第128話 メイド長のある一日
起床後身嗜みを整えたカサンドラの前に挨拶に向かった彼女は、姿勢を正しく伸ばす。
「おはようございます、ナターシャ」
今朝もお嬢様の様子に変わりはなさそうだと確認したメイド長は恭しく頭を垂れ、「おはようございますお嬢様」と言葉を続けた。
何せ明日から、親戚に誘いを受けて避暑地に旅行に向かうとのこと、体調に不安があっては一大事だ。
護衛は何人かつける予定でいるものの、本当に大丈夫なのだろうかと少々不安である。
出来れば自分も随行したかったが、友人との個人的な旅行に使用人が帯同するのはおかしいと言われ、引き下がる他なかった。
彼女はレンドール侯爵家が王都に所有する別邸のメイド頭を務めている。
比較的ふくよかな体型の四十も越えた経験豊富な使用人だ。
ナターシャと言う名を持つメイド長は、今日もカサンドラの身の回りの世話、そして他のメイドたちの管理を任されている。
「今日も一日、家の事は宜しく頼みます」
「畏まりました」
もしも――
入学式を迎える前のカサンドラだったら、到底考えられない事態である。
ナターシャは今以て、その大いなる感動に胸が打ち震えていた。
彼女はレンドール家に仕えてそれなりに長い、古株のメイドだ。
この度カサンドラがレンドール侯爵令嬢という立場で王都の王立学園に入学することとなったため、本邸から随行してきたメイドの一人である。
カサンドラの世話役は大変入れ替わりの激しい役職で誰もやりたがらず、多少の小娘の我儘なら「はいはい」と笑ってかわせる年配のナターシャに白羽の矢が立った。
そして世話役を任されたナターシャの他、邸にいるメイドは良い歳をした既婚女性ばかりだ。
年若いメイドではカサンドラの頻繁な”我儘”を笑顔で受け流せず、虐められたとさめざめと泣き辞めてしまうのでは……
という家令の判断によるものだ。
高慢で高飛車、他人を思いやることを知らない居丈高なお嬢様。
それが当時のカサンドラ・レンドールという侯爵令嬢に対する大まかな評判であり、決して誤った情報でもない。
彼女付きになったのはもう一年前の話だが、成程彼女は大変面倒で厄介なお嬢様だった。
所謂典型的な貴族のお嬢様と呼んで差し支えない。
……ナターシャは彼女の世話役に任命され常々思っていたことがある。
彼女はあまりにも素直過ぎる。その上場面に応じた適切な言葉を知らない少女なのだ、と。
カサンドラはとにかく快不快、とりわけ不快を使用人や目下の人間に表すことを躊躇わない少女であった。
言い方は常に上から目線。使用人が気に入らないことをしたら遠慮なく辛辣な言葉を口にする。それが当然の権利である、と。
誰も彼女を諫めることが出来なかった。
母親は一人娘のカサンドラに甘く、父親は仕事で忙しく。
確かにカサンドラの言い分は全てにおいて間違っていたわけではない。
不手際や粗相がなければ特に何も言わないのだ。
僅かでも不快な想いをすれば叱責することに秒の躊躇もないというだけで。
果たしてそれを我儘といえるのかは判断が分かれるところであるが、いかんせん彼女は外見のせいで割を食っているところが多かったのだとも思う。
美人ではあるが顔立ちがキツく、特に目力が凄い。
第一印象でとにかく他人を恐れ慄かせる――言葉は良くないが、典型的な悪役めいた雰囲気を持っている。
同い年程度の付き人などカサンドラが顎を上げ、値踏みするかのような視線で睨みつけるだけで竦み上がっていた。
例え同じことを伝えるのにも言い方というものがある。
口調が厳しく辛辣で、なおかつ外見が悪だくみをしているとしか思えない棘のある少女。
更に当人も名家の令嬢として山のように高く聳えるプライドを持っているものだから、なおさら矯正は不可能だ。
良家の令嬢として易々と他人を褒めたり感謝して媚びるということは必ずしも美徳ではない。
それは分かっているが彼女の場合は何分外見のインパクトが凄い。
一度叱責するシーンを見ただけのメイドが「お嬢様に手酷く虐められている…!」と仲間と手を繋ぎ合わせて震えるような状態だったのである。
ある意味で素直な少女だ、とナターシャは思っていた。
裏表がなく、深く考え裏を読むことをしない。
別邸にやってきてからというもの、王子に会える。そして王子の側近である御三家の御曹司と同じクラスなんだから仲良くしないと!
