第117話 <リタ 2/2>
一体何事!?
振り返った先で号泣していたのは五、六歳くらいの少年だった。
驚いたことにその茶髪の少年は泣きながら足元の小石を掴んで、一心不乱に前方に投げつけているのだ。
真っ青な顔で表情を歪め、一方的に。
……真っ黒な犬に向けて「わぁぁぁ!」と泣きながら石を投げつけている異様な光景に、リタは絶句した。
だが周囲の大人たちも、子どもの突然の奇行に戸惑い遠巻きに少年を見守るだけだ。
子供ゆえ、離れた場所から石を投擲したところで目標の犬に当たる気配はない。
だが攻撃を受けていることは分かる犬は、すっくと四本の足で立ち上がり吠え付ける。
その恫喝のような獣の声に、少年も恐怖で怯んだ。
だが勇気を振り絞るように目を閉じてえいやと石を投げつける。
黒い犬が踏みつけているのは……いや、食いついていたのは、遠目にはただのパンに見えるのだけど。
「ちょ、ちょっと君!?」
呆然としている場合ではない。
でたらめに石を投げつける少年の奇行のせいで本当に犬が怪我をしては敵わないし、ましてや通りすがりの人に石が当たったら大事だ。
だからリタは興奮して泣きわめく少年に背後から近寄り、そのまま細い腕を掴んで投擲行為を止めさせる。
「はなせ、はなせ! あいつがおれの――!」
どちらが犬だか分かったものではない。浅黒い肌の少年はガルガルと噛み付いてきそうな威嚇の表情で暴れる。
その隙を見て、犬は足元のパンを咥え逆方向に向かって走り去って行った。
「返せーー!」
思ったより激しい力でリタを振りほどこうとする少年。
だがこの少年と同程度の大きな体躯の野犬に、もし石が当たっていたら本気で激高して噛み付かれかねない。
それに全力で駆けだした犬に追いつくなんて無理だ。
少年をがっちり背後から羽交い絞めにしたまま、リタは彼の動きが緩慢になってくるのを待った。
フー…フー、と鼻息荒い少年。
だが現実に気づき、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で「うわーん」ともう一度声を上げて泣き出したのだ。
「あいつが、オレのパン、とって……!」
あの黒犬が持って行ったパンが、奪われてしまったものなのか。
嗚咽を漏らし、肩を震わせる少年の声は悔しさに満ちていた。
リタから見ればたかがパンの一つと感じてしまうが、もしかしたら物凄く珍しく高価で限定品だったのだろうか。
確かに公園で買ってきたパンをいざ食べようとした瞬間に、横から犬に掻っ攫われたらリタでも激怒するかも知れないが。
理性ある女性として流石に石は投げはしないだろう。
「そっかぁ、でも石を投げたら駄目だよ。
他の人に当たっちゃったら大変でしょ?」
「………だって、だって……」
子ども特有の顔面に対して大きな目。それをウルウルと涙で滲ませる少年にリタの心がズキズキ痛む。
あんな風に絶叫して小石を掴んで投げつけるまで食べ物の恨みって怖いんだなぁ、とこの時までは思っていた。
「とりあえず、お母さんのところに帰ろっか。私もパンを犬にとられたこと、説明するから」
普通の親なら、事情があればもう一度買っておいでと言ってくれるだろう。
運が悪かったね、また今度ね、という話になるかも知れないけれど。
流石に親の姿が見当たらない状態で少年を連れまわすわけにはいかない。
とにもかくにも、少年を保護者のもとに届けることが先決だ。
「一緒に行こう?」
リタがそう声を掛けると、少年は拳を握りしめたまま俯いた。
唇を噛み締める。
彼と視線を合わせようと、腕をつかんだまま自分の方に身体を向かせる――が、強情を張るように、彼は顔をリタから露骨に逸らすではないか。
嫌々をし一言も喋らなくなってしまった子供に、リタも困惑する。
チラっと周囲に視線を馳せても、我関せずとばかりにススーっと大人たちの姿が一層遠ざかっていくだけだ。
この中に少年のお母さんは――いないのだろう。
「えーと、じゃあ、名前は? どこに住んでるの?」
「……。」
少年は一層頑なに口を真一文字に結び、全力で首を横に振る。
手を離したら、飛び出してあの犬を探しに走り出してしまうのではないか? そう思うと、手に込める力が自然と強くなる。
ハラハラと放っておけない危うさを感じ、衛兵に迷子だと担いで連れて行った方がいいのだろうかと悩んだ。
だがジタバタと暴れる子供を肩に担いで歩いていたらその時点で自分が誘拐犯としてお縄につきそうな気もする。
「せめて名前くらい、教えてくれないかなぁ」
少年の意固地な拒絶にリタもほとほと困り果てていた時、天から救いの手が現れたのである。
「こんなところで何を騒いでいるのかな?
