第120話 <リゼ>


 気が付けば、もう金曜日。

 夏休みという長期休暇のせいで曜日感覚が薄らいでいる中、現在リゼは馬車の中で手に汗を握っていた。



  なんだ、この豪華な馬車は……?



 耳を澄ませなくても聞こえる馬の蹄が地面を蹴る音。

 そして轍が僅かな地面の凸凹に触れる度、ガタガタと馬車ごと身体が揺らされる。


 リゼが顔を青ざめさせてちょこんと座っている馬車の斜め前に、見知ったオジサンが座っていた。

 王立学園でリゼが剣術の教えを受けている剣士――教官のフランツである。


 学園で剣術を習う女生徒など希少な存在。

 その希少な中でも、運動音痴な素人娘が剣を習ってみたいと講義を選択したのだ。

 過去例を見ない事態に学園側も対処に困ったものの、結局彼女のために追加で教官が学園に派遣されることになった。

 誰も引き受けたがらない役回りに白羽の矢が当たったのが、このフランツと言う名のオジサン剣士だ。


 三十をとうに超えた妻子持ちだということは知っている。

 普段は仏頂面で愛想の欠片もない屈強な男性である彼が馬車に同乗していると、それだけで空間が圧迫される。


「どうした、酔ったのか?」


「……違います……!」


 フランツの誘いで、剣の指導を休み中も特別に受けることが可能になった。

 学園の施設は閉鎖されているので、本来のフランツの職場で教えてやろうという申し出。それも渡りに船だ。


 だが、それがジェイクが休み中帰省している実家の敷地内ということは大変驚くべきことであり。

 そして寮で宿題にとりかかっていたリゼを迎えに来たフランツが「乗ってくれ」と指示した馬車が今まで乗ったことのあるどんな馬車よりも馬鹿デカく、そして立派な造りのものだった。

 これでもフランツが普段使うような程度が低いものだという話を聞いて絶句した。


 リゼとて知識の一つとして理解していたはずである。

 この国は国王を頂点に頂く王権国家で、その国王を支える大きな派閥勢力が三つあると。

 それらはいつの間にか分かりやすく御三家と呼びならわされるようになったけれど、富と権力の象徴と言えば大変分かりやすい。

 クローレス王国が小さな領土しか持たない小国だった時代から、代々王と共に在った大変由緒正しいお家である。


 それは言葉として理解し、その血を濃く継いだ御曹司達が同じクラスにいるので実態も把握しているつもりだったのだ。


 苦労も知らない貴族のお坊ちゃんなんだろうなぁという想像とは少し違ったが、彼らは煌びやかな空気を纏う特別な存在感を持つ人たちだ。


 彼らの周囲に常に人が集い、見ようによってはあからさまに媚びている図は滑稽であるとうんざりする事さえあったというのに……!


「着いたぞ」


 フランツはこの屋敷に務めているから慣れ切ってしまって感覚が麻痺しているに違いない。

 馬車はいつの間にか高く聳える外壁をくぐり、更に奥へ奥へと進んでいた。


 馬車が停まった場所は兵舎に隣接する厩舎の近くだそうだ。

 ここから北側に歩いた先が兵士たちの訓練場だとフランツは言う。


 国王の持つ兵とは違う、ロンバルド家が擁する麾下私兵は常時数千人。東区は兵舎が建ち並ぶ物々しい空気に支配された別世界。

 


 フランツが先に馬車を降り、リゼの手をとって降ろしてくれる。

 乗っている時間は短時間のはずが、何十時間も監禁された後のような息苦しさを覚える。


「……教官」


「なんだ、行くぞ?」


 リゼは痛みを発する額に指先をあて、片側の口角を上げて苦悶の表情。


「正直、ここまでとは思ってませんでした」


 槍を持った兵士が石造りの大きなアーチ状の門を物々しく固める。

 壁の奥から聴こえる馬の嘶き、重なる剣戟の乾いた高い音。

 分厚い壁の上には兵士が周囲に隈なく視線を馳せ、夜間に火をつける大きな燭台が等間隔に並んでいた。


 この暑い中鎧を着こんだ彼らはフランツに敬礼しつつ、その後ろで及び腰になるリゼの姿に「?」と不思議そうな視線を向けていた。

 



  ここに来て思い知る。自分はロンバルド家の実態を甘く見ていた。



 ただの金持ち、お偉いさんの家。

 そんなイメージを軽々しく凌駕し吹っ飛ばす、これは準王族ですね! と納得する規模だった。

 

 もはやこの敷地が一つの町と言っても過言ではない、いくつもの屋敷や建物、施設、塔が配置されたこのテリトリー。

 きっとロンバルドだけでなく、ヴァイルもエルディムもこんな様子なのだろう、。


 これら広大な敷地全部を指して『実家』とのたまう人間がこの世に少なくとも三人いるのか……


 学園で彼らの傍に人が集まるのはしょうがない、いや、流血沙汰にならないだけまだ理性が働いている。

 