などと張り切っている彼女の浮き立つ様には不安しか覚えなかった。
王子の婚約者という立場はレンドール家にとっては喜ばしい。
が、本当に彼女に”それ”が務まるのか?
まだ相手の事もよく知らない一目惚れ状態で盛り上がる様には苦笑いしか浮かばなかった。
カサンドラの性格上、クラスメイトや周囲との軋轢は必至。
しかもロンバルドやヴァイル、エルディムの御曹司達にまで何も考えずのこのこ近づいていこうとするなんて……!
己の微妙な政治的立場を本当に分かっているのか、と胸中不安でいっぱいだった。
ただのメイド長、お嬢様の世話役如きの進言など聞き入れてくれるはずもなく。
頼みの綱のお目付け役アレクも呆れて閉口していたのを覚えている。
このままでは、お嬢様は学園を無事に卒業することができないのでは……
ナターシャのそんな思いから数か月が経過した現在。
だがカサンドラは文字通り人が変わってしまったようだった。
「明日はご学友の皆さまとご旅行に行かれるとのこと。
天気の心配もなさそうでようございましたね」
まさかあのカサンドラが特待生の平民と一緒に親戚の別荘地に遊びに行くだなどと。
去年の自分が聞いたら己の正気を疑ったに違いない。
「そうですね。
貴女達と一緒では皆様が気を遣われると思って帯同案をお断りしましたが……一人で髪が結えるか少々心配になってきました」
「結わずともそのままで十分お美しくていらっしゃいますよ」
「ふふ、貴女にそう言ってもらえるなら安心ですね。
わたくしも子供ではありません、身の回りのことは一人で出来るのだと証明してみせます」
彼女は根が素直な人間だった。
元々そういう謙虚な感情が下地にあって、何らかがキッカケでそれらを柔らかい言い方で表現できるようになった――と解釈しているのだけれど。
誰かの魔法にでもかかったかのように変わってしまったカサンドラのことを、皆でああでもないこうでもないとヒソヒソ話し合った事も懐かしい。
勿論納得のいく答えは出なかった。
だが今のカサンドラは侯爵令嬢としての立場を自覚しつつも、他者の気持ちを汲んだ言動がとれるようになったわけだ。
顔立ちという容姿の面はどうすることもできないが、心なしか険の鋭さがなりを潜めていて印象も少し変わったのではないか。
常に威圧し攻撃的な佇まいだったのに、不思議なものだ。
カサンドラが使用人に労いの言葉など本邸の人間が聞いたら目を丸くするだろう。
意地が悪そうだという顔立ちも、今となっては近寄りがたいが凛とした高潔さに成り代わる。
内面が変わると雰囲気もそれに伴って変わるのだと驚きを禁じ得ないナターシャである。
「本日のご予定は――」
夏休みでも、貴族のお嬢様は忙しい。
午前中に学園側から出ている課題を少し進めた後、昼食会に参加の用事が入っている。
明日から数日彼女が留守なのだと思うとナターシャはとても寂しい気持ちになった。
※
カサンドラが他家の招待に与り不在の日中。
夏真っ盛りということで、今日も太陽の陽射しは眩しく強く大地を照らす。
三時過ぎでじりじりと肌を焼いていく陽光に汗を噴くが、どうしても気になっていることがありナターシャは玄関先に腰を屈めていた。
