第143話 餐館にて


 王子の言う通り、餐館レストハウスと彼らが呼んでいる屋敷は徒歩で十分前後の近い場所に建っていた。


 この辺りは劇場の他にも美術館だの博物館だの、文化芸術的な施設が多く存在する区域だ。

 特にラルフが近隣施設で時間を過ごすことが多いという館に、王子に連れられて入る。


 そこでようやく王子の内肘から手を離すことにした。

 一体どのタイミングで離すべきか考えていたが、屋敷の中に入ってまで腕を掴んでいるのは変だ。

 招待いただきありがとうございました、と頭を下げる時に同時に指を離す。


 添えているときは緊張し通しで、全神経が指先に集中していた。鼓動の音がここから漏れて聞こえるのではないかと常時冷や冷やもの。


 でも――こんな機会が果たして次はいつ訪れるのか、それとも今日だけの特別なことなのか。


 指を離すと、勿体ないと心が騒ぐ。

 本人が是と言い合法的に彼に触れられた事は嬉しいが、幸せな時間は永遠には続かない。


 右の指先が館の空気に晒され、物寂しさを隠すようにぎゅっと握りしめた。

 この手が覚えているのは彼のシャツの素材感と、そして固く筋張った肘の感触だけだ。



 王子が言うには簡易的な休息所という館らしい。

 王都にいくつも同じ用途の建物を所有しており、それらを統括管理しているのがシリウスだ。彼は本当に面倒な裏方の仕事を淡々とこなす人だと思う。

 王子やジェイク、ラルフも管理費を負担しつつ、各自自由に出入りできる餐館の存在は大変便利なものだという。

 先に従者に言伝を頼んでおけば、到着した時には寛げる環境が完璧に整っているのだから。


 仲の良い彼らにしか出来ない運用だろう、とカサンドラは話を笑顔で聞きながら絶句するのみだ。

 勿論誰がいつどの館を使用したかは秘匿されているわけでもない、オープン情報。

 なので防諜必須の案件に使用はご法度だそうだ。ややこしい話し合いの席には利用できない。


「わたくしがこちらをお訪ねしても宜しいのですか?」


 あくまでも彼ら・・が気軽に休息が出来る場所というだけで、本来ならカサンドラは招かれざる客である。


「シリウスに許可はとってある、カサンドラ嬢が遠慮する必要はないよ」


 食事の席に案内され、落ち着かなさと緊張で身の置き場がないカサンドラに王子はそう言ってくれた。


 スケールの大きな、親友同士の『秘密基地』のようなものか。

 それぞれメンバー以外を引き入れるのであれば管理者の許可が必要らしい。

 王子も利用するのだから、信用の置けない人間は立ち入り禁止なのは当然のことだ。


「それにラルフも途中で合流するかもしれないしね」


 王子はなんてことのない素振りでサラッとそう発言した。

 言われるまで思い至らなかったが、確かにラルフがいつここに来ても全くおかしくない。

 仕事の一環でシャルローグの劇場で過ごしているのだ、ひと段落ついた後先に餐館で腹ごしらえをして――という可能性は十分考えられた。


 別に二人きりで過ごさないと嫌だなんて思う権利はない。

 でもこんな風に二人で食事ができる日が今後来るとは全く想像できなくて、出来ればラルフに相席して欲しくないと思ってしまう浅ましさに自嘲した。

 この屋敷を共有しているのはラルフ達なのに、何という厚かましい人間なのかと。

 自分はただの同行者。


 食前酒がテーブルの上のピカピカのグラスに注がれる。

 アルコールは飲めなくはない程度のカサンドラ。ワインボトルを一瓶空ければ酔っ払うだろうが、食前酒くらいなら平気だ。

 この世界では特に飲酒の年齢制限を定めた法律はないけれど、幼い内は体に悪影響だという認識は存在している。十五歳の誕生日までアルコールを口にさせない方針の家も多かった。


「――では今日の素晴らしい劇と、この良き時間に」


 彼はスッとグラスを持ち上げ、静かに言い添えた。

 乾杯という言葉はなかったけれど、彼に合わせるように自然にグラスを手に取った。


 グラスを傾けると白ワインの芳醇な香りが漂い、まず嗅覚を楽しませてくれる。

 口をつけて一口嚥下すると、まろやかで口当たりの良い味わいが口腔を幸せで満たすのだ。



「改めてアイリス嬢に感謝をしなければいけないね」


「全くです。

 いくらご用事があったとは言え代替で招待に与るなど、わたくしには過ぎたものでした」


 招待状を快く譲ってくれたアイリスには王子の言う通り感謝しかない。

 彼女は罪滅ぼしだと笑って言ってくれたが、最上級の価値があるチケットをただで譲ってくれたのだ。

 無駄になるよりは使ってくれと言われれば受け取る他なかったけれども、今想いを馳せても鳥肌が立つほど素晴らしい劇であった。

 アイリスだってレオンハルト公子と観覧したかっただろうに、勿体ない……。




「……強大な国が二つ隣接すると、必ず争いが生じてしまうものなのでしょうか」


「どうだろう、国力が拮抗しているなら安定するとも思うけれどね。

 小競り合い程度で互いに大きな戦力の損失がないのだから。それくらいは許容すべきという考え方もあるだろう」


「では何故ファルゴット王はシグリアと同盟を結ぼうとしたのでしょう」


「西のエンデル帝国の動きのせいだと思う。

 あの時代、西部海岸沿いに一気に版図を広げた帝国があっただろう?

