第134話 <リゼ 2/2>


 ジェイクが呼び寄せた黒い巨躯の馬に乗れ、と言われた。


 リゼは今日と言う日に至るまで馬に跨ったことは無い。

 そして頑張ってみようにも馬に乗せてもらえない。そんなどうしようもない状況を厭と言う程味わったのだ。


 果たして普通、一般常識として。馬に二人で乗るとはどういう状況になるのだろう?

 あまり考えたことが無かったことにリゼの頭は大混乱だ。


 大柄な体とは思えない軽やかな仕草で鐙に片足を乗せるジェイク。

 それを呆然と見上げているだけの自分。

 一体どうすれば……と硬直したリゼに、ジェイクは馬上から片腕を伸ばす。


「後ろに乗れるか?」


 後ろに……?

 目の前がグルグル回るリゼを、カサンドラとエレナが誘導してくれた。

 自分一人では馬にも乗れないという事で、引き上げてもらいつつ馬の背にちょこんと跨る。



 ……ええと、これは。

 前に座っている人に後ろから手を回しても良いものでしょうか。


 そうでないと恐らく、自分は吹っ飛ばされる。


 初めの内はそんなこと出来るか! と、ピクリとも腕を動かせなかった。

 しかし少し視線を横にずらせば、地面から結構な高さでぞっと背中が震える。

 先ほど振り落とされかけた馬よりもずっと視界が高く、これで落馬したら怪我どころでは済まない。

 その現実に迫った恐怖感がまさり、黒馬が身じろぎし身体がグラグラ揺れた瞬間リゼは建前と恥を捨て去って彼の鎧に慌ててしがみついたのである。



 馬で二人乗り出来てどう思ったかと言われれば、リゼは間違いなく『怖かった』と即答することになっただろう。

 抱き着いているとは言っても、彼は黒い皮鎧を上体に纏っている。

 どれだけ強く力を込めようがびくともするものではなく、まるで丸太を抱えているようなものだ。




 ※




 ゆっくりとエレナの乗った馬が牧場の出口から走り出す。

 出来るだけ速度は落としているとはいえ、その四本の脚で駆ける動物は人間のより遥かに速い。


 景色が良い高台まで向かいましょうと手綱を握りしめる彼女に、リタもリナも何故難なく着いて行けるのだろう。

 彼女達が特別呑み込みが早いから仕方ないとフォローされようが、リゼにとって何の慰めにもならなかった。



 最初の内はまさかジェイクが馬に乗せてくれるなんて、だとか。

 二人乗りで連れて行ってくれるという信じられない夢のような事態にリゼは完全に浮かれていた。


 だが振り落とされないよう腹に力を込め、彼が着込んでいる鎧の腰の部位に回して涼しい風に頬を嬲られていると――状況とは反するように、段々苛立ちが募ってきた。



 その憤懣やるかたない想い、苛立ち。

 舌を噛まないために黙っておくよう言われた忠告を最初こそ守っていたものの。


 次第に湧き上がってくる納得できなさ、腹立ちに全身が戦慄わななく。

 ついには、抑えられない感情を叫んでしまったのである。


「ああ! もう、悔しい!」


 それはしがみついていた前方の男性をぎょっとさせるだけの音量だったようだ。

 彼は少しばかり馬の速度を緩めさせ、不思議そうな顔で横からこちらを振り返りこちらの顔を覗き込もうとする。

 それを避けるよう、ぐっと唇を噛み締め俯く。


 今回に限ったことではない。


 この人と手を繋ぐ機会があったのだって、リゼが教室内で最もダンスが『出来ない』生徒だったからだ。

 あれはあれで良い思い出になったけれど。

 今はそんなポジティブな想いに浸ることなど無理だ。


 植物園で抱え上げてもらった時だって、愚かにも自分が足を滑らせ怪我をしたせい。

 別にジェイクがそうしたくてしたわけでも、特に理由があったわけではない。


 人より出来ないから、手を差し伸べられているだけではないか。


 誰かより劣っているから、出来ないから、お情けのように引き上げてくれる事に縋って嬉しい、幸せだと思ってしまう現状はリゼには納得しがたいものがあった。

 一度や二度なら、それも幸せな思い出の一ページとして思い返してはニヤニヤできるものだろう。


 でも――



「リナやリタは乗れるのに……!

