第124話 <リゼ>


 王子御自らの招待を受けたお茶会。

 王宮から派遣されたという迎えの馬車に乗り込んだ時は、やはり後悔したものだ。


 ……本当に自分達などが、王宮に招待されても良いのだろうか? と。


 彼女の躊躇いに反しお茶会はとてもとても楽しかった。

 こんな機会は二度とないだろうと思えた終業式前のやりとり以上だ。お茶会での彼らは自分達の目線に合わせ、親しく接してくれた。

 生活水準の違いを馬鹿にされるわけでもなく、終始和やかな雰囲気だった。

 いつも調子に乗って余計なことを言い出すリタが、いつもの何倍も気を遣って話をしていたのも大きいと思う。


 最初に王子が話してくれたお話がこのお茶会のコンセプトの全てで、その心配りにリゼも心が洗われるような想いだった。


 本当にこの王子様という存在は、何らかの清涼成分が体内に含まれているのではないかと疑うくらい常に爽やかで光輝を身に纏う青年である。

 嫌味のない言動のおかげか、話すこともすんなりと腑に落ちる。


 カサンドラと仲睦まじいのも納得する、リゼから見ればまごうことなき人格者であった。

 だが彼は言葉そのものの雲上人であり、今回の招待だってお声を掛けて下さってありがとうございます! と五体投地しなければいけない程だと思っている。


 控えめな性格だが存在感もあり、この人が次の王様というのは大変安心できる。

 国に雇われる補佐官を志すリゼにとっては有能な人が国の頂点に立って治世が安定してくれること程助かることはない。

 素晴らしい巡り合わせだと幸運を噛み締めているところだ。




 そんな風に言葉少なに廊下を歩いているリゼは、しかし妹達のように浮き立つような心境ではいられなかった。



 ……植物園……。

 植物園かぁ……



 あの時ジェイクが「俺も!」と手を挙げた瞬間、後先のことを考えずリゼも追従した。

 もう脊髄反射だ。

 ジェイクが行くなら自分も行きたいという、まさしく欲望に忠実に身体が動いてしまった結果である。


 だが後々冷静になって考えると、気が進まない場所だと嫌でも気づく。

 その気の進まなさを王子の『お茶会』という幸せキーワードで上書きして見ないふりをしていたが、とうとう本来の目的地に向かうことになった。

 もういっそこのまま帰らせてもらおうかな、とモヤモヤする。


 ここまででとても幸せな時間を過ごせたから十分ではないか?


 楽しかった、ジェイクもリタだけではなく普通に皆と話をし、リゼも全く気負うことなく話が出来たと思う。


 でも………


 チラ、と前を歩くジェイクとリタの様子を眺める。

 本心から花が好き、ガーデニング大好きなリナは王宮植物園に行くことを指折り数えて待ち望んでいた。

 彼女と違い、リタはラルフがいるから割って入るように参加した。ジェイクもそれに釣られた形でここにいる。


 二人ともそこまで花だの珍しい草になど興味はないのだろう。

 先ほどのお茶会の話の雰囲気を持ち越すように話続ける。


「何で女って甘いものがあんなに好きなんだろうな」


「美味しいじゃないですか、いやー、先ほどの苺のタルトは絶品でしたね!」


「それならもう昼に食堂で出るデザート全部食べてくれよ、あれ半分拷問なんだが」


「んー、大変魅力的なお話ですが、席離れすぎで無理ですよ」


 などといった二人の会話に何らかの感情を抱くことも出来ないくらい思い耽る。

 リゼは無表情のままゆっくりと最後尾を歩いていた。


「どうした、体調でも悪いのか」


 楽しそうな面々とは対照的に、あまり乗り気ではない様子で顔を若干青白くさせるリゼに気づいた人がいた。

 眼鏡のつるテンプルを指で抓んで位置調整をしながら、黒髪の男性シリウスが横から声を掛けてくる。

 出来るだけ誰にも気づかれずに気配を消していたいと思っていたリゼは、ひゅっと息を呑んだ。


「何でもありません、少し食べ過ぎてしまったのかも」


「体調が良くないのなら外で待っていれば良い」


「いえいえ、そこまでは」


「園内で倒れられても困るからな」


 シリウスの言葉そのものは嫌味に捉えてもしかたのないものだが、声の抑揚などを考えるとどうやら本当に心配してくれているように思う。

 彼のことを知ったばかりの時に聞いたら「は? 嫌味? 皮肉!?」とこちらの心もささくれ立ったかも知れないが、第一印象ほど嫌な人間ではないということは理解しているつもりだ。