玄関前、石畳の間に小憎らしい雑草が生えていたのを朝見てしまったからだ。
一昨日夕立が降ったせいだろう、雑草の生命力の恐ろしさはナターシャも良く知っている。
あれはとんでもない勢いでにょきにょきと伸び、己の分身を周囲にまき散らして増殖していくのだ。
後で処理しようと思ったが最後、とんでもないことになる。
――急がないといけない。
そろそろカサンドラも帰路についているはず。
昼食会には挨拶の用だけだと言っていたし、明日からのことも考えると早めに帰宅しないと疲れが残るだろう。
彼女が帰宅する前には全て綺麗に取り除いて置こうとしゃがんで草を数本抜いた。
抜いた草の根っこから丁寧に土を払い、石畳の上に緑色のそれを重ねていく。
ざっと見て綺麗になったと満足しかけたが、背は短いがびっしりと地面に根を張るいやらしい雑草を発見してしまったので腕を伸ばす。
ふくよかというよりぽっちゃり体形の彼女はしゃがむと腹の肉が腿に乗り、それがまた暑苦しい。
ふぅ、ふぅ、と。
漸く指で抓んで雑草を取りきった満足感に立ち上がるメイド長。
誰かにやらせるよりもこの程度は自分で取っ払った方が楽である。
後は凸凹になってしまった土を箒で均して――と考えていた時、前方から声が掛けられた。
「仕事中に申し訳ない、少し良いだろうか」
やや遠慮がちに掛けられた声には聞き覚えがあった。
外門の鉄門は閉まっているが、レンドールの別邸をぐるっと囲っているのは高い壁ではなく鉄柵だ。
乗り越えるのは大変だが、柵越しに外の様子を伺うことは出来る。
「――王子!?」
ナターシャは飛び上がる程驚いた。
呼び鈴を鳴らすでもなく、鉄柵の向こうからナターシャに声を掛けてきたのは紛れもないこの国の王子その人だった。
一度でも彼の姿を見たら忘れることなど出来ないだろう。
御伽噺の中に出てくる王子がそのまま形を持って実体化したとしか思えない、金髪碧眼の爽やか笑顔の王子様。
彼は目立たないようにか地味な軽装を纏っているが、全く王族感を隠しきれていない。
その美貌をさらけ出したままでは誰の目も誤魔化すことはできないだろう。とにかく目立つ。
「ど、どうなさいましたか!?
何か不手際でも……」
もしかして先週の舞踏会のことを怒って抗議に来たのだろうか!?
サアッと顔が蒼く染まる。
すぐに裂けてしまうような布をドレスの飾りに使ってしまったのは確かに自分達の責任。
経緯を聞いた後、カサンドラに叩頭して謝罪したのも記憶に新しい。
以前の彼女であれば、間違いなくナターシャはこの屋敷で働き続けることなど出来ず
だがカサンドラは逆に「いいものを選んでくれたのに駄目にして申し訳ない」と言葉をかけてくれたのだ。
その時、彼女の今の”変わってしまった”カサンドラの振る舞いは無理矢理自分を押し殺して背伸びをしているわけではないと知った。
人間、自分が窮地に陥った時やその後の対処の時こそ素が出るものである。
使用人の評判を気にして上っ面で媚びているわけでもないのだと感銘を受けたものだ。
だが……
カサンドラの温情で何とか仕事を続けることは出来たとはいえ、控室の外で待機して何のフォローも出来なかった自分に王子は怒り心頭なのでは?
