第142話 オーバーキル
王子から夕食のお誘いを受けた時は、一体何が起きたのか理解するのに少々時間を要した。
座席から立ち上がろうと試みるカサンドラは、出来る限り動揺が表面化しないよう殊更意識的にゆっくりとした挙動になる。
椅子に置いていた鞄を手に取ると、ラベンダーの香りがふんわりと漂い内心慌てるカサンドラの感情を僅かに落ち着かせてくれた。
……ここまで驚き戸惑うことではない。
観劇が終わった今の時間は午後五時過ぎだ。
曲がりなりにも、一応これはデートと呼ばれる出来事。
観劇が終わったから「それではさようなら」、と手を振り合って別々の方向に解散し帰宅の途に着く方が不自然なのでは……?
仮に友人と共に観劇に行ったとしても、それはあり得ないと思う。
食事とは言わずとも、一緒にお茶でも飲んで感想を語り合うことになるのではないだろうか。
カサンドラは愚かにも観劇に誘ったのだから観終わったら終わり。一つのイベントとして完結したのだという意識だったが、王子は世間様の常識を知る男性である。
女性に対する礼儀の一つとして、声を掛けてくれたわけだ。
今冷静に考えたら、恋人若しくは婚約者がこの時間に観劇を終えて別々の馬車で別方向に帰るのは確かに外聞が悪い……と思う。
仮にカサンドラが思いついていたとしても、自分から王子を誘ってこの後の予定を拘束しようなんて言い出せなかったに違いない。
王子に声を掛けてもらえたから、婚約者としてのカサンドラは面目は保たれた。
相手の立場を鑑み、常に適切な言動をする王子には頭が下がる想いだ。
女性と話をするのは緊張するだとか接するのは慣れていないというのは、どうにも違うと思うカサンドラである。
まだ薄暗い劇場内、足元を踏み外さないように再び慎重に王子の後を着いて歩く。
高揚感に包まれ、興奮した様子で話し続けるお嬢さん。
ファルゴットとシグリアの歴史について講釈や蘊蓄をパートナーに披瀝する年配のおじさん。
「ラルフの坊ちゃんはさすがねぇ」と親戚の子を可愛がるようにニコニコ微笑む貴婦人。
それぞれ異なる反応を見せながら場内から出払っていく招待客の顔は疑いようもなく満足げだ。
ファルゴット王の役者は見目も良かったし演技も素晴らしかったから、元になった話を理解していない女の子も終始食い入るように観ていたようである。
自分達も暗がりの世界から、外の眩しい世界に出るために扉を一歩くぐって先に進む。
「――これはこれは王子殿下。
本日はまさかのおでましを頂戴し、劇団員一同恐悦至極でございます」
すると待ち構えていたかのように、最初に挨拶をしたシルクハットを被る劇団長に呼び留められた。
「素晴らしい演目で、完成度の高さにとても驚いたよ。
それにラルフまで参加しているとは思わなかったから、嬉しいサプライズのようなものだね」
「どうしても、と私がラルフ様にお願い申し上げました。
何分この演目はラルフ様がお作りになった曲に多大な影響を受け、出来上がったものですから」
「自分の曲ということもあって、彼もいつもより気持ちが入っていたような気がするよ」
団長との話は少々長引いた。
先方としても王子と顔が繋がる貴重な機会であろうし、執拗に別室で歓待の席でもと話を振ってくる。
流されて団長の提案を受け入れることは無いものの、懸命に話を繋いで来ようとする相手に王子も話を切るタイミングを探しているように見えた。
退屈であることをひた隠し、カサンドラは大人しくにこにこ笑顔で王子の傍に立っている。
こういう場合王子が倦んでいるのならば、こちらから先を行くきっかけを作るべきなのだろうか。
だが男性二人、それも片方は年配の男性の会話に割り込むのはかなりはしたないことだと思われる。
黙して笑んでいた方が印象は良いはずだが、それもまた苦行だ。
