーの職場は普通の職場とは訳が違う。

 何と、かの有名なシャルローグ劇団に勤めているのだそうだ。


 演劇好きを自称するリタとしては、聞いた瞬間噴き出さざるを得ない。凄いところで働いているのだと聞いて心臓が大きく跳ねた。

 まさかの伝説の劇団に関わる人が背中の上に……!


 背中に負ぶったシェリーはシェリーで、いともたやすく軽々と己を運んで歩いていくリタに目を丸くして驚いているところだ。

 周囲の好奇心に満ちた視線が突き刺さるが、別に悪いことをしているわけじゃない。


 シェリーは包帯でぐるぐる巻きになった足を晒し、杖も抱えているのだから。

 自分がこうして負ぶって歩くのは変な話ではない――勿論、同じくらいの体重の女性をひょいひょいっと重さを感じさせず先を急ぐリタの体力の方に驚いているのかも知れない。




 彼女は劇団に勤めているが、演者ではない。

 ただの道具係兼雑用なのだと自嘲気味に呟いた。


 舞台の上で演ずる女優に憧れ、幼い頃劇団の門戸を叩いた。

 だが自分に才能が無いことなどすぐに悟れる。

 シェリーの見切りは、我が事なのに早かった。早々に演技の道を諦め別の形で劇団に貢献しようと裏方を担っているのだという。

   

「私がいなくても、劇自体は問題ないと思う……。

 でも問題ないって言うのも、それはそれで堪えるのよねぇ」



 そうかなぁ、と耳元で話されるシェリーの話を聞きながら首を捻った。



 確かに演技をする人が一人でも欠けたら大変なことになるのは分かるけれど、裏方だって欠けたら大変なのではないだろうか。

 年季が入った裏方が一人いないだけで、現場は大変負荷がかかると思う。



 そしてリタの予想はしっかりと当たっていたようだ。




「はぁ!? シェリー、お前怪我……だと!?

 おい、どうするんだよ! 今日は絶対失敗できない招待客が揃ってんだぞ!?」


 演者や劇団員全てを統括する者は劇団長だが、実際に劇の準備や演技の真っ最中に裏の現場を取り仕切るリーダーも当然存在する。

 大柄な熊のような外見の厳ついおじさんは、頭に巻いていたタオルを乱雑に剥いで汗まみれの首を拭く。


 そしてメラメラと怒りに燃え、ダンッ、と近くの景色板を力任せに叩いた。

 大河の景色を一面に描いた豪華な一枚板がみしっと揺れる。


「失敗してもいい劇なんかないでしょ。

 ……私がいなくても、雑用や大道具は何とかなるんじゃないの?」


「困るに決まってるだろ、こっちはカツカツで回してるんだぞ。

 特に今日は初演だ、手探りでやらんといかん事もあるだろう……

 一人減った分の手、どっから持ってこいって言うんだ」


 有名な劇団ではあるが、演者志望や修行の身の人間は多くとも裏方はそう簡単にホイホイ人が入ってくるものではないと彼は顔を顰めた。

 特にシェリーのように劇団に関われるなら道具係でもお茶くみ雑用でも! と地味な仕事を率先してやってくれる者は貴重なのだと彼は嘆く。


 メイク係や衣装係などはその道のプロを雇うけれども、力仕事をメインとする雑用係はそうはいかない。

 


「あ、じゃあ私手伝います!」



 ハイハイ! と話を傍で聞いていたリタが元気よく手を挙げた。

 

「え……?」


「シェリーさんが人助けで怪我したの、見てましたし……

 ええと、繊細な道具とかの扱いは無理ですけどそっちはシェリーさんにお任せして、私は動き回るの担当で!」


 正直に言うと、劇には興味がある。

 地方には娯楽が少なく、劇と言ってもそんなに大層なものではない天幕を張った状態での劇を何度か見たことがあるだけだ。

 それでも恋愛ものの劇は大好きだったし――しかもシャルローグなんてこの先縁もゆかりもないだろう雲の上の劇団の裏に雑用でも関われるのはワクワクする。


「うーん、しかしなぁ」


「確かにこの子、体力は凄いわよ。

 大通りから私を負ぶって走って来れるんだもの」


 息一つ上がっていないリタを眺め、ぎょっとした顔になる。

 

「……ええ……?」


 そんなに怪訝そうな目でジロジロ見ないで頂きたい。

 おじさんの不審そうな顔が、まるでお化けか妖怪かの奇妙なものを見つめるそれになっているのですが……?