 根が真面目で融通が利かないところがあり、あまり他人に気遣いの声をかけるタイプではない。

 ……何だか自分と似ていると思うところの方が多かった。

 だからこそ彼は嫌いでこそないけれども、”苦手”な相手である。


「……気を付けます」


 はぁ、と内心で溜息をついた。 





 ※




 植物園と言うと、何を思い浮かべるだろうか。


 庭仕事の好きなリナは「綺麗なお花!」と目を輝かせるだろう。実際カサンドラに贈られた希少な花の会話が、この一連の企画の端緒になったのだ。

 木登りが好きなリタは「大きな樹とか、食べられる実とかありそう!」と昨日からるんるん気分で楽しみにしていた。食いしん坊な彼女らしい発想だ。



 ……リゼは植物園に入るための銀の格子状の扉を前に喉を鳴らす。


 園内は外気に覆われているものの、あらゆる植物が集うという広い空間に青臭いむわっとした匂いが充満していた。

 花の香りであったり、植物特有の葉っぱの匂いであったり。それらが交じり合う独特の空気だ。

 水やりを欠かさず毎日行っているので、湿っぽい風が剥き出しの肌を撫でる。



 通路自体はそれなりに広く二人並んで歩ける程度。


 草花の種類ごとに整い、見目好く並んでいた。

 背の低い色とりどりの花の群生を見つけリナはハートマークを飛ばす勢いで、王子に好きに回って良いとお墨付きを頂くや否やずんずんと一人で先を行く。


 そんなリナの様子を視界の端に納め、リゼは強く目を閉じた。



 この空気、間違いなく、いる……! 



 リゼが実家の農作業を忌避するのは、体力がないからというだけではなかった。

 植物にはどれだけ気を遣っていても虫がつく。


 リゼは虫が大嫌いだ。

 何なら皆が綺麗だと持て囃す蝶々でさえ、その奇妙な構造に怖気が立つ。蝶も蛾もリゼにとっては同じような気味が悪い存在だ。


 そしてさらに――その虫を餌とする爬虫類、両生類が悲鳴を上げて逃げ出すくらい大嫌いである。

 食物連鎖や生態系が崩れても良いから目の前に現れないところでひっそり生きてくれ! と願う程には嫌悪している。


 嫌いになったきっかけは幼い頃農作業の手伝いを無理矢理教え込まされている時だったか。

 汚れた靴を脱いで畑を歩いていたリゼの足の裏がぐしゃっと鳴った。水っぽい粘液に包まれ、その生き物を踏みつぶ――……


 ぞぞぞぞぞ、と這い上ってくる当時の記憶に、リゼは半分涙目だった。

 要はトラウマというものだが、あの足裏から伝わる生ぬるく気色悪い感覚を思い出すのが嫌だ。

 真っ赤に四散した手足、足裏、指の間にへばりつく胴体、  グェッ  という生々しい音。


 あれ以来、自分が間違って踏みつぶしそうになる小さな生き物が駄目になった。ついでにぬるっとした皮膚を持つ生き物も。


 花を育てているリナが青虫を見て平然と指先で突ついた姿を目の当たりにした時は、「正気か?」と真顔になって遠ざかったこともある。


 まさか王宮が管理している植物園に蛇や蜥蜴が出没はしないだろう。

 小さな虫程度なら日常を送る上で慣れたものだが、流石にカエルや蜥蜴がいたらダッシュで逃げる。


 奴らの接近に気づき、避ける。

 花を見るだ、希少な植物を見るだ以前の問題でリゼは今彼女だけ死地に赴く戦士の如き慎重さ、緊張感を持って通路を歩いていた。

 とうの昔にジェイクの姿は見失ったが、彼を探し廻るような精神的ゆとりはない。


 リナやリタ達が希少な植物を踏み荒らさないようにだなんて適当な口実で参加を表明したわけだけど。

 よくよく考えたら、植物園はリゼの天敵しか存在しないゾーンだった。


 脊髄反射で返事なんかするものじゃないな、と自嘲する。

 でも――何度あの場に巻き戻ったとしても、ジェイクが行くというのなら迷わず手を挙げてしまったとも思うのだ。

 そして毎回こうやっておっかなびっくり、恐怖に震えながら園内を見て回ることになるのだ。


 少し奥の開けたところに、数本の樹が植わっていた。

 まだ若い、リゼより数十センチほど高い木には変わった形状の葉っぱが茂っている。

 樹の幹に白い横線が飾りのように浮かんでいて、恐々触れるとつるんと滑らかな樹皮だと知る。

 ハーブに似た香りが漂っていると思ったが、どうやらこの枝に茂る葉の匂いのような。


 初めて見る樹だな。葉っぱも艶々している。

 気を紛らわせるため、周囲に虫がいないかを確認しつつ身を屈める。

 足元のプレートに書かれている文字を見ようと前傾姿勢になった……その時。




    ぽとっ。 




 何かが、襟元に落ちた。

 最初は意味が分からず嫌な予感に硬直しただけだ。

 だがその気色悪くも忙しなく動く物体は、奇しくも前を覗き込むことで受け皿のようになっていた襟の内側に入り首筋をカサカサと這い――


 


