第126話 <リタ>
お茶会はとても楽しかったし、どのデザートも信じがたい程美味しかった。
ただの植物園見学というだけでは得られない貴重な時間を与えてくれた王子には足を向けて寝られない。
お城の方角に向けて寝ることのないよう気をつけなければ、とリタは真剣に頷いた。
リタは王子のことが少しだけ怖い。
怖い――というのも、完璧で精巧な人形のように出来上がった人間を前に感じる本能的な怖れ、畏怖とでも言うべきか。
その瑕疵のない様はこちらを追い詰めてくるような緊張感をリタに齎す。
元来自分と言う人間は根がミーハーで、リゼ曰く『ちゃらんぽらん』に適当に生きてきた勢いだけの人間だ。
当然彼らに目通りなどできない一般人。何の奇跡か偶然か学園に通うことになっただけで、本質は僅かたりとも変わっていない。
目を覆わんばかりの王子の後光、まさに光輝と呼ばれるものに当てられると辛い。
出来る事ならずっと地面に伏していたい気持ちだ。
少なくとも額を地面に擦りつけていれば目が眩むこともなくなるとさえ思うのだ。
自分と会話をすることで王子という存在が穢れるんじゃないか? と考えてしまったこともある。
お茶の作法を学ぶ時に紅茶を引っかけてしまった時はこの世の終わりが来たように絶望したものだ。
だが彼が本来的な意味で優しいと言われる人間であることを知り、そして今日のお茶会で一層その想いを強くした。
制服でお茶会とか絶対おかしいって! とリゼに反抗したリタ。
だが彼女はあろうことか、制服で行かないならカサンドラとのバカンスも肯定しない! だなんて脅しを吹っ掛けてきた。
軽い姉妹喧嘩に陥りそうだったが、渋々制服で部屋に入って……
ラルフ達もかなり吃驚していたように思えた。
この格好は非常識なのでは!?
やっぱりちゃんとした、それなりの服で来るべきだったんじゃないのか。
リナから借りれば事足りた話だろうにと不満に思った事は事実。
それを察し丁寧にフォローしてくれた王子は神様かな? と真面目に思った。
王子に真っ直ぐ瞳を見つめられることは慣れず、怖いと今でも思う。
だがそれ以上に気遣いの塊……! と、失礼ながら認識してしまった。
※
植物園自体にそう興味があったわけではない。
だがリナが行きたいと言い、ラルフがそれを促した時点で自然と手を挙げていた。
物凄く図々しいお願いだというのは分かった上のことだ。
僅かの時間でもラルフと一緒にいたかった。
今までは学園に通えば毎日当たり前のように姿を見ることが出来たラルフの姿が、夏休みに入った途端ぱったりと視界から消えてしまう。
恐怖だった。
たった一月半程度の休暇で、ラルフが自分の存在を忘れてしまうのではないか? という現実に気が付いて、折角の思いもよらない好順位だった試験も霞んでしまうところだったのだ。
「ラルフ様、どうかされましたか?」
植物園の内部は思った以上に広い。
種々様々な植物を保護しているというだけあって、その規模はリタの想像を遥かに越えて多くの区画があった。
ここに入った途端見失ったラルフの後姿をようやく視界に入れたリタは、安堵の表情で彼に近寄る。
そしてラルフが今しがたまで見ていた方向へ視線を向けると、彼の苦笑の理由が自分にも理解できたのだ。
熱心に眼前の葉っぱについての説明を聞き入る、リナの姿。
――この植物園の管理人だという青年は学者の端くれなのか、一枚の葉っぱについて滔々と滑らかに淀みなく説明をしているところだ。
「僕も植物には詳しい方だけどね、彼には及ばないから仕方ない」
リナのことが気になって後を追ったはいいものの、ラルフ自身は出る幕がないというか。
寮のベランダで育てている花の話だの、漏れ聞こえる会話は早々首を突っ込めるようなものではなかった。
無理に割って入ることなく様子を眺めるラルフの表情を間近にすると、ズキンと心が痛い。
……この企画が無理にでも実現されたのはラルフの一声だった。
リナがそうしたいと望んだから。
当たり前のように「どうにかならないか」と王子に直談判までして。
もしも自分が行きたいなんて口走ったところで、彼はピクリとも反応しなったに違いない。
だって自分はリナじゃない。
考えても仕方のないことを考えてしまう、なんて不毛なんだ、やめやめ!
