第136話 ラベンダーの香り


 翌朝もラズエナは快晴だ。

 この地域特有の気候現象のおかげなのか、まるで初夏や初秋かという身体に優しく過ごしやすい。


 冬は立ち入ることのできない程雪が積もってしまうそうだ。が、それ以外の季節は過ごしやすく、エレナも良く遊びに来ているのだという。

 先代のエルマー子爵が、過去莫大な資金を投じて手に入れたこの別荘地を嫁に出る娘の結婚祝いに渡すと言った時は親族間でひと悶着あったそうだ。

 その理由も良く分かる。


 自慢のラベンダー畑に案内すると言って、エレナが先導してくれる方向は牧場の方向とは真逆の路であった。

 標高が高いので空気が薄いのかと思ったが意外とそうでもない。

 涼風のお陰で、散策も捗る。


 彼女は先日の夜、包み隠さずあっけらかんと話をしてくれた。

 竹を割ったような性格の女性と言うのだろうか、全く悪びれた風もなくすっきりした様子である。


「このような素敵な避暑地にこれからも滞在できるなんて羨ましい限りです。

 こちらでお世話になりたいと仰る方も多いのではないでしょうか」


 彼女の一家だけでは到底手に余るような敷地である。

 そして別荘と言うからには普段住んでいない間も管理費がかかるもの、金の有り余った人間の道楽事でしかない。


 普段別荘と言ってもあまり心が揺り動かされないカサンドラも、ここまで王都に近く王家の保養地も隣接する場所に誰にも気兼ねなく遊びに来ることが出来るなど、羨ましい限りではないかと思ってしまった。


「両親が亡くなった後は、この土地はエルマーに還そうと思っています。

 一庶民の私が管理するには過ぎた土地ですし。

 変な事件に巻き込まれたくもないですからね」


 何の気なしに言ったカサンドラの言葉にも、彼女は淡々とそう返す。

 自分には過ぎたものだという意識は成程現実的で彼女らしい考えだと思えた。

 売ろうとすれば莫大な金が動き同時に面倒ごとも起こるだろう。

 欲がない――というよりは、この人は身の丈を知り、足るを知る人だと素直に受け止める。


 カサンドラはチラリと肩越しに後ろを見やる。

 小道を先導するエレナの後ろに三つ子が並び、周囲あちらこちらを楽しそうに指でさしては笑い合っている。

 本当に平和だ。


 見渡す限り草原の丘が広がり、そこには人の気配もなく小動物が自由に過ぎゆく。

 こういう牧歌的な雰囲気の中、可愛らしい三人の少女の姿はとても映える。


 特に今日はリゼの格好が一段と華やかなのが良い。

 彼女の手持ちの服では、この高原の避暑地で歩く少女としてはいまいち地味であか抜けない姿になっていたかも知れない。

 いつもの服で悪い事はないのだが、やはり遥々こんな場所まで来たのだ。

 最後の日の散策くらい、女の子らしい可愛い恰好で過ごすのも気分転換になって良いだろう。


 この間カサンドラが選んだ膝上スカートを穿いて部屋から出てきた彼女はしばらく着心地が悪そうにもじもじしていた。

 だが一緒に行動するのは自分達だけだ。

 少し離れたところに護衛兵が目を光らせているだけで、しかも彼らはリゼの直接の知人ではない。

 開き直った彼女は、リタと同じようにすらっと細い健康的な素足にミュールで出陣した。

 本人曰く、もう新しい替えの服がないという切実な訴えから選択肢が無かったものと思われる。


 ――長旅に必要最低限の着替えだけというのは、年頃の女の子としていかがなものか。



 このカサンドラが選りに選ったこの一着をジェイクに是非見て欲しかったが、生憎彼の姿はない。昨日は乗馬の予定ということで、皆長袖に長ズボンという動きやすいスタイルだったからしようがない。