「それに今回、カサンドラ様にもお目にかかる機会を頂きまして。
お会いできるのを心から楽しみにしておりました、ご挨拶が遅れて申し訳ございません。
――噂に違わぬお美しい女性で驚きましたよ」
今までこちらの姿など王子の付属品かアクセサリーかという感じで視界に入っていなかったようだが、王子を引き留める言葉が尽きたのかとうとうこちらにまで話を振られてしまった。
「まぁ、お上手ですこと。
本日は素敵な時間をありがとうございます。
音楽と演技の調和が見事の一言でした」
一体彼らの間でどんな噂が流れているのか? 背筋がヒヤッと冷たくなる。
だがこういう場で体勢を維持して穏やかに微笑むことが自分に求められているものだ。
一分一秒でも早くこの場を過ぎ去りたいと思っていても態度に出してはいけない、窮屈な立場だと今更思う。
「おやおや、王子殿下にご婚約者殿!」
するとこちらの立ち話の様に気が付いた他の招待客がフレンドリーな態度で近づいてくるではないか。
舞踏会で見たような見てないような、他にも数人が引き寄せられるように集ってくる。
これが王子の吸引力かと勝手に震え始めるカサンドラ。
結局、劇が終わったあともしばらく彼らとの立ち話に興じることになったのである。
解放された時には、たっぷり四十分は経過していた。
「カサンドラ嬢、申し訳ない。私のせいで手間取ってしまって」
これから用事があるとやんわり告げる王子。
劇団長らに絡めとられていたかのような粘着質な空気がようやく霧散した。
王子が自らその場の話題を切り上げようとする、潮時だと皆がすんなりと引き下がる。
それでも相手の顔を潰さないように心行くまで話を頷きながら丁寧に聞いていく王子の生真面目さが印象的な時間だった。
八方美人と言えばそうかも知れない。
だが出来るだけ相手を立てよう傷つけないようにしようとすれば、自然と今のような振る舞いになってしまうのだ。
「とんでもないことです」
ヒールの高い靴で立ち話をしていたせいで、少々
姿勢を崩さないように淑やかに待つというのは精神修行の一種なのではないだろうか。
先を急ごうとする王子の横に並ぶように、カサンドラも足を踏み出す。
だが慌て、急に動き出したことで少し重心移動に手間取りが生じた。転びはしないものの、少々足が縺れたような動きに見えただろう。
咄嗟に横の壁に左手をつき、事なきを得る。
誰にも見られてなかったらいいのだけど、と恐る恐る周囲を見渡すと。
……。
王子がしっかりとこちらのもたつきを視界に入れていたようだ。
自分のイメージした動きでは、颯爽と彼の横で歩く姿がしっかりと描かれていたというのに!
何という失態。まさかよろめいて壁に手をついて転倒回避した姿をバッチリ目撃されてしまうとは……
たかが三十分四十分でこんなに足が動かないなど忍耐が足りない、良い笑いものだ。
もしも王族の仲間入りをするなら二時間でも三時間でも耐えきり、スマートな振る舞いが求められるというのに情けない事と落ち込んでしまう。
そんなカサンドラの内情など知らない王子の次の行動は、あまりにも予想を外したものであった。
「気が利かなくてごめん。
こちらの腕を使うと良いよ、カサンドラ嬢」
責められることはなかったけれど。
彼が何の事を言っているのか首を傾げそうになった。
だが彼は”こちら”と言いながら自身の左腕を軽く指差している。
左腕の肘を僅かに曲げ………
腕にしがみついてもいい、と?
え? 腕を貸してやるから組めと?
一秒の半分にも満たない僅かの時間で彼の言動を解したカサンドラの心象風景は、無数の隕石が地面にめり込んでクレーターをぼこぼこ作った後のように穴ぼこまみれになっていた。
これはオーバーキルだ。
王子の紳士魂に息の根を止められてしまう!