頭を左右に振り、心の中でよし! と気合を入れる。
これは折角掴んだチャンスなのだ。
思いがけず、夏休み期間中にラルフと会って話が出来た。
それも二回目なのだ、この幸運に感謝して楽しまないと。
「じゃあラルフ様。そのラルフ様の知識、私に教えてくれませんか?
私、植物にはあまり詳しくなくって」
ふんふんと熱心に聞き入るリナの横顔から目をこちらに向け、ラルフはにこっと微笑んでくれた。
「リタ嬢はどんな花に興味が?」
彼の紅い瞳が自分を映している。
そう自覚するだけで心臓がドクンと高鳴るのは、しばらく彼の姿を見ていなかったせいだ。
会えない事を殊更意識すると想像上の中で出来た彼の姿を追いかけるようになる。
でもそんな記憶の残滓に過ぎないイメージが、こうやってリアルに傍にいてくれる姿に全部上書きされてしまうのだ。
実物が一番、それもその気になれば触れることの出来る距離。
手の届くところにいる。胸の奥がさざめく。
低くもなく、高くもない。聞き取りやすく心地よい声が好きだ。
きっと歌も上手いのだろうな。
「この植物園には木の実や果物などが成る樹ってありますか?
私、出来ればそっちが見てみたいです」
樹だって、実のなるものは花が咲くのだ。決して範疇外というわけではない。
するとラルフは虚を突かれたような呆気にとられた顔をしつつも、すぐに可笑しそうに笑う。
クスクス、と笑われたがそこに侮蔑や嘲笑の感情は見いだせない。
「了解したよ、確か奥の方に実が連なっている果樹があったと思う。
案内しよう」
リタは「わぁ!」と手を叩いて彼の後についていく。
「ああ、果樹の手前にちょっと変わった木の実が成っていてね。
こっそり拝借してみよう」
「勝手に食べていいんですか?」
「一粒二粒くらいならお目こぼしされるかな。
昔は摘み過ぎて叱られたものだけど」
幼い頃から王宮に自由に出入りできたラルフは、宮殿内の様々な施設に詳しいようだ。
中でも植物園は良く覗かせてもらっていたと懐かしそうに言うものだから、隣を歩きながらリタもつい笑顔になる。
話している内容は「貴族特権はとんでもないな」というしかないものだというのに。彼の昔の話を少し触れただけで幸せな気持ちになれた。
同じ教室にいるときには遠巻きに眺めるしかなかったラルフが傍にいて、個人的に話をしてくれる。
これ以上の幸せがあろうか……! 否、ない! と今を噛み締めるリタ。
そんな時のことだ。どこからか悲鳴が聞こえ、二人は顔を見合わせることになる。
園内を劈く、聞き苦しい「いやーーー!」という金切声。
何事かと周囲を見渡すラルフの隣で、リタは額を押さえて落胆の吐息を落とす。
「申し訳ないです。
今の悲鳴は多分リゼですが、気にしないでください。
蜘蛛かカエルでも見つけたんじゃないでしょうか」
何故リゼがという訝しそうな顔になっても仕方ない。
普段沈着冷静、騒がしいことが苦手なクール系女子のリゼだが……
「リゼは虫や蜥蜴とか大嫌いなんです。
よく植物園に来ようと思いましたよね!」
「そうなんだね、意外だ。
リナ嬢の方が苦手そうな印象だけど」
「言われてみれば逆ですね。
虫もカエルもリナは全然平気なんですけど」
か弱い印象のリナは意外にも強靭な精神力を持っていると思う。
普段は他人の決定に柔軟に従うけれど、ここぞという時は決定権を握るなどの
「成程」
リゼの悲鳴もすぐに立ち消えた、全く人騒がせな姉だと苦笑する。
やれやれと肩を竦めラルフと再び歩き始めたリタ。
彼のお勧めだというベリー系の実が成る茂み、彼はそれを指差して嬉しそうに表情を綻ばせた。
幸運な事に、紫色のベリーが実る時期に合致したようだ。
「どうして木の実が王宮植物園に?
どこにでもありそうなものですけれど……」
生い茂る木の実は外見上何の変哲もないもののように見える。
木苺のように甘酸っぱい木の実は田舎でいくらでも摘むことが出来るものだ。
野山を駆け回っていたリタには全く目新しいものではないが、実は王都では希少な果物なのだろうか?