リタ嬢に、君は確かローダンにいる……トニーだったね」
『ラルフ様…!?』
少年と同時に呟いたリタは互いに顔を見合わせ、不思議そうに首を傾げたのである。
何故この少年がラルフの顔を知っているのだろう?
突然声を掛けられ動揺したリタの前には、確かにラルフがいた。
制服姿ではない彼の姿は非常に貴重である、戸惑いつつも彼の仕立ての良さそうな私服姿をしっかりと目に焼き付け記憶することにした。
何故ただのシャツとズボンという平易な組み合わせだというのに着る人が違うと全く違う特別なコーディネートに見えるのか。
飾りボタンやベルトの細工など一つ一つがさりげなくお洒落で吃驚する。
「何故ラルフ様がこちらに…!?」
頭の中は絶賛大混乱中だ。
外でラルフと会うことはない、次に会うのは王子にお呼ばれされたお茶会の時だと完全に油断していたリタである。
街で唐突にラルフと遭遇するなんて聞いてない!
なんでこんな女の子らしくない服装を着て来てしまったのだ…! と狂おしく地面を叩きたい程後悔の雨嵐である。
「急に悲鳴のようなものが聴こえたものだから、何か事件でも起こったのかと」
「ええ!? そんな、もし暴徒がいたらどうするんですか、危険ですよ」
少年が泣きわめいていただけだから今は良いとしても、本当に人の身の危険が迫るような場面だったらどうするのか。
しかもたった一人で出歩くなど、彼の身元を知っている悪人からすれば身代金がネギを背負ってのこのこ現れるようなものである。
リタは戦慄し、背筋を震わせた。
「忠告ありがとう、だけど僕もそれなりに武芸は嗜んでいるからね」
ジェイク程ではないけど、と彼は苦笑する。
先ほどカサンドラの髪を見て綺麗な金髪だなぁと思ったけど、ラルフも全く負けず劣らずに陽光を浴び燦然と輝く金髪だった。
色合いは蜜色に近いだろうか。
長い髪を首の後ろで一つに纏めるラルフの髪が下りたところを想像するが、上手くイメージできなかった。
この髪型の印象が強いもので。
「失礼しました!
ええと、ラルフ様はこの子の事を知っていますか?
名前や住んでいるところを尋ねても教えてもらえなくて困ってたんです」
少年を拘束したままというのも外聞が悪い。
そっと少年の細腕から手を放す。逃げ出さないかドキドキしたが、少年は気まずそうに俯いたままだ。
地面をじーっと睨み据えている。
「さっきローダン、って仰っていましたけど。それって何ですか?」
するとラルフは眉の端っこを僅かに歪め、声量を落として答えてくれた。
「郊外にあるローダン孤児院、トニーはそこで暮らしているはずだ」
孤児院。
全く予想もしていなかった単語にリタは背中から冷や水を浴びせられた気がした。
『お母さんのところに帰ろっか』
何気なく言った自分の言葉が彼を傷つけるものだったなんて思わなかった。
この街に住んでいる子は皆両親が健在で、恵まれているとばかり……
良心にグサグサと槍を突き立てられ、息が詰まりそうだった。
「……っ。
いんちょーに初めて小遣いもらえてさ、買ったのにさ。
……あいつ、あの犬が……クソッ!
返せよ!」
楽しみにしてたのに、と少年は地団太を踏んで怒りを露にする。
だがチラチラとラルフの様子を気にしており、先ほどまで狂ったように叫ぶことはなかった。
孤児院に住んでいる少年でもラルフの姿を知っているのか……?
いや、何故この子の存在を彼が知っているのかの方が疑問だった。
「あの孤児院には個人的に慰問することもあるからね。
大体の子は覚えているよ」
「……そ、そうだったんですか……」
孤児院や罪人塔の慰問が偉い人の手によって行われているのは知ってるけれど、どうせ形だけというか貴族様の善行アピールという意識しかなかった。
それなのに、実際に何人もいる子供の顔や名前を覚えるくらいの距離の近さで何度も訪れているだなんて。
ラルフは全くなんでもないような顔だが、リタは驚愕で二の句が継げなかった。
駄目だ、彼への印象が上方向に天元突破して崇める寸前になってしまう…!
「この間は僕は訪問できなかったね。
院長に挨拶をしたいのだけど、どちらに?」
「大通りで小遣い貰って――それっきりだから知らない」
「え、心配して探し廻ってるんじゃ!?」
「ないない、買い出しもあるとか言ってたし?