 そりゃあミランダだって実力行使してでもという指示を受けるだろうし、好きだ嫌いだの感情論の世界じゃないというのも直観で理解できるではないか。

 こんな巨大な”家”を継ぐ良家の嫡男が、婚約者を未だ決め兼ねており誰にでも機会がある状態は確かに異常だ。


 たまたまジェイクが同い年で同じクラスだから。その上気軽に接してくれるから、この瞬間までは違和感を抱いていなかった。

 それがどれだけ常識はずれな事か。住む世界が文字通り違うという意味を知ってしまった。


「世界が違うということはよくわかりました」


 以前フランツが城でも買ってもらえば、と気軽に口走ったのも冗談ではなかったのだな……。


「はは、今更何言ってんだ」


 リゼの頭痛の原因に思い至ったのかフランツは大きな声で笑った。

 ラルフやシリウスらと違い、ジェイクの言動はとりたてて大貴族の御曹司っぽくない。

 感性もどちらかというと、『普通の人』に近いものを感じる。

 本来は王家に次ぐような上位貴族の御曹司なのに、根っからの貴族嫌いのリゼの感性に触れた気安さと言うか、普通っぽさ。


 逆に凄くない? とリゼは思った。

 こんな環境で”普通”を維持することの方が難しそうだ。


「あいつも楽しんで学園に通えてるみたいで良かったよ。

 気軽に接してくれるお前らみたいなのがいて、嬉しいんだろう」


 こんな場所に住む一族の頭領が約束された少年。

 例えジェイク本人が良いと言ったとはいえ、気安くクラスメイト扱いして良いのだろうか……?

 根が真面目なリゼは少々しかめっ面で考え込んでしまった。


「ほらあいつ、小さい頃は親父ダグラスさんの後継者指名から外れてたし。

 お鉢が回ってきた途端、急に媚び売られてキレ散らかしてたからなぁ……

 そういうのが嫌になのも分かるだろ」


 おどけた口調で何でもないことのように放言するフランツ。

 彼のしれっとした顔を見上げるリゼの顔面に汗の球が浮かんで滑り落ちる。


「教官それどういうことです?

 ジェイク様、ご長男ですよね!?」


 貴族の爵位を継ぐのは慣例として、嫡男であるはずだ。

 男児がいない場合は女児にも継承権があるけれど基本は生まれた順に継ぐ権利が発生するはず。

 当主の意思が最優先されるとはいえ、生臭い権力の関わる話なのでお家騒動を起こさないためにも余程の事情がない限り長男が継ぐべきだ。下手に継承順に意図を絡ませると家の中が兄派だの弟派だので割れかねない。


「……おっと、いかんな。

 ここだとつい気が緩む、聞かなかったことに――」


「ええ!? そんな中途半端な話を聞かされたこっちの身になってください」


「別に大した事はないさ。

 ……将軍が最初に決めた後継ぎが……駄目になったからしょうがない。

 ジェイクもなぁ、運が良かったんだか悪かったんだか。

 詳しい話が聞きたいなら本人に直接聞いたらどうだ?」




  そんな失礼なこと、聞けるか!




 リゼは心の中で毒づく。

 何とも気になる中途半端な話、聞くに聞けないフラストレーションを込めて右手を彼の脇腹に埋めようとした。

 が、彼は「百年早い」と笑いながら片手でリゼの手首を掴み、そのまま捻り上げた。

 容赦の欠片も躊躇もなく、ギリギリと。



「痛い痛い! いたっ!」


 なんという理不尽!



 リゼの甲高い悲鳴が青空の下に木霊する。

 ――体格差から何から、まさに大人と子どもの二人だった。





 ※





 訓練施設に向かうまで、軽い雑談を交わす。

 初めて聞くフランツの身の上だったが、彼はなんと貴族の出身らしいのだ。ジェシカの親類というからある程度予想はついてはいたものの、実際に聴くと信じがたい。

 ただ家督は既に長兄が継ぎ、今はロンバルドの兵舎で数多くの兵士を管理する立場で雇われている身の上だという。

 若い頃は騎士になろうか悩んだそうだ。

 だが騎士団に入った後派閥政治の枠組みに関わりたくないという躊躇いで、ずっと二の足を踏んでいた。

 貴族に連なる者しか入団できず、昇進に純粋な腕っぷしだけではなく”後ろ盾”が重要視される環境におかれる。そういうややこしい話が嫌だったと。


 職の当てがないならと将軍に声を掛けられ現在に至る。

 まさか学園からも声をかけられるとは思わなかった、と彼は大袈裟に苦笑した。


 ……こんなところで働くお偉いさんが、まさかド素人の女の子を相手に剣を教えろなんてさぞかし戸惑ったころだろう。

 それが今は個人的に時間を割いて、ボランティアで夏休み補講をしてくれる。

 自分一人を気にしてくれる環境、一対一で指導を受ける事が出来たのは幸運なのだと思った。

 