「それはね」
彼は一つ、紫色の実を指先で抓んで捻る。
ラルフの白く長い指の間に挟まれたそのベリーをじーっと見つめていると、彼は悪戯っぽく笑ってリタの顔面にそれを近づける。
急に木の実が口元に迫り、慌てて理由を問おうと口を開けた瞬間。
小さな紫の実が、口腔に押し込まれた。
息が詰まるような大きさではない、それこそ親指の先ほどのそれは少し開いた口にいともたやすく滑り込んできたのだ。
条件反射で、それを
「…………!!! あ、甘………! あまい!」
驚きは二重になってリタを襲う。
彼の突飛な行動にも驚いたが、口の中で味わうその木の実は今までのベリーの味とは全く質を異にしていた。
酸っぱさの欠片もない、まさに完熟の果実、いやそれを上回る蕩ける甘さ!
桃よりも、さくらんぼよりも――比べ物にならない、まろやかで芳醇な味が舌の上を幸せの色に変えていく。
「少々変わった味でね。
どうしてこんな味なのか、と。研究したくなる者がいるのも分かるだろう?」
コクコクコク、とリタは高速で頷いた。
想像以上の甘さに、すっかり満腹感を感じていたはずの身体も完全に受け入れ態勢だ。
「美味しかった……!」
自分を驚かせようとしてくれたのは分かる。
だがまさか直接ベリーを口に放り込まれるとは思っていなかった。
こちらは心臓が止まるほどドキドキしたのに、彼は全く気にした風もない。
彼にとっては飼っている犬におやつをあげた程度の事でしかないのだろう。
しばらくこの木の実の甘さについて話をしたと思うのだが、動揺のあまり頭は真っ白。
腰砕けになりそうな足をしっかり立たせることに全神経を集中させていた。
その後も他の実の成った低木を眺めて回り、リタはあまりの多幸感に「夢なら醒めないで!」と心の中で真顔で念じ続けていた。
「――こんなところにいたのか」
側面から呼び止められ、自然と声の主に顔を向けるリタ。
広い園内、互いにどこにいたのかは定かではないが――ジェイクと合流した。
「ジェイク様はお一人で回られていたんですか?」
二人きりの時間ではなくなったことに少々ガッカリする。
だがそんな感情を出してしまうのは大変失礼なことだ、リタはそんな感情を一切出す事無くニコニコ笑顔で彼にそう言った。
次の瞬間、リタの捻りだした笑顔は凍り付くことになるのだが。
「いや、さっきリゼが足を挫いて……管理人室まで運んで行ったところだ。
蜘蛛に驚いて逃げた最中に捻ったんだろうな」
ぎゃあ! と内心で悲鳴を上げることになった。
「申し訳ありません、リゼがご迷惑を!」
普段リタに対し口やかましいあの姉の大失態にこちらの肝が冷える。
いくらクラスメイトで気安いと言っても、迷惑をかけて良い相手では断じてない。
ただただ平謝りするリタに、「それは別にいいんだけど」と彼はさほど気にしていない風だ。
「そこまで君が気にすることは無い、怪我をした相手に手を貸すのも彼の職務の一つだ」
今はプライベートな時間であるはずなのだが、ラルフにそう宥められてしまったら平身低頭の態度で居続けるわけにはいかない。
「気にすることはない、が………」
だがジェイクは何故かジロジロとリタを眺める。
それはもう、穴を
だが鋭い視線というよりは――釈然としないモヤモヤした感情を渋面で覆い、こちらを眺めているではないか。
一体何か彼の気を損なうことがあったのだろうか。
先ほどとは別の意味で心臓の音が煩い。
「リタ、お前の体重って四十五キロくらいか?」
彼は割と真剣な眼差しで、抱える疑問に答えを求めるように信じられないことを真正面から言ってきた。
ただの質問に、こんなに突風豪風を正面から浴びせられるような衝撃を受けたのは生まれて初めての事だ。
「え? ……え?」
「多分それくらいだと思ったんだけどな。
お前ら三つ子だし、サイズも大体同じだろ?
いくらなんでも軽すぎないか? あんなに軽い体重じゃこの先――」
ジェイクが理解不能な言動を全く悪気の欠片もなく言い始めた後一拍もおかず、スパーーーン! と小気味いい音がジェイクの後頭部から聴こえた。
その激しい音にリタも身をビクッと竦める。
「痛ってーーー!」
ラルフが渾身の平手打ちを彼の頸椎のあたりに叩き込んだ。
その衝撃ゆえか、ジェイクはその場にしゃがみこんで首の裏を片手で擦り、何をするんだと抗議の声を上げた。
が、そんなジェイクを見下ろすラルフはとても恐ろしい冷えた表情。睨み据えている赤い瞳に憤りが混じる。
ジェイクも一瞬動きを止め、口元を引きつらせた。
不機嫌どころではなく、冗談では済まない程度の怒気を込めて見下ろされていればそういう反応にもなるだろう。
「女性に体重を聞くとは何事だ、ジェイク……?」
いつもの耳に心地良い声色より二オクターブは低そう。どこからそんな声を出しているのかと、彼の平常時のものと結びつかず混乱する。
「いや、運んでて若干気になって」
「お前と言う奴は……いい加減にしろ!