 私だけこうやって乗せてもらって、凄く悔しい!」


 もしも普段着の人間だったら、力いっぱい両腕に力を込めてぎりぎりと絞り上げるリゼの行動は咎められたかも知れない。

 だが必要以上に力を込めても目の前のジェイクが全く微動だにしないし眉を顰めることもないのだ。

 自分には何の影響力もない。

 畢竟、これが自分でなくてカサンドラだったとしても知らない人間だったとしても。

 人形でも荷物でも、大してジェイクにとって変わりはしないのだ。



 一緒の教室にいて姿を見れるだけで嬉しい。

 挨拶が出来、気軽に話が出来るようになれて嬉しい。

 街中で会えたり、一緒の時間を過ごせることは嬉しい。



 だけど足を引っ張る出来ない子扱いされることが厭になってきた。

 ほぞを噛む想いだし、悔しい。



 ただ見ているだけの存在だったら嬉しいと思えるような一連の出来事が、こうして今、ぎゅっと腕を回している至近距離になった瞬間がらりと景色を変える。


 ……嬉しさよりも、惨めさが勝る。


「ジェイク様……!」


 彼の腹前に回していた右手を僅かに浮かせ、ダンとその黒皮の鎧を拳で叩く。

 当然、外傷から身を護るために作られた鎧はこんな小娘の拳程度易々と衝撃を吸収し弾くのだ。


「今度は! 私も乗れるようになってますから……!」


 背中に額を押し付け、あたかも心中の未練をそのまま引きずり出した呪詛でも撒くかのように。

 リゼは様々な意味で耐えがたい恥辱に歯噛みする。


「いや、あいつらが結構おかしい事してるだけだ。

 そんなに気にしなくても」 


 リゼの言葉を聞き咎め、ジェイクは呆れたように声を上げる。

 