自分の顔が変な形で固定されていないだろうか、無意識の内に失礼な表情を見せていたらどうしよう。
彼の厚意とはいえ、流石にそこまで負担をかけるわけにはいかない。
固辞しようかと言う考えもチラっと頭を掠めた。
王子が腕を貸してくれる、組んでも良いと言ってくれるならその意志に沿った方が良いのでは。
だが手を繋いだこともないというのにいきなり腕組み?
これは自分が図々しい人間かどうか試されているのでは。いやいや王子は人を試すようなことはしない、これは純粋に厚意なのだ。
「お気遣い痛み入ります、王子」
カサンドラの中の欲望に忠実な部分が勝手に返事をしてしまった。
返事をした後で本当に良いのか、畏れ多さに身体の中の臓物が一気にぎゅーっと圧迫されたような息苦しさを覚える。
公的には婚約者同士。その組み合わせで一緒に観劇を楽しんだ後、敷地内を歩くのに腕を組む、特に問題はない光景のように思える。
指の先はガチガチに固まっていた、小刻みに震える。
自らの腕まで絡ませて組む、ということはさすがに無理だ。
だから僅かに空いた王子の腕と胴との空隙、肘の内側に掌を添えるだけに留める。
出来るだけ体重を掛けないように添える――いや、ギリギリ掌を彼の服から浮かした方が良いのか?
誰も答えなんか教えてくれない、真っ白な頭では何も考えられない。
「………。
では行こうか」
腕に手を置かせてもらうだけで、内心は大嵐に見舞われている。
舞踏会で踊っていた時にはもっと接触していたことを思い出せば、大したことは無いのかも知れない。
エスコートされる時には手を取ってくれる、その延長だ。
だけど状況が違う……!
よくもリゼはジェイクと一緒に馬に乗せてもらって正気でいられたものだな、と今更彼女の精神力に畏敬の念を抱く始末だ。
腕に触れるだけで、恥ずかしすぎて彼の顔だってまともに見えもしない。
ただ真っ直ぐ前を向いて歩く。
この敷地内から出ればこの緊張の時間から解放されるのだ。それまで叫びだしたい己の感情を宥めるのに精いっぱい。
そんなカサンドラだったが、途中に強い視線を感じて首を傾げた。
じーーーっと遠くの柱の陰からカサンドラを見つめる熱い視線は、注意力が散漫なカサンドラでも気づけるほど強いものだ。
左の方についと顔を向けると、熱烈な視線の主と視線が合った。
「まあ……」
なんて可愛らしい! とその愛らしさについ口元が綻び笑顔になるような、そんな美少女がカサンドラに視線を送っている。
同年代に見える、ゆるく波打つ亜麻色の髪を腰まで伸ばすお嬢さん。
この観劇に招待されたお嬢さんだとしたら、どこかの貴族のご令嬢ということだろう。それもヴァイル派の。
流石にヴァイル派の末端貴族までカサンドラも全て把握しているわけではない。
舞踏会で彼女がいたらさぞかし目立ち、周囲の視線を掻っ攫っただろうから……もしかしたら母親が正妻ではないお嬢さんなのかも。
大きな蒼い瞳のお嬢様は、視線が交叉した途端静かに頭を下げる。
カサンドラはごく普通の価値観を持っており、可愛いものや綺麗なものが好きだ。
名前も知らないけれど、愛らしく微笑む良家のお嬢さんを前にすれば自然と心が洗われる。
その視線に敵意や嫉妬などが込められていればそれどころではないけれど。
貴族の令嬢にありがちな気位の高さを感じず、純真で可憐さが印象的な女の子だった。要するに”スレていない”無垢、素直さが溢れているようでどことなく初々しさもある。
いずれかの国のお姫様がお忍びで観劇に来ていたのだと言われてもカサンドラは納得しただろう。
「あちら、可愛らしいお嬢さんですね…!」
思い余って王子に話しかけてしまうくらい、カサンドラの好みを狙い撃ちする清らかで愛くるしい華奢なお嬢様。眼福だ。
花のような淡い桃色のドレスに身を包み笑顔を向けてくれる彼女の事が気にかかる。
だが彼女はすぐに視界から消える。跡形もなく去っていた。
まるで妖精がそこにいたのではないかと空目する、不思議な出来事が起こったのだ。
目を凝らしても柱の陰には誰もいない。
こうして王子の腕に手を添え、僅かながらも寄り添って歩けるのもあの幸運の妖精の力なのではないか? と本気で信じてしまいたくなった。
忽然と姿を消した美少女。
まさか幽霊?