「――――!?!? いやーーーーーーっ!!」



 それがシャツの中、背中にストンと落ちてしまったことを認識した瞬間。

 リゼの思考は完全にパニックに陥った。

 自分から見えるものだったらまだマシだ。

 だが己の手が届かず見えないところに得体の知れない何かが這っている。


 虫!? 蜥蜴!? 何!?



 その事実だけで完全に正気を失ってしまったリゼは、とにかくここから出たいと弾かれたように駆けだした。

 通路を全速力で疾走し、一直線に出口に向かう。



 だが湿り気のある土の上、ぬかるみも点在している。

 皮で出来たローファーの靴がズルっと滑り、そのまま前に倒れ込む。

 一瞬足首に痛みが走り、そのせいで受け身を取りそこなった。


 前身を強かに打ち付ける態勢になっても、リゼの頭は混乱状態でまともな思考が働かない。

 まるで何十匹の節足動物が背中を埋め尽くさんばかりに這いずっているかのような悪夢じみた想像で意識が焼き切れそうだ。


「おい、お前何やってるんだ?」


 完全に態勢を崩したリゼを正面から誰かが抱き留めてくれた。

 固く目を閉じ、怖気に身を強張らせたまま、リゼは目の前に現れた人間に強くしがみつく。

 


「何か! 背中に! 何かいる!!」


「はぁ? 背中?」


「とって……! お願いします、とってください!」


 震える片手を襟にあて、そこから背中に伸ばそうとしても元々リゼの身体は固い。

 肩甲骨あたりまでしか、指の先は届かない。



「ああ、虫か、ちょっと待ってろ」


 次の瞬間、リゼの腰や腹回りが生温い空気に触れた。


「……???」


 男の手が背中に回され、そのまま半袖の制服の裾を抓み上げた。

 スカートに入れ込んでいたシャツを出し、彼がその裾を持ったままパタパタと数度横に振る。

 シャツの内側にひっついている”何か”を払い落とすように。



 すると、ポロッという擬音とともにリゼの足元に二センチはあろうかという毛むくじゃらな蜘蛛が落ちた。



「ひぃ!?」



 地面に落ち、外の光を浴びた蜘蛛の判断は早い。カサカサカサ、と器用に八本の足を使って近くの茂みの中に姿を消してしまったのである。

 あんなでっかい蜘蛛が……!?

 恐怖で全身が縛り上げられているように動けない。


 呼吸を整え、ようやく噴き出る冷や汗が収まってきた。足はまだ震えているけれど、思考がようやく正常のものに戻りつつある。


 助かった……と安堵するリゼに更なる衝撃の事態が待ち受けていた。


「大丈夫か? 噛まれてないだろうな?」


 

「………え?」



 完全に己を見失いパニックだったリゼが、しっかとしがみついていた相手がジェイクだったことにこの段階で初めて気づく。

 現状を理解するのに、たっぷり数秒は要した。



 こけそうになったところを抱き留められ、更に正面から彼に抱き着くようにSOSを発していた己の姿を客観的に思い出し、先ほどまで覚えていた恐怖が羞恥に完全に置き換わる。

 視線を上げると、橙色の目と視線が合う。


 自分は一体、何ということを……!?


 幼い子供が親に駆け寄ってしがみついているような図に、再び大混乱に陥りそうになる。

 だがここで先ほどのように真っ白になって何もかも振り乱して騒ぐわけにもいかない。


「だ、大丈夫です! 申し訳ありませ……」


 ん、と全部言い終わる前にリゼは足首が発する痛みに顔を歪めた。

 焦燥を表情に表し、慌てて己の右足首に視線を落とす。恐る恐る足を動かそうとするが、ズキッと鋭い痛みに襲われ眉間に皺が寄った。

 幸い、歩けなくはなさそうだが。

 

「捻ったか?」 


 声が近い。

 正気に戻ったのだから距離をとらなければと腕を彼から離してはみたものの、結局彼に支えられている状態は変わらない。

 社交ダンスの時と同じような距離だと自覚すると、一気に顔が蒸気を発しそうになる。


 今更だけど落ち着け、自分!