 ジェイクと二人で遊びに行き始めたころに着ればいいと思うが、反応が見たかったので残念だ。


 リタも膝上の白いキュロットスカートにふくらはぎ半ばまでの編み上げブーツで、相変わらず活動的で爽やかである。

 二人の白く細い足が眩しい。



「エレナさんは官吏でいらっしゃいますよね。

 多岐に渡る役職ですが、今はどのようなお仕事を?」


 テクテクと道を歩く。

 細やかに整備されているわけではない小道には小石が転がっていることもあり会話に夢中になり過ぎて躓かないように注意を払いながら。


「私は主に財務所轄を担当しています。

 まだ入りたてて、雑用が仕事のようなところがありますが……

 最初の頃は帳簿や契約書の束を見ると眩暈に襲われたものです。

 国内中の申告が届くので、その仕分けに追われていますよ。

 戻ったら、またあの山を掻き分けないといけないのですね……」


 いけない、彼女の目がどんよりと暗い影を帯びてしまった。


「昨夜、王子もお仕事中にいらっしゃるというお話を伺ったものですから。

 普段王子は王宮でどのようなことに携わっていらっしゃるのか気になったのです。

 折角の休暇に不躾な質問をして申し訳ありません」


 彼女の仕事を事細かく聞いてみたいのは自分ではなくリゼの方だろう。

 王子が普段自分の知らないところでどんな事をしているのか、シリウス達以外で知っているだろう唯一の知人だ。

 ついつい言葉が迂遠になってしまったかも知れないとカサンドラは言葉を重ねた。


 そうだったんですね、とエレナはニコッと微笑んだ。

 こんなに美人さんなのに結婚相手はおろか恋人さえいないとは。


「王子は今なお様々な分野のお仕事を学んでおられるそうです。

 最近は財務関連の勉強をなさりたいとのご希望で、お顔を拝見する機会が多いのですよ。

 シリウス様がお越しの際には、また別の政務内容に携わっていらっしゃるとか。

 毎日のように私の所轄にいらして、熱心に上司の話に聞き入られておりましたよ」


「やはりお忙しいのですね」


 カサンドラの王権国家のイメージでは、王様は周囲からの奏上を毎日聞いて『よきにはからえ』と重々しく頷く姿がパッと思い浮かぶ。

 もしくは決裁書類に印を押すのがメイン業務。その他の時間は謁見の間で玉座を温めているとかそういうものだ。


 だがやはり一国を背負う立場と言う王族たるもの、為政者として必要な知識も多くあるのだろう。

 カサンドラのイメージはあまりにも浅薄が過ぎ、本当はもっと込み入った話もしているのは当然だと思い知らされる。


 特に王子は真面目だという話だ。

 自分が良く理解できていないことに「うんうん」と頷き誤魔化し、後でこっそり確認したり……など小狡いことができないに違いない。


 その道に通ずる官吏や大臣から積極的に日々政務のことを学んでいるとは、頭が下がる想いである。


 唯一の王の子という立場は考えてみれば心許ないとも言える。

 継承権争いとは無縁だが、もしも仲の良い兄弟がいたら血の繋がった信用できる相手に責任の一部を負担してもらうことも出来るだろうに。


 将来の側近であるシリウス達が王子の手足の代わりとなって支えていくことになるはずだけど。


 それでもやっぱり、立場としては孤独なのではないか。

 自分に何かあったら今の王族の直系血統が途絶えるとか……歴史に重きを置く中央貴族達にとっても面目ないことだろう。

 レンドールのような地方貴族ならいざ知らず。


「はい、それに加えて学園側の宿題もありますしね。

 ……学園という場所で学んだことは実務にも十分生かせることです、真面目に取り組まれていらっしゃることは重畳。

 ともすれば地方だ中央だでやり方が変わるような手続きやら慣習も、学園を通して統一化出来るのは良いですね。

 こちらとしても助かってます、無駄にはなりませんよ」


 きっと寝る間も惜しいくらい、毎日忙しく過ごしていることだろう。




 そんな風に頷き納得しながら歩くカサンドラの金の髪を、一陣の風がザアッとさらっていった。




「こちらがラベンダー・カーペットです」


 そう言ってエレナが掌で前方を指す。

 そこには確かに、紫色の可憐な花々が敷き詰められた花畑が広がっている。


 ラベンダー・カーペットとは言い得て妙だ。

 一面敷き詰められたラベンダーは、まるで柔らかい絨毯のようではないか。


 人の手によって丁寧に整えられた花畑は、確かに維持に時間もお金もかかりそうだ。

 エレナ一人の手には余るだろう。



 高原に咲き誇るラベンダーの園に、三つ子もうわぁ! と歓声を上げる。


 香り立つ園に立ち、カサンドラも胸をときめかせる。

 自分だって普通の感性を持つ年頃の女子である、一面のラベンダー畑に案内されて感じ入らないわけがない。


 爽やかなラベンダーの香りに鼻孔を擽られ、カサンドラは大きく深呼吸した。

 生花だから強くは感じないが、この心安らぐリラックス効果のある香りを是非とも部屋に移動させることが出来れば……


 そう考えて思い立った。


「――エレナさん、ラベンダーを少々お譲り願えないでしょうか?」


「勿論構いませんよ。花瓶に活けてお帰りに?