 間に何か国もファルゴットの属国があるとは言え、戦勝続きで勢いを広げる帝国の快進撃は脅威だったはずだ。

 ……シグリアはシグリアで問題を抱えていた。

 大寒波の到来で食料事情が困窮していたはずだから、ファルゴットと同盟を結んで食料を融通してもらう話は魅力的に映ったと思うよ」 


 まるで見て来たかのように言う王子に驚いた。

 百年単位で過去の歴史であり、ニルヴェの大河の物語の中で書かれていない背景事情までは勉強不足で知らなかったのだ。


「あの時代に寒波が訪れたのですか?」


「史料に記されているから、一度図書館で調べてみると良いよ。

 大寒波のせいで北海から流れるニルヴェ河の支流が凍り付いたそうだ。その影響は数年続いて、農地が使い物にならなくなったとか。

 ――シグリア北部が豪雪に見舞われたという記録がある、その時代とエンデル帝国の拡張時期は同じはずだから」


 そこまで仔細に混沌時代の年表は覚えていない。

 エンデル帝国と言えば混沌時代に一大勢力を築き上げたが、結局皇帝派と反皇帝派の争いが起こって自滅した国だったなぁという記憶しかない。

 

 数百年の混沌時代を通して百を越える国の勃興があったのだ。それを全て記憶している考古学者もそうそういないと思う。


 この劇のためにわざわざ当時のあらゆる背景を調べて来たのかと戦慄したが、どうやら元々知っていた知識のようだった。

 それはそれで博識すぎて怖い。

 一度読んだ文章は忘れない能力でもお持ちなのだろうか、王子は……


 その後はしばらく、ファルゴットの王弟が祖国を裏切った背景について、正解のない話で盛り上がった。

 これに関しては歴史の中でも全く闇の中の話。

 何故王弟が国を滅ぼすために実の兄や妹を死なせるような行動に走ったのかは諸説あって正解は杳として知れない。どの説も一考の余地はある程度だ。


 ファルゴットの王弟が、王を庇ったシグリアの末姫を刺殺したことは歴史書の片隅に残っている。

 そんな史書の僅か一行の文言から、ニルヴェの大河という敵国の王と姫の愛憎物語が描かれるのだから人間の想像力は果てしない。


 史実に明確な答えが残っていないからこそ、ニルヴェの大河という物語が後世人の手によってより悲劇らしく喧伝され広まったのである。

 解釈は自由なので、王弟に国を裏切るだけの怨恨があったのだろうと勝手にストーリーを仕立て上げられるわけだ。

 既に滅んだ国だから誰に遠慮するわけでもなく思う存分悲劇性を付与できる。


 そのように、劇の内容に触れて話をするのはとても楽しかった。

 



 だが、不意に訪れる沈黙にカサンドラは気が気ではなくなる。


 一瞬、自分の受け答えが彼のカンに障る内容だったかと焦る。

 話題としてはひと段落ついたから、今度は食事のターンだということなのだろうか?


 友人との会話でも、フッと話が途切れてシーンと静まり返る瞬間は幾度も経験したことがある。

 本当に仲が良い相手であればその沈黙だって心地よい静寂だ、互いに黙っていても全く気にならない関係が本当に気心が知れているというのだろう。

 あまり親しくない相手とこの瞬間を迎えると、何とか話題を繋がなくてはと気が急く。


 これまで王子の方から話をやんわりと誘導し、振ってくれていたのでカサンドラも心地よく受け答えが出来たのだ。

 彼の意見を聴き、それについてどう思うかを素直に発言するのは会話のラリーが続いていくようで楽しかった。


 でも一たび彼が沈黙を選ぶと、そこには何とも言いようのない気まずい空白がのしかかってくるのである。


 何か話題を――とカサンドラが口を開きかけた時のことだ。

 王子は発言を少しばかり躊躇いつつも、再び話しかけてくれた。


 良かった、彼は不機嫌で会話を中断したのではないのだ。

 身体中を支配していた緊張が、ゆるゆると弛緩していくのが自覚できた。


「実はカサンドラ嬢に聞いておかなければいけないことがあるのだけど……

 今までの話を遮り、唐突な話で申し訳ない」


「まぁ、どのようなことでしょう。

 何なりとお聞きください」


 どうやら彼は、自分に確認したい何事かの案件を抱えていたようだ。

 劇の話を楽しくしていたものだから、急に別の話題を投入することに躊躇いがあったのだろうか。

 確かに食事はお互いにメインディッシュを終え、残すところデザートのみになってしまった。


 食事を終えて解散することになれば会う機会もしばらくない。

 夏休みがあけ、新学期が始まるまで王子とは会えなくなる。


 そう思うと楽しかった今日一日が過ぎ去ってしまうのが一層惜しい、寂しい。

 今日だけと言わず、明日も明後日も。

 彼と一緒にいたいのに、自分には叶わない望みなのだから……



「来月は君の誕生日だと聞いた。

 その、……恥ずかしい話だけれど、私はそういう話に疎くて。

 ずっと考えていても、カサンドラ嬢が喜ぶだろう贈り物を思いつけなかった。

 興が削がれてしまうことは甚だ遺憾だけど、望むものを直接教えてもらえるととても有難い」


 動揺のあまりテーブルクロスを膝の上に置いたナプキンと間違えて引っ張ってしまうところだった。


 ――!?