「ふむ。

 手が動かせるなら道具の補修や周りへの指示は出来るな、シェリー?

 嬢ちゃん、申し訳ないがこっちは猫の手も借りたい状態だ、途中で急に抜けられると困るんだが――大丈夫か?」


 リタは力強く大きく頷く。


「よし、任せた! シェリーの足代わりってことだ、全部こいつに聞いてくれや」


 シェリーの肩を豪快に叩いたオジサンは、のっしのっしと重たそうな足取りで元の仕事に戻る。


 大道具を仕舞っている大きな部屋で、今日の劇に使うのだろう背景を描いた板が沢山並んでいるのが分かった。

 建物を描いたものや、城を描いたものなど、場面転換に応じてこれを入れ替えないといけないのか。


 成程、それは重労働だ。

 今まで見た劇では背景なんて凝ったものは存在しなかったけれど、流石に本場は違う。


 自分は劇の内容が何かさえ知らない完全素人だが、別に劇をするわけではない。

 舞台の裏で劇をする人たちのサポート――いや、それも烏滸おこがましい。

 裏方を担当する団員の手伝いをすることになるわけだ。


 自分でも全く予想していなかった一日になったが、たまにはこういう日があっても良い。



 ……シェリーがあの時考えるより先に動いてくれたから、怪我をせずに済んだ子どもがいるのだ。

 その代償で不都合が起きる、そしてそれを見過ごすというのも寝覚めが悪い。


 それに何より――


「よーし、私、何からやればいいですか、シェリーさん!」


 リタは働き者である。

 特に身体を動かす事は大好きだ。




 ※



 いきなり演劇の「え」の字も知らないような全くの素人が裏方に現れたのだ。


 しかも華奢な手足の女の子がシェリーの代わりだとペコリと頭を下げる。

 その場にたむろして本日の行程確認に勤しんでいた十数名の団員は目を丸くしてリタを見遣った。



 代わりを連れてくるにしても、もっとマシなのがいたでしょうが……



 忙しさ、今日が初演という余裕の無さで心が荒んでいる団員達は全く気のない様子でリタを醒めた目で見ている。

 劇団という華々しい名前のイメージに寄って来たミーハーな素人に手伝いと言われてもねぇ、と。


 実際にリタは有名なものや新しいもの、噂が好きなミーハーな女生徒であることには間違いない。

 だが、殊仕事の手伝いと言われては誰に言われるまでもなく真剣な顔つきになってしまう。


 ……王子やジェイク、ラルフやシリウスと言った本来なら遊び惚けていてもおかしくない身分の高い男子でさえ、夏休み中ずっと忙しく走り回っているというではないか。

 ここはただの一般庶民、お情けのおまけで学園に入れてもらえた自分がだらだらとお上りさん感覚で過ごしていい場所ではない。


 キッカケは事故のようなもの。

 でも受けると決めたからには、相応の責任が伴う事も分かっている。




 その場にいた誰も、それこそシェリーさえ予想していなかった程、リタは善く動く。

 劇場内の上部への道具の設置や舞台装置の移動、持ち運びも軽々とこなす。


 特に天井に吊るす装飾品を咥え、柱一本でもあればするすると木登りでもするかのように登って高さに怖いとも言わず天井梁に飾りを括る。

 長いロープで固定する仕事も、一人でも高い場所で平気でこなしていった。

 手先は器用ではないが、結ぶ、括る程度の単純な作業くらい自分にもできる。


 更に倉庫から舞台袖、裏に大道具を移動させるのも全く苦にならなかった。 

 細身の女子という見かけに全く似合わないその腕で、重たい板を担いで部屋を行ったり来たり。


 劇の最中に着せ替えて使う甲冑やらドレスやらの運び込み、用具の持ち運びも休むことはない。


 力持ちの独楽鼠こまねずみを見ているようだと誰かが呟けば、ドッと笑いが起こるまであっという間。