 それなら先に入物を用意しておいた方が良いでしょう」


「いえ、結構です。

 香り袋サシェを作ってみようと思い立ちまして。

 お花をそのまま持ち帰らせていただきますね」


 ついでに馬車内に吊るして乾燥させればいい。


 ドライフラワーにして香り袋の中に入れれば、この良い匂いをどこでも感じることが出来るのだ。

 適当に千切ればいいなら以前作った押し花より簡単そうだが、袋自体を手縫いするなら少々手間か。


「承知しました。それは良い案ですね、一週間も吊るせば香り立つ乾燥花ドライフラワーになるでしょう」


「心を落ち着かせる効果があると言いますし、楽しみです」



 ……良い布を見繕って、乾燥させている間に袋を縫って。

 そうしたら今度王子に観劇会で会う時に渡すことも出来るだろう。


 彼はとても多忙の身という話だし、少しくらいはリラックス効果が役に立つだろうか――いや、邪魔かも知れないけれど。

 王子にラベンダーの爽やかな香りはよく似合うだろうし、時期的にもラベンダーが咲き誇っている場所などここくらいだろう。

 お土産としても丁度いいのではないか、と。


 カサンドラはホクホクと楽しそうに、端の方から少しずつラベンダーを拝借させてもらうことにした。

 この見事な紫のカーペットが後は枯れてしまうだけというのは勿体ないなぁと思いながら。



 ようやく三十本程度、出来るだけ目立たないものを摘み終わったカサンドラ。

 ふぅ、と額に手を当ててしゃがんでいた腰を真っすぐ伸ばす。――と、傍に誰かが立っているのに初めて気づいた。


「……リゼさん?」


 彼女は何故か、ボーッとした様子で花畑を眺めている。

 茫洋とした彼女の、ここではないどこかを見つめる彼女の佇まいにぎょっとして話しかけてしまった。


「どうかされましたか? 気分でも……?」


 もしかしたら匂いに過敏で、あまり歓迎できない身体状況かもとカサンドラもヒヤッとした。

 だがリゼは近づいてきたこちらの姿に気づき、困ったように眉尻を下げて首を横に振るのだ。


「すみません。

 ……この花を見てたら、つい思い出してしまって」


 彼女はうーん、と青空を仰いだ。

 チラと周囲の様子を一望したが、リタもリナもそれぞれ全く別の位置で景色を楽しんでいるようだ。


 ラベンダー畑には、人一人が通れるスペースが空いた道が連なっていた。

 畑全体を世話をする栽培人に必要なスペースだろうが、それがまるで迷路のように複雑で面白い。

 畑の中ほどに入ると、花を踏み荒らさないように脱出するのは中々難しそうだと思った。



「なんで、シリウス様は私に花冠くれたんでしょうね?」



 感情を抉る物凄い直球に、カサンドラは手に持っていたラベンダーの束を思いっきりバラバラと落としてしまった。

 それを屈んで慌てて拾うと、彼女も手伝ってくれる。


 ドキドキする。

 確かに、彼は特別な理由がない限り女性にそんな事をするような人間ではない。

 それはリゼも分かっているのだろう、だから「何故?」と首を捻っているのだ。


 どうしようか、ここは苦笑して逃げるべきか。

 ……でも、カサンドラだって興味がないわけではなかった。


 彼女達の恋愛模様を間近で見てきた。

 決して他人の好意に鈍感な人間ではない、個々の想いのベクトルの方向を重々理解できているように見受けられる。

 それは即ち、自分に向けられた仄かな好意も理解しているのではないか……? と。


 そんな緊張感に彼女に悟られないよう喉を鳴らす。

 もしもシリウスが好意を寄せているのだと知ったら、リゼはどんな反応を示すのだろう。


 迷惑そうにするのか。

 それとも、案外憎からず思うのか。

 彼の事を意識するようになるのか。

 ――避けるのか。


 地面に落ちた最後の一本のラベンダーを手に取り、カサンドラはもう一度丁寧に束に直す。


 いや、駄目だ。

 シリウスの気持ちを勝手に、彼自身のいない場所で仮定であったとしても披瀝するような真似は駄目だ。

 第一リゼに確信を抱かせ、混乱させたり委縮してしまっても困る。 