 今日は本当に王子に驚かされてばかりだが、最後の最後で特大級の隠し弾に全身を思う様撃ち尽くされた気分である。


「わ、わたくしは……」


「本人に聞くなどマナー違反だと分かっているのだけれどね。

 ラルフに相談しても、本人でないから分からないと尤もな答えしかもらえなかったんだ」


 申し訳なさそうな顔をしないで欲しい。

 自分の誕生日のことなんかすっかり忘れていた、指摘の通り九月は自分の誕生日ではないか。

 人の事を考えるあまり、全く考慮の埒外に存在する日付がカサンドラの誕生日。


「急に聞かれても簡単に思いつけないとは思う。

 また新学期が始まった後で教えて欲しい」


 彼からもらえるものなら何でも嬉しい。

 別にモノがなくたって、おめでとうと言ってくれるだけでカサンドラは幸せな気持ちになるだろう。


 忙しい毎日の中で自分のことを僅かでも考えてくれていたのかと思うと、うっかりすると嬉しさのあまり涙が浮かびそうになる。

 例え義理事であったとしても、多くの付き合いのある知人がそうであるように他人任せではなく自分で選ぼうとしてくれた気持ちが嬉しいではないか。


 恐らくジェイクらも義理でレンドールの本宅に何かを贈ってくれるだろうが、間違いなく本人は贈ったものが何かも知らないまま過ごすはずだ。

 そんなものは家令だの執事だのに任せればいいと割り切らないと、四六時中第三者のプレゼントに頭を悩ませることになるのだから。

 機械的にシステマチックに。

 こういう立場で身分で付き合いだからこの程度の品物を、という基準に沿ったものを贈るのが常のはず。


「…………。

 それは、”もの”でなければいけないことでしょうか」


「ものではない……? それはなんだろう」


 彼は考え込むように手を口元にあてがう。

 その悩まし気な表情も絵になるのだから美形というものは恐ろしい。

 視覚に訴える暴力的な美しさがあるということを、カサンドラは彼と出会って初めて知った。


「――赦されることであれば、わたくしはもう一度王子と街を散策する機会を頂戴したいのです」


 凄く図々しい願いだと言うのは自覚している。

 もらえるモノは何でも嬉しい、形に残るものならそれが崩れることのないよう精一杯大事に保管しよう。

 でも彼と一緒にいる機会以上に欲しいものは思いつけなかった。


「私と?」


「勿論、お時間が赦せば……大変不躾なお願いであることは承知しております」

 

 言ってしまった後、やはり迷惑だっただろうかと後悔が襲う。

 彼との会話はいつだって出たとこ勝負なので、いちいち彼の反応に心が乱され己の発言さえ常に後悔の対象になってしまう。


「その程度のことで良ければ、勿論構わないよ」


「――ありがとうございます!」


 良かった……!

 安堵するやら、嬉しいやら。


 カサンドラは両の掌を小さく合わせ細い吐息を吐き出した。


「ご無理を申し上げて大変申し訳ありません」


「こちらこそ、急な話で困らせてしまったね。

 ああ、それと――

 カサンドラ嬢が望むのなら、誕生日にラルフに一曲弾いてもらうよう頼もうかと思っていたのだけど、どうだろう?」


「……。

 折角ですが、ご遠慮させていただきます」


 一体どういうシチュエーションを王子が考えていたのかは定かではないが、突拍子もない話に思わず角が立つような断り方をするところであった。


 折角の誕生日に何故ラルフと会わなければいけないのだ。


 確かにラルフから一曲弾いてもらえたらこれ以上ない贅沢な一日になるかもしれないが、それなら王子に弾いてもらった方が万倍嬉しい。言えないけど。


「ラルフ様からのサプライズなら、今日いただきましたもの」


 いけない、ラルフは王子の親友である。

 こちらから刺々しい雰囲気を出すべきではない、慌てて取り繕うようにカサンドラは微笑んだのだ。


「そうだったね」


 彼も納得したように提案を引っ込めた。

 良かった、前回のジェイクではないが万が一でも今度はラルフと一緒に行動するなんて話になったら喜びが半減である。


 ああ、でも護衛でジェイクが同行する可能性は十分考えられる。

 ここで問いただすほど無粋ではないが、心の準備だけはしておこう。









「今日は一日付き合ってくれてありがとう、カサンドラ嬢」





 また一週間、会えない日が続く。

 こうして言葉を掛けてもらえて嬉しいのに、楽しかったのに。






 ――手を振って挨拶をするのが、こんなに寂しい。



 

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