「次があったら! ……今度は、一緒に走ってくれませんか!?」


 出来の悪い荷物と化したいわけではない。


 自分は彼に対して何か出来ることがあるのだと既に知ってしまった。

 役に立てた時の満足感や充足感を知っている。

 だからこそ常にただのお情け成分で傍にいてもらったり、接触があることが耐え難い。



 ――何もできない弱い子扱いで一緒にいれても、それは虚しいだけだと思った。

 そりゃあこうやって誰にも言い訳や遠慮せずに思う存分しがみつけることは役得だ。

 二度とない奇跡的待遇かもしれない。


 ……ただの偶然で二度目など期待できない。

 それに甘んじて幸福を感じるには、自分の感情は貪欲に育ちすぎた。


 自分の力で得たものではない偶然に酔い、それを期待する受け身状態は大変耐え難い。


 しばらく彼の返事はなかったが、やや時間を置いて彼はお腹を抱えるような前傾姿勢になって笑った。


「お前本当に負けず嫌いだな。

 じゃあ一人で乗れるようになったら、オススメのとこに連れて行ってやるよ。

 ………。」


 だがそう言ってくれた後、彼は押し黙る。

 背中からでは彼の表情を見ることは叶わないのだけど、その沈黙に何かしらの意味が含まれているのではないかと思い緊張する。

 勢い余って放言したはいいものの、やはりそこまでリゼにしてやる義理はないと思い直しているのか。


 それとも、どうせだったらリタも連れて来いと言われるのではないか。


 前方から吹き付けてくる風に馬上で背中に汗を流すリゼの全身が冷えていく。


「フランツから許可が出たら組手するって話だったし、お前の誕生日は何か返すって話だし、今度は馬か。

 ……先の予定がどんどん増えていくな」


 言われてみればその通りだ。

 改めて思い直すと、自分はどれほど彼の時間を拘束しているのだろうかとヒヤッとする。

 今の段階で自分とジェイクはただの同級生という以上の関連性はない、ここまで彼の手を煩わせる程仲が良いというわけでもないのに。


 面倒な一般人と遠ざけられても仕方のないレベル。

 指先が凍り付き、そのまま滑らせて馬から落っこちそうになる。



「俺さ、”予定”なんて嫌な事しかないと思ってた。

 入学してから分かったけどさ――楽しい予定っていうのも、結構あるもんだな」

 

 何の気なしに、ぽつっと呟かれた言葉。


 馬上という特殊な環境において、彼の背中に密着しその言葉の続きを耳をそばだてて待っていた自分でなければ絶対に拾い上げることのできなかった声だ。

 耳元では風の音が煩く、そして自分の意思に全く沿わず上下前後に揺らされる中。


 ぎゅーーっと心の奥が締め付けられる。

 まるで熱い鉛でも喉から流し入れられたのではないかと思う程、胃の当たりがじんじん熱い。


 彼の言葉はとても素直で裏表がなく、リゼの頭の中にスッと入ってくる。


 ああよかった、嫌われているわけではない。

 安堵する気持ち。

 そして乾いていたところにじんわりと水分が染み渡っていくように満ちていく。



 リゼは彼の事が凄く好きだ。


 この感情が恋と呼ばれるものでなければ一体何なのだ? と思うくらいには、理性ではどうしようもない部分で好きになってしまった。

 元々自分は視野が狭く、思い込みが激しく、そうだと思ったら脇目を振れない性状であることは承知している。 

 一度そうだと思った以上、この想いは延々ずーっと続いていくのだろう。



 果たして自分は彼とどういう状況になれれば満足なのだろうか?

 眠れない夜に時々考える。


 万が一、億が一、仮に『好きだ』と言われたとして、それがどうなるというのだろう。

 これだけの身分の差があり、恋人関係になれるかと言われれば難しい事だと思う。

 間違っても対等ではない。


 彼の庇護下に置かれたというだけの存在に過ぎず、言葉は悪いが『囲われた』ということにしかならない。

 何も持たない、役に立たないただの人間を好いたところで彼の立場では今のように荷物にしかなれない。

 果たして彼に何のメリットがある。

 永続的保証などない人間の想いをただのよすがに、慈悲を乞うて生きるのか。



 そういう未来を求めたいのか?

 自問自答すれば、それは違うと思う。 



 物凄く烏滸がましい事で、こんな事を考える事自体が失礼なことなのかも知れない。

  