大通りのどっかにいるだろ」
少年はトニーと言う孤児院住まいの少年だ。
今日は六歳の誕生日ということもあり、孤児院を経営する院長と数名で街に遊びに連れて来てもらった。
初めて『好きなものを買っておいで』と院長にお小遣いをもらったトニーは、喜び勇んであちらこちらの店を見て回る。
誕生日と言っても、彼らは捨てられた孤児。生まれた日が定かではない子は孤児院にやってきた日を誕生日として覚えてくれているのだそうだ。
……だがその大事な日に使うはずのお小遣いは、数枚の銅貨。せいぜい食べ物くらいしか買うことは出来ない。
それも果物一つ、パン一つというささやかなもの。
欲しいものは山とあっても全く手が出ないものばかりだが、買うものを自分で選べるなんてトニーにとって初めての体験だった。
興奮して目移りして、叫び声を上げながら通りを巡っていたのだろう。
カサンドラと一緒にお喋りをしていたあの喧騒の一部にトニーの声も混じっていたのかも知れない。
小一時間じっくり見て回った彼が選んだのは――焼き立てのパンだった。
「苺の味がするって書いてあった!
オレ、食べるの楽しみだったのに! あいつらに自慢してやろーと思ってたのにさ!」
ダンダンダン、と少年は足を踏み鳴らす。
その当時の衝撃を思い出し、怒りが再沸騰しているようだ。
買ってきたパンを食べようと思った瞬間、視界外から野犬がそれを奪って――あまつさえ見えるところで、ガツガツとパンを貪り始めたのだ。
ああ、それは……運がないというか、少年が呆気にとられた後に叫んで石を投げたくなっても仕方ないというか。
犬にしてみれば、傍に大きな人間もいない自分と同じくらいの大きさの子供だから遠慮なく襲うことにしただけなのだろうけど。
「野犬が周辺を徘徊しているのならとても危険だ。警邏の兵に伝えて同じことが起きないようにしよう。
トニー、この広場で君が危険な目に遭ってしまったのは僕達の警戒不足のせいだ、それは申し訳なく思う」
起きてしまったことは今更どうすることもできない。
今頃パンはその黒い野犬の胃袋の中だろう。
「オレのパン~~!
せっかく! 選んだのに!」
チョコのパンと苺の味がするパンを延々悩んで、ようやく決めたそのパンを奪取されたら傷つくだろう。
本来不幸な事故から守ってくれる保護者もこの場には見当たらず、周囲に遠巻きに見られるだけなのは彼も悔しかったに違いない。
しかしその二択もどこかで聞いた話だなと連想するには十分だった。
「よし分かった! ここでちょっと待っててね!」
むくれたままのトニーの肩に手を置き、リタは努めて明るく呼びかけた。
その上でラルフに向かって、一度ペコっと頭を下げた。
「ラルフ様――!
お忙しい中恐れ入ります! こちらで少し! ほんの数分! お待ちください!」
釈然としないながらも頷いてくれた彼を長時間待たせるわけにはいかない。
リタは「すぐに戻ってきます!」と片手を挙げ、そのまま広場を走り抜ける。
一陣の風のように走り去ったリタ。彼女が立っていた場所を、トニーは目を点にして見つめていた。
長期休暇中、予期せぬところでラルフと出会えたことはとても嬉しい。
しかも、騒動の原因が何であるのか確認するためにわざわざ声を掛けてくれたのだ。
腕に覚えがある発言も、実際に樹から落ちた自分を魔法によって一瞬で救ってくれた事を思い出すと事実なのだろうと思える。
何度も孤児院へ慰問に行き、それを当然のこととして自然に振る舞えるのも素敵だ。
……出会えたことは幸運だった。
でもそれに心が完全に浮かれることが出来ないのは、あの子の事情を聴いていると胸が苦しくなってきたから。
親がいないっていうことを言いたくない、孤児院に住んでるってことを知られたくない。
六歳になったばかりの少年がそんな意地を張るように言葉を飲み込んだのは、きっと今までの生活で色々あったからだろう。
結局リタにとっては他人の話で、彼の人生に責任をとることなど出来やしない。
『こんなこと』は自己満足だと分かっているが、目の前で不幸な目に遭ってあんなに悔しい想いを抱える少年を「可哀想だね」で終わらせるだけでは自分が納得しない。
……ラルフは恵まれた人だ。リタなんかよりも、ずっと。
慰問で顔を覚えるほど何度も訪れていたのは、きっと――”恵まれていない人たち”がいることを知ってしまい、その上で自分が何もしないことが”しんどい”からだと思う。
こうして自分があの子に何かを一つ買ってあげたところで、何かが大きく変わることもない自己満足。
それと一緒だ。
孤児院を何度訪れても彼らの人生に影響はない、でも何かを行動で示したいという想いの表れなのではないだろうか。
「――はい、お待たせ!」
先程までカサンドラと一緒に座っていたベンチに腰を下ろしている二人を発見した。
一見その場に誰もいなくなったかと焦った、ラルフの横顔を見つけてホーッと胸を撫で下ろす。
良かった、彼の存在が真夏の蜃気楼が見せた幻だったら心底慌てていたところである。
「ねーちゃん、それ、何?」
はい、とリタが少年に手渡したのはクレープだった。
ベンチに座ってぶすくれた顔でプラプラ両足を前後に揺らしていたトニーは、目の前に現れた食べ物を手で持ってジロジロと眺めている。
「クレープよ、美味しいから食べてみて!