申し訳ない、彼が大変失礼な質問をしてしまった。
君が気分を害しても当然なことだ、僕からも謝罪する」
まるで弟を叱りつけるような圧力を感じる。
何となく自分とリゼの関係を彷彿とさせ、いたたまれない気持ちのまま上手い言葉が浮かんでこないリタ。
「い、いえ……」
冷や汗が背中を伝って落ちる。
この人は元々デリカシーというものを欠片も持ち合わせていない人なのだ。
それはリタも重々承知していることで、悪気がないからこそ始末に負えないという性状なのだと思う。
「別に体重くらいいいだろ、訊いたからなんだって言うんだ」
ぶつぶつと文句を言うジェイクに、ラルフは不穏な表情のまま笑みを浮かべる。
その影のある笑顔は見ている方も怖いのでどうか控えて頂けないものだろうか。
「ではカサンドラにでも聞いてきたらどうだい?
体重”くらい”なんだろう?」
「ばっ……いや、あいつにそんなこと聞いたら間違いなく説教食ら――」
「説教を受けるような事をしていると自覚出来たか?」
立ち上がったジェイクの腰をもう一度小突き、ラルフは苛立ちの嘆息交じりにそう言い添えた。
「でもカサンドラの重さなんか知る必要もないだろ!
運ぶとき、余りの軽さに吃驚したから気になっただけだ」
……ん? とリタは気づいてしまった。
何度も表現する
この人、一体どうやってリゼを運んだのだろう?
色んな想像が脳内を席巻していくが、一番堅実的な運び方を考えるとひゅっと息が詰まりそうになる。
リゼ……
今頃正気を保っていられているのだろうか……。
仮に自分がラルフに同じように運ばれるなんて事態になったら、それだけで目を回したり気を失いかねないくらいの衝撃なのだけど。
「で、お前らはここで何見てたんだ?」
これ以上今の話題を引きずってダメージを食らっては敵わない。
賢明な判断をしたジェイクは、木の実の茂み前で並んで見学していた二人にそう訊いてきた。
「果樹まで案内する途中だ。
その前に例の甘味ベリーを味見してもらったけれどね」
「うっわ! あんな甘いのよく食べられるな」
何か嫌な記憶でも蘇ったのか、ジェイクは眉間に皺を寄せて露骨に嫌そうな顔。
どんな表情でも外見は正統派に男らしくカッコいい青年だ。
いざ改めて向かい合い、そんな顔を向けられるとその精悍な顔立ちに驚く。
ラルフのように端正で美形、という面持ちではないけれど。外見”は”いいなぁ、とは思ってしまう。
「でも本当にあのベリーは衝撃でした。
デザートに出てきたら、きっと皆ビックリですね!」
「そうだね、ただあれだけ甘みが強いとクレープの中身としては主張が激しいから難しいだろうけど」
「クレープ……?」
リタはつい首を傾げる。
いきなりピンポイントで出てくるデザートの名には思えなかったから。
「この前トニーが食べていたクレープに僕も挑戦してね。
思いの外美味しかったから、今度は別の果物を包ませようかと」
まさか彼がそんな庶民的な食べ方を真似てくれ、その上世辞でも美味しかったと言ってくれた。
ぱぁぁぁ、と。そこらの花に負けないくらいの明るい笑顔になる。
「クレープに入れるなら普通のベリーの方が合いますよね」
そんな風に話をしていると、ジェイクが何とも言い難い納得できかねる表情で腕を組んだ。
「お前ら、いつの間にそんなに仲良くなった?」
え? 仲良く!?
誰と……? まさかラルフ様……?
直截に言われると、それまで意識せずに話していたものがいきなり重みを感じて――口の動きが鈍重になってしまう。
ドギマギして、視線があちらこちらの方向に彷徨った。
「少なくとも、藪から棒に女性に体重を聞く人間よりはまだ親しいだろうと思っているけれど?」
女性に対する非礼には厳しい。
そんな理念を揺るがせることなく、ラルフは淡々と返事を返す。
ジェイクは口を真一文字に結んだ。
反論を思いつかなかったようで――完全に黙し、天を仰ぐ。
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