「最初にお前見た時はどうしようかと思ったけどな。

 ま、俺は真面目で根性がある人間は嫌いじゃない」





 フランツと修練場に向かっていると、物凄く大量の視線が四方八方から突き刺さる。

 視線を向け返してもすぐに向き直っているのか、目線は合わない。だけど少し動くとその方向から再び探るような視線が飛んでくる。

 なんとも落ち着かない環境だ。


 ジロジロと好奇の視線は、建物の中に入った後も途切れることは無かった。

 普段使っている訓練場だと言われて一階建ての四角い白壁の建物の中に足を踏み入れたら、その中で互い違いに剣を切り結びあっていた兵士たちの動きが一瞬止まる。


 「え、女の子?」「今日、あの人非番だろ?」「娘さん…じゃないよなぁ?」


 驚愕の眼差しが横からも前からも向けられて珍獣にでもなった心持ちになる。


 夏の日差しを遮る天井がある代わりに、室内は暑かった。

 得物を持って突き刺す藁で出来たダミー人形が無造作に置かれ、壁には物騒な種々の武器が立てかけてある。

 人数のせいかここにいるのが皆男性だからか……

 熱気が凄い。

 窓を開け放っていても中々薄まらない汗の匂いについ眉根が寄る。


「教官……。

 私、目立ちますか?」


 あまりいい気持ではない。

 勿論ここが彼らの職場であり、訓練だからとリゼがここにいる方が場を乱しているのだ。その自覚はあるから何も言えないけど。


「そりゃあな。若い女の子がいるところじゃない」


 そんなところに呼ぶな、と突っ込みたかった。

 でもこれはフランツには全く何の利益もない、ただ厚意からの提案だということは分かっている。

 だから場所がどこだろうとリゼは感謝するし、有り難く訓練に臨むのだ。


 普段フランツと二人きりで指導を受けているリゼにとって、このように修練場で同じく剣を扱う十数人の兵士たちの視線の中でいつも通り振る舞えと言われても難しい注文だった。

 気にしないようにしても周囲からぼそぼそと怪訝そうな会話が聞こえるし、あからさまに好奇心剥き出しでジロジロ眺めてくるフランツ以上に年嵩のオッサンもいる。


 衆人環視の元で剣を振るえ、と。

 これも訓練の一つの形なのだろうとは思うが、身体がすぐに動くかなぁと心配になってきた。

 ここのところ試験勉強で確かに身体が鈍ってきているように感じるのは事実だ。


 暑いのに長袖と長いズボンで来いという指示を律儀に守っているリゼは、得も言われぬ居心地の悪さを感じ少しだけ視線を伏せた。


 ……すると、フランツはすぅ、と大きく息を吸い込んだ。



「おい、貴様らぁ!!」




 その空気を裂かんばかりに腹の底から張り上げるフランツの怒声に、リゼは身を竦ませた。

 動物が本能的恐怖を感じ、全身の毛を逆立てるように。



「年若い娘一人がいるだけで、このたるんだ空気は何事だ!

 貴様ら全員外へ出てろ、邪魔だ!」



 普段は強面の不愛想なおじさんという印象のフランツである。

 だがその声の低さ、籠る怒気と鋭い視線はまるで別人のようであった。


 非番だというフランツは大変ラフな半袖シャツの普段着姿。

 だが露出した隆々の筋肉に血管が浮き上がっている。

 苛立ちを隠さず、兵士たちを睥睨するフランツの一喝は覿面の効果があった。


 真面目にお仕事をしていた彼らには大変申し訳ない事に、口々に謝罪の言葉を唱え脱兎のように建屋から出ていく兵士たち。

 ……蜘蛛の子を散らすようだとはこの様を指すのだろう。


 未だに周囲を覆う空気がビリビリと鳴動しているかのような錯覚に陥るが、眩む頭を大きく振った後はがらんどうの訓練場に自分とフランツしかいなかった。


「いえ、あの……この場合は、私が邪魔なので出ていくべきでは……?」


 何度も自問自答する、招かれざる客なのはリゼだ。

 肝心の引き入れてくれたフランツは完全に非番、優先権がどちらにあるか明白ではないか。



「気が散る環境で気が散らん努力も意識もできん奴らの事なんざ、気にするな」



 はっ、と目を据わらせたまま肩を竦めるフランツ。

 これが体育会系の理不尽体制というものか、上官には絶対服従という凄まじい現実にリゼは表情を引きつらせた。


 皆様本当に申し訳ありません、と心の中で謝罪する。





「そういやリゼ、ここに来るまでの道順は大体分かっただろ?」


「はい、思ったよりは近いなぁと」


 周囲から人影が消え、フランツはリゼでも扱える重量の刃を潰した剣を探して持って来る。

 すっかり怒気もなりを潜め、一喝した彼の姿がまるで幻だったかのようだ。

 がらんとした場内を見るに、彼が訓練中の兵士たちを追い払ったことは紛れもない事実だと分かるが。


 柔軟のために座って足を伸ばしていると、フランツは素晴らしい笑顔でリゼに言い放った。



「今日の帰りは走って帰れるよな。

 勿論次はここまで走って来い、準備運動に丁度いい距離だろ」



「……は?」



 走って帰れって……何キロあると思ってるんだろう?

 彼は冗談でも何でもなく、それくらい当然だという平然とした顔。




 学園で指導を請け負ってくれていた時は、派遣されてきたという立場だからかあまり感じなかった印象が――今になってむくむくと起き上がる。





 この人、鬼教官だ。


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