「仰る通り、とても珍しいことだとわたくしも驚きました。

 ただ――

 あの方は過去、知人の方に花冠の作り方を教えて頂いたのだと、誰に促されるでもなく編んでおられたそうです。

 今更自分には必要ないものだと我に返ったものの、捨てるには惜しかったのでしょう。管理人がわざわざ冠用に用意して下さった花ですしね。

 その場に不在のリゼさんの事をたまたま思い出し、リナさんに渡すようお願いしたのでは?」


 贈るために作ったわけではない、という解釈を強調しておいた。

 実際のところのシリウスの思惑などカサンドラも知らない。

 本当にたまたまリゼのことを思い出したのかもしれないし、最初からリゼのために作ったのかもしれないし。


 本人でないと分からないことで、訊くつもりは当然ない。

 それならリゼにとって安心できる解釈を勧める方が良いと思った。


「成程、私は要らないモノ処理班として使われたと」


 リゼの台詞は、どこか安堵を滲ませるものであった。

 本来なら不要なモノを押し付けられたんだよ、なんて言われて喜ぶような人間はいないだろうに。


「心遣いは有り難かったですけどね。今はリースにして玄関に飾ってますし。

 はぁ、そういう事情なら納得です」



  本心のところは知らないが、許せシリウス。

  複数の解釈の余地がある行動をとった君が悪いのだ。



 彼女も納得したのか、ようやくすっきりした顔に戻る。

 自分のために作られたのか、はたまた作ったけど要らないから適当に処理してくれと渡されるのでは全く意味合いが違う。



 ようやく目の前のラベンダーの景色を楽しむ気になったリゼは、首を傾げてこちらをジロジロ眺めてくる。


「カサンドラ様、そちらの花束、どうされるんですか?

 沢山抱えていますけど」


「ドライフラワーにして、袋に詰めようかと思っています。

 爽やかな香りが今から楽しみでなりません」


 王子は喜んでくれるだろうか。

 そもそも使ってくれるかさえ、定かではない事だが。

 何か贈り物が出来るというだけで、心が浮き浮き満たされていくのが分かる。


「いいですね!

 王子への贈り物ですか?

 きっと喜ばれると思いますよ、集中力アップです!」


 ――!?


 別に何も言っていないのに、リゼに一瞬で看破されて絶句する。


「あら、わたくしは用途についてまで説明しておりませんよ?」


 せめてもの抵抗に、ホホホと微かに口角を上げて笑う。

 だが彼女は不思議そうに首を捻るのだ。



「……え?

 あの……すごく幸せそうな顔でしたし……贈り物以外なんだっていうんですか……?

 カサンドラ様、分かりやすすぎですよ」



 きょとんとした顔でリゼに言われては立つ瀬がない。

 そんなに自分は表情に出やすいのだろうか、と。逆に悩ませられる。


 それとも自分が王子の事を考えている時は、頭の上に彼の姿をとった陽炎でもゆらゆら浮かんでいるとでもいうのか。

 あるはずがないのに、とても恥ずかしい。





「そちら、王子への贈り物だったのですか。

 それならどうぞどうぞ、もっと沢山お持ち帰りください。

 香り袋サシェ二つ分でも三つ分でも……ああ、お揃いの袋でお持ちになるのも良いんじゃないですか?」



 どこにいたのか、エレナがひょいっと会話に割り入ってくる。

 「え? え?」と戸惑うカサンドラの腕に、次々にエレナによって摘まれたラベンダーが増えていく。




  このように沢山あっても、困ります!




 喜々と楽しそうに花を摘むエレナの背中に慌てて声を掛けるが、彼女はその手を休めない。フンフーン、と鼻歌交じりに楽しそうで、無理に止めさせるのも憚られる。




 カサンドラは前が見えない程摘まれたラベンダーを抱え一人途方に暮れていた。

 






 ※








 帰りの馬車内はラベンダーの香りに包まれ、皆でスヤスヤとクッションに身体を沈めて眠り込む。




 どうやら――リラックス効果は抜群のようだ。




 夏休みも、あと半分。

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