そんな恐怖に身が竦んだ。
「まさかそのような事で訪れたりしないよ」
彼は苦笑し、首を横に振る。
「あの、お嬢様は大変残念ながら外出中で……」
「構わない。
二度目のことになるけれど、これを渡しに来ただけだから」
パタパタと門に駆け寄り、門の閂を外し扉を開ける。
夏の太陽も霞むほどの圧倒的光輝を纏う王子は、にこやかな笑顔とともに手紙を差し出した。
「お、お手紙……ですか」
「たまたま近くに所用があったからね」
「お嬢様も戻られるお時間です、どうか中でお待ち頂けないでしょうか」
「折角の申し出だけど私も少々急いでいてね」
本当に外出の用のついでだったのか、時間を気にする素振りの王子。
手紙をナターシャに預けた後すぐに背を向け、手を軽く振った。
「――カサンドラ嬢に宜しく」
肩越しに振り返る王子の姿に耐えられず、がばっと頭を下げる。
分かってはいた事だが、本当に稀に見る美男子だ。
以前ロンバルドのお坊ちゃんを客間に通したことがあった。
その時も惚れ惚れするほど男前だなと年甲斐もなくときめいてしまったのだけど。
王子はまた別格の存在であると再確認させられる。
彼の去って行った方向の大路を、ナターシャは「はぁ……」と魂が抜かれたかのような放心状態で見送っていた。
いけない、早く抜いたままの雑草を片付けないと。
いつまで放心しているのだと頬を片手で叩く。
だがこの王子から預かった封書をこのまま持って作業に戻ることなど出来はしない。
誰か替わりに周辺の掃除を指示しなければと気ばかりが急いている、彼の姿が見えなくなって尚も足が微かに震えている。
まさに入れ違い、擦れ違いのタイミングでカサンドラが馬車で戻ってくる。
馬車の車輪の音、そして馬の蹄の音が重なり王子の去った方とは逆から聞こえてくる音にナターシャは左半分の顔を手で覆う。
もう少しどちらかが遅かったり早かったりしたならば、実際に会うことも出来ただろうに。
「まぁ、ナターシャ。
どうかしたのかしら、ぼうっとして」
外門前、ナターシャの間近で馬車が停まる。
外側から御者に扉を開けてもらい、その手を取って段を降りるカサンドラは首を傾げて不審そうな表情。
確かにメイド長ともあろう人間が外門でボサッと呆けたように立ちすくんでいるなど、事情を知らぬ者から見れば奇妙に映るだろう。
「じ、実は……
今しがた王子がお訪ねになりまして。
こちらをお嬢様にと……」
怪訝そうな態度のカサンドラの目の色が変わる。
いや、全身がビクッと弾かれるように上下した。愕然とした、信じられない顔。
そして長い金髪を振り乱すように、己が帰還した道とは違う方向を振り返ったのだけど。
彼の姿はどこにもいない。
この手紙という証拠物品がなければ、真夏の陽炎が見せた幻だったと思うような一瞬の出来事だ。
「………!?」
そしてカサンドラは震える手で、差し出した手紙を受け取る。
ペラっと裏返し差出人の名を確認したカサンドラは驚きと戸惑いの色を見せた後、頬を紅潮させた。
それはそれは幸せそうに顔を綻ばせ微笑む。
この人はこんな風に――優しい表情が出来るのか。
同性の年を重ねたおばさんでさえ息を呑んでしまう。
使用人に向けてくれる目が柔らかくなったとは言え、全く比較にならない幸福に充ちた会心の笑顔だった。
カサンドラが変わったと思えたタイミング前後で、彼女と王子の接触があったことは確かだ。特に学園生活が進むにつれ顕著になった。
今までの自身を省み、あの王子様の婚約者に足るよう意識を変えていったのだとしたら……
王子の影響力の偉大さに驚かなければならないだろう。
「わ、わたくし、こちらを確認するので先に部屋に戻ります!
暑い中の出迎えご苦労でした、ナターシャ!」
珍しくヒールの高い靴を履いていたカサンドラは、縺れるように足を動かし玄関に急ぐ。
紺色の靴の爪先が石畳の上に置いたままの草を誇張なく蹴り散らすが、そんなことに見向きもせず――慌ただしく扉を開け、バタバタと忙しなく帰宅した。
恋をすると、人はこうまで変わるのか。
ナターシャは我が事のような嬉しさを胸に抱き、箒を探して庭の奥へ向かった。
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