折角の誕生日だもん、お姉ちゃんがお祝いしたっていいでしょ?」
「良いの!?」
パァっと顔を輝かせる少年の歓声と、
「それがクレープ?」
怪訝そうな顔で顎に手を添えるラルフの声が両耳に同時に届いた。
「クレープと言うのはそんな形だっただろうか?」
そうだった!
この人、お金持ちだからこんな買い食い用に作られたクレープの形なんか知らないんだ…!
ちょっとしたカルチャーショックを受け動揺するリタ。
「こういうのもあるんですよ、ほら、包んだら手で持って食べられますし」
「成程」
彼は興味深そうにクレープに齧りつく少年を眺める。
学園の昼食で出てくるデザートのクレープはお皿の上に四つ折りで、クリームやフルーツが盛沢山に飾られてシロップがかかっている……
当然ナイフとフォークで切り分けていただく、そんなイメージしか存在しないのは理解できた。
「なにこれ、うめーー!」
口の周りにクリームをつけたまま、トニーは大歓喜の様子で一心不乱に貪り食べて行く。
「これ、苺とチョコ!?」
「そうそう、誕生日だから特別ってことで!」
散々カサンドラが迷っていたことをクレープ屋の店主も覚えていた。
そんなに両方食べたいなら一緒にしてやるよ、今日二回目だしな! と。声をかけてもらい購入した豪華セットだ。
存分に食べると良い、とリタは腕組みをして頷いた。
「すっげーうまい! ねーちゃんありがとー!」
自分の小遣いこそ心許なくなってしまった。だが自分が食べるはずだったものをそっくりそのままあげただけだ。
少年が食べている姿があまりにも幸福そうで、見ているリタも自分が食べる以上に嬉しい気持ちになってくる。
「食べ終わったら、院長先生探しに行こうね。
ラルフ様、お引き留めしてしまって申し訳ありません。
私、今日これから暇なんで! トニー君のことはお任せください」
今日は本当に記憶にしっかりと残る素晴らしい一日だった。
カサンドラと一緒に街を歩き、その上ラルフと会うことが出来たのだ。女神様ありがとう。
「君は院長の顔を知らないだろう? 私も同行しよう」
さも当然のように彼の手を煩わせることになってしまった。
考えてみれば、そりゃあラルフは親切で優しい人である。「それじゃあよろしく」と遠慮なく離席するような人ではなかった。
もっと言い方を考えれば良かったのだろうかと思ったが、でも――
一緒にいる時間が伸びて、頭が沸騰しそうになるくらい嬉しかった。
※
――その日の夕方過ぎ、ヴァイル本邸にて――
「……本日のデザートをクレープに……ですか?
畏まりました」
「手で持って食べられるようにして欲しい」
邸内の空気がざわっと揺れる。
本邸に帰宅した公子がいきなり夕食のことに口を出した。
しかもデザートに注文など、長年この家に仕えてきたメイド長とて記憶にない。
今までなかったことで、使用人たちは表情に出さないまでも、確かに動揺していた。
「可能なら、中に苺とチョコレートを入れるように」
「………。申し伝えます」
広い食堂の中央で夕餉最後のデザートに入る、ヴァイル家の嫡男。
何故か紙に包んだクレープを手に持って食べる公子の姿が確認された。給仕は無言のままその様子を眺めたが、内心疑問符が飛び交うばかり。
年若い給仕の一人が公子の奇妙な食事形態を二度見してしまい、先輩に軽く睨まれる。
「成程、確かに食べやすい。
それに中々美味しいな」
何があったんだろう……
訓練された使用人たちはそんな疑問を表情を失くすことで隠し、彼が食べ終わるまで耐えていたのである。
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