 見る見るうちに集団に溶け込むことが出来たのは、皆で同じ作業をしているからだ。真面目に同じ目標に向けて動いていると仲間意識が生まれるものである。


 難しいことを考えず、指示されたものをされた場所に運ぶ。

 単純な事だが乱雑にならないよう気を付ける。


 そして少し手が空けば、暑い中汗を拭きながら作業をする団員に冷たい飲み物も持って行った。手持無沙汰なのが落ち着かないせいだ。


 ありがとうと礼を言われれば嬉しいし、意外とやるなと声を掛けられれば笑顔になる。

 最近ずっと部屋で宿題に追われていた身体は体力が駄々余っていたのか、疲れは微塵も感じなかった。

 良かった、体力が鈍ってなくて。


 皆と一緒に昼食も食べさせてもらった後も、劇の準備が滞りなく進んでいく様子をドキドキしながら眺めていた。

 劇場内、舞台の方は完全に冷却魔法でひんやり冷えているけれど舞台裏に一歩踏み入ればそこは地獄絵図の様だ。


 風もなく熱の籠った部屋の中で汗だくになって、物の位置の確認小道具の準備、打ち合わせ、台本確認……時間が経つにつれ、私語も減っていく。

 時計ばかりチラチラ確認するようになるのだ。



 ふぅ、と吐息をついた後――

 突如会場の方から音楽が流れて来た。


 とうとう本番も近く、音楽隊の皆様のご到着か……とリタは直接関係がないただのお手伝いの身だというのに緊張が走った。



「わぁ、このピアノすごく上手ですね」


 劇のクライマックス、剣舞に使用する模造剣を一つ一つ丁寧に確認し、綻んでいる箇所があれば補修をするシェリー。

 時折足の痛みに顔を顰めながらも、椅子に座って真剣な眼差しの彼女にポツッと独り言のように話かけた。


「それはそうよ、今日のピアノ奏者はラルフ様だもの。

 ……ああ、貴女はラルフ様って知ってるかしら? 名前くらい知ってるわよね?

 ええと、この劇団を後援して下さっているヴァイル家の御曹司で――」





  ――はい?




 何かの間違いかと思ったがそういうわけではないらしい。

 舞台に降りた幕の向こうから漏れ聞こえるピアノの音、これがラルフが弾いているものだというのか。

 偶然にしたって程があるだろうと叫びたくなる。



 ラルフが携わるから、失敗など許されない。

 人手が足りないとぼやく程準備に入念で。


 そしてヴァイル家に所縁のある貴族の皆様を招待した初演なので、歓待にも人員を割いている。

 逼迫し、ピリピリした空気になるのが分かった。

 午前中とは打って変わり、皆一様に難しい顔になる。


 でも、そうか。


 この劇には彼も関わっているんだ。

 劇を盛り上げる音楽を奏でる、その奏者として……


 この惨憺たる有様の舞台裏に彼が顔を出すことはないのだろうが、同じ場所にいられるのは嬉しい。

 僅かでも、小指の先ほどでも携わることが出来る幸運に背筋がゾクゾクした。




 猶更、浮ついた気持ちになんてなれないな。




「シェリーさん、他に何かできることありますか!?」



 

 綺麗なドレスを着て、舞台の表に出るわけではない。

 彼と同じ場所で楽器を演奏できるわけでもない。

 演者にの着替えやメイク、支度を手伝えるような技術があるわけでも、この劇の内容さえ把握しているわけではない素人。


 ただの部外者、雑用係。


 だが自分が担いで運んだものが、設置のために支えた大きな樽が、ガチャガチャと音を立てる小道具を入れた箱から出して並べる作業が――


 少しでも今日の劇に役立っていればいい。

 





 今あの人はどんな姿でピアノを弾いているのだろう、想像しただけで心の深奥がざわっと揺らめく。


 

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