少しだけ彼の腕に添える指に力がこもってしまったかも知れない。
もしかしたら痛みを与えてしまったのではとドキッとして王子の様子を見上げる。
――とても近くに、彼の顔がある。
歴史的彫刻、美術品もかくやと思わせる均整の取れた美しい顔がすぐ傍にあるという奇跡。
指の先まで心臓が出張してしまったのではと思う程指の腹がドクドク脈打っていて、動悸の速さを王子に把握されそうだと怖くなる。
「……うん、そうだね」
彼は曖昧な微笑みとともに、頷いた。
※
劇場の建屋を出た途端、十名程の騎士が待ち構えていたかのように一斉に目の前に居並んだ。
ザッザッと重たい靴音を響かせ正面に現れ、跪く精悍な騎士。
彼らの前触れない登場にカサンドラはビクッと肩を跳ね上げる。
「すまない、予定より随分待たせてしまった」
「御無事で何よりです。
観劇はお楽しみいただけたのでしょうか」
「ああ、中々興味深いものだった。
……私達はこれから近くの
待機中であろうレンドール家の御者にその旨を伝達しておいてほしい」
「承知いたしました」
餐館とは一体何だろう。
護衛の騎士達も心得たものと動きはスムーズだが、カサンドラは全く意味が分からない。
「シリウス達と共有しているものなのだけどね、王都に休息所としていくつか建物を管理させているんだよ」
王都内に出かける際、食事をする場所を確保することは大変手間だということで友人間で自由に使用できる建物を持っているそうだ。
そりゃあジェイクも王子もカフェなどで食事をすることがないのも当然だ、お腹が空けば近場の館に立ち寄れば良い。
そこでちゃんとした
わざわざ庶民に混じって食事をとることもなく、毒見役もきっちり雇った共有の食事処を使用していたわけだ。
その餐館とやらは毎日使用するモノではないだろうし、常に食材や人員を管理して回すのは大変だろうなぁ。
自分も侯爵令嬢としてそれなりの待遇で暮らしてきたが……
規模の桁が違うなと改めて思い知らされる。
「わざわざ馬車を使わなくても歩いてすぐのところにある。
このまま向かっても大丈夫だろうか?」
「勿論です」と頷きながらも疑問符が飛び交う。
……え、腕に手を添えたまま街道を歩くのですか……!?
周囲に十人単位の騎士の護衛を従えて?
ずらずらと周囲を取り囲まれたまま道を歩く、それも王子と腕を組むような状態で……
それならジェイク一人が単体で傍にいてくれた方が、まだ心情的に気楽ではないだろうか。
現状は恥ずかしすぎる。顔を覆ってしゃがみこみたい羞恥に強襲され、全身が震えた。息も絶え絶えだ。
ジェイク一人だったら見て見ぬふりをするとか、少し距離をとって他人の振る舞いをしてくれそうなものだ。
でもこの騎士たちにそんな配慮は求めるべくもない。
衆目に王子とその婚約者でござい、と喧伝しながら歩くのか……
実は彼がありがたい存在だったことに気づいたところで、ここにジェイクが来てくれるわけもない皮肉な現状。
凄く目立つことだと思う、でも王族ならそれは当たり前の自衛なのだ。
命の価値は等価だなんてそんな綺麗ごと、この世界では通用しない。
彼の命は守らなければいけないものだ。
……今日劇で見たシグリアの末姫ではないけれど、自分が身代わりになってでも守らなければいけない人だから。
立場的にも、心情的にも。
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