第113話 『シンシア嬢、ただいま混乱中。』


 シンシア・ゴードンはカサンドラ達のクラスメイトである。


 取り立てて成績優秀でも、運動神経が良いわけでもない。

 容姿も派手な貴族令嬢達と比べると大変に地味な少女。

 その陰鬱な印象は肩口ほどで切り揃えた真っ黒な髪のせいかもしれないが、同じ色のシリウスが周囲の注目を浴びていることを考えるなら結局は元の造りの問題なのだろう。


 ゴードン商会は中堅どころの商会としてそれなりに有名だが、その程度の立場の一般生徒には場違い過ぎる王立学園。

 家族に説得されて試験を受け、多大な寄付金を支払って入学が認められた女生徒がシンシアである。


 何の運命のいたずらか学園で最も煌びやかすぎるクラスに配置され、シンシアは入学早々退学したい、と親に懇願したほどだ。

 住む世界が違い過ぎる。寄付金の関係で当然許してもらえなかった。


 ゴードン商会は日頃貴族達と商談をすることは少なく、主に飲食などのお店を営む者達に原材料を仕入れることを商売の軸としているのだ。

 他の特徴と言えば、カフェをいくつか母親の趣味で経営しているくらいか。


 地味な自分とは一切関わりのないはずのブルジョワな光景にシンシアは毎日溜息の連続だった。


 他の豪商の娘は皆貴族達に負けないどころか、その財力で以て貴族の子息から猛烈なアプローチを受けている生徒も多い。

 貴族と言っても全てが全て裕福なお家ではなく、中には内情が火の車でお金を持っている商家と誼を持とうと目論むお家もあるそうだ。

 爵位と言う”名”より、お金という”実”の威力は絶大だ。



 ……勿論、どちらもシンシアには無縁である。 



 お上の方針次第で吹けば飛ぶような中堅商会の娘。

 それもここ数年、規制や締め付けが厳しくて状況が以前より悪化している。両親と兄が苦慮しているのは知っていた。

 自分達の代でどうこうはないだろうが……

 家を継ぐ兄は苦労するかもしれない。


 何とか有意な取引相手でも見つけて来てくれなんて頼まれてもどうしようもない。