 一人の”意義のある人間”として、少しでも対等でありたいのだ。

 いつまでもどこまでも手を煩わせることしか出来ない人間など、彼の興味は持続しないと思う。

 その立場に甘んじた時点でそこから先へは進めないはずだ。


 フランツに薦められた騎士団が採用する補佐官のことを本格的に視野に入れ始めたのも、結局のところそれが理由である。

 自分は彼の携わる職務の中においても、役に立てる人間だと。関わることが可能な人間だと思って欲しいだけだ。




 自分だけ馬に乗れないという状況はあまりにも屈辱だ。

 彼の手を借りなければ、一緒に行くことも出来ないなんて無能極まりない。



 ……だけど……



 その悔しさを受け入れてもらえたから、少しだけ心が楽になる。

 しがみつく腕に力を込めたら、皆から遅れ気味だった黒馬の速度が徐々に上がっていく。




 彼が言う通り、下手に口を開けたら舌を噛んでしまいそうな激しい振動に固く目を閉じた。





 ※





 エレナが先導し、案内してくれた高台に辿り着いた時は既にリタもリナも下馬した後だ。


 高台には大きな岩が積み重なっているモニュメントがあって、そのあたりから下方を見渡す景色は最高だった。




 結局今日一日で馬を乗りこなすなんて高度なことなど出来やしない。

 リナやリタの乗ってきた馬を貸してもらって乗ろうとしても、相変わらずプイっとソッポを向かれるのだからどうしようもない。


「ジェイク様……

 どうやったら馬って乗せてくれるんですか……?」


 綺麗な景観さえ何の慰めにもならないくらい、リゼはズーンと落ち込んでいる。


「そうだなぁ。

 馬の世話を続ける事で打ち解けるってことはあるけど。

 俺もコイツが仔馬の頃から世話してたし」


 ジェイクの愛馬の名はラウドルークと言うらしく、王国で最も賢く勇猛な軍馬のジュニアということで。

 彼が幼い頃の誕生日、奇しくもその日に産まれた仔馬――その偶然に縁を感じた国王陛下がジェイクに譲ってやれと渡したものだとか。


 体格も立派だし、毛並みもつややか。

 脚力は言わずもがなだし、とても賢く優しそうな眼をしている馬だ。


 馬泥棒が忍び込んでも、それらを全て踏みつぶし撃退できるだけの戦闘力もありそう。


「馬の世話……」


 それは大変難しい。

 学園には厩舎があるが、リゼがそれに関わることは不可能に近い。

 実績もない素人が「馬と触れ合いたい」なんて理由で世話を任せてくれる程飼育係もいい加減なことは出来ないだろうし。

 何より、今の学園生活でもいっぱいいっぱいなのに、これ以上一日のノルマが増えたらリゼの体力が持たない。


「あと、お前のその性格のせいかもな」


 ジェイクは腕を組み、しばらく考え込んだ後そう呟いた。

 赤い髪が高台に吹き付ける風に靡く。

 隣に立ち、見上げる角度の顎のラインが大変シャープで格好良い。


「私の……?」


「こいつらも結構プライドが高そうだしなぁ。

 性格同士が衝突してる上に、そのくせお前は怖がりながら話しかけるだろ?

 偉そうなんだかビビりなんだかわからず「何だこいつ」みたいに不審がられてるのかもな。

 馬も混乱してるだろうし、いっその事気合で上から抑えつけた方が言うこと聞きそう」


 それは中々に難問である。

 馬を威圧し屈服させようにも、リゼの動物が苦手精神や振り落とされそうで怖いという恐怖がどうしても態度に出てしまう。

 リナのように慈愛に溢れる接し方で以て馬に好かれるという方法が無理な以上、どうにかしなければいけないのだけど。


「そう焦らなくてもいいことだろ。

 お前が乗馬の練習したいって話はフランツにも言っておく」


 そんな事までお願いしても良いのだろうか、公私混同では?

 と心の中で疑念が渦巻く。


 だけどそうやって気を遣ってくれている事さえ、先の”予定”を楽しみにしてくれているということなら嬉しいなぁ、とつい顔が綻びそうになった。




「……ところでさ、リゼ」


「何ですか?」


 彼は少し言い淀み、頬を人差し指で掻いた後に口籠る。


「お前、ちゃんと学園の宿題やってるか?」



「ええ、勿論ですが。

 ……? ジェイク様?」


 この言い方。

 ああ、聞き覚えがある――リタを彷彿とさせる打診ぶりに、リゼは閉口して彼の顔をもう一度見上げた。




「また休みのどっかで手伝ってくれると凄く助かる」

 



 しょうがないですね、と肩を竦める。

 でも、今まで散々手助けをしてくれ、便宜をはかってくれているのだ。

 それに毎日が夏休みの自分達と違って、彼はこのように毎日あちらこちらに引っ張りまわされ忙しい。


 自分にもできることがあるのだと思えることがあるのは、心底救われる。




「――お任せください」




 彼と一緒にいられる『予定』が増えるのは、いつでも大歓迎だ。




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