「少し痛みがあるだけです。

 冷やせば引く程度の痛みだと思います」


 剣術の選択講義の場で、足を捻ることもあったのだ。大したことじゃない。

 すぐに水で冷やせば腫れもすぐにひくし痛みも翌日まで引きずることもない。


 身体が固く柔軟体操をしても足首がよくほぐれていないからだろう。フランツに良く言われたことでもあるが、流石に植物園に入るのに柔軟体操なんかしない。


「とりあえず、座れるところに運んでやろうか?」


 一瞬、世界がぐらっと揺れた。

 視界がいきなり変化し、身体がフワッと浮いた気がした……が。


 ――実際に浮いているのだ。


「ええええ!?」


 肩を貸すにも身長が違う。俵みたいに担いで運ぶのはどうかと思う。


 その理屈は分かるが、横抱きで運ばれている現状に全く思考が追い付かない。

 目まぐるしく変わる現状に、リゼの目は渦巻き状にぐるぐる回り続けていた。


 下ろして欲しいと言おうにも、痛いということは既にバレてしまっている。

 無事であるかのように素知らぬ風に歩くには、出口は少々遠かった。


 これは……

 リタに貸してもらった本に記載があったような気がする。

 落雷が落ちたような衝撃を受けた。



   ――お姫様抱っこ……! 



 いやいや。

 なんで自分がそんな形状で運ばれているのだ?


 中庭のベンチを、木造りとは言え軽々と移動させられる力があることは知っている。

 女生徒一人を運ぶくらいどうということはない、そんな軽い気持ちなのだろうがこちらとしては現実か否かを疑う由々しき事態だ。


 完全に硬直したまま、シャツの裾からスースーと入ってくる空気の感触に呆然とするのみだ。



  私は荷物……荷物……。



 己に自己暗示をかけるようにしばらく抱きかかえられていたのだが。

 もう蜘蛛の感触も足の痛さも、今となっては些末などうでもいいことのように思えてきた。


 






「……? 何があった?」


 もう少しで植物園の出口だという段階において、その扉から再度入室してきたシリウスが目を丸くしてこちらの様子を見やる。

 出来れば誰にも見られることなく退出したかったが、その希望は敢え無く潰えた。

 恥ずかしさのあまり消えたくなる。


 園内には水場もいくつかある。が、休憩用の椅子、更に冷えた清潔な水を使うためには一度植物園から出る必要があった。


 刺すようなシリウスの視線に肩が震え、叱られる前の子供のようにびくびくする自分が情けない。

 


 あれだけ騒いでいたのだ、皆何があったのか気になっているに違いない。リタあたりはこちらの様子に気づいても声を掛けずに遠巻きにしそうだ、多分逆の立場でもそうするだろう。



「足を捻ったみたいだ」


「面目ありません……」


 ――倒れられても困る、外で待機しておけばいい。


 そう忠告をしてくれたのは他ならぬ目の前のシリウスだ。

 彼を前にこの惨状、リゼは消え入りそうな声を呻くように絞り出した。


「そうか、どちらの足だ」



 意外にもシリウスは蔑みの視線を向けることなく、淡々とした口調で聞いてくる。

 こちらの足だと右足首を指差すと、彼は胸元から蒼い石を取り出した。


 ……魔法の実践講義で何度も貸してもらったことがある、蒼く中央にうっすら文様の描かれた精霊石。

 彼はそれを左手に持ったまま、空いた右の掌を患部近くにかざす。


 何をするのかと思えば一言呪文を唱えた。本当に一言。氷を表すフラウの名を呼んだ。

 直後リゼの足元周りに冷気が纏わりつき、僅かに赤く腫れ熱を持った箇所が一気に冷えていく。


 それはたった数秒の事だったが、大量の水で一気に冷やした後のような冷涼状態にリゼは目を丸くした。


 へぇ、と。ジェイクは感心したように声を上げる。


「お前、普段から石を持ち歩いてるのか?」


「当たり前だろう、学園は持ち込み禁止だが――それ以外ではどんな不測の事態が起こるか分かったものではないからな」


 再び蒼い精霊石をポケットにしまい、シリウスは平然とした口調で応える。

  



「そう酷い腫れでもないな。

 隣の薬草園から痛み止めを持って来るよう伝えて置こう」


「外で待ってればいいか?」


「そうしてくれ」




 完全に分不相応な待遇、それも己の失態続きのせいだと言う事実。






 穴があったら入りたい! と、リゼは今度こそ耐えられず顔を両手で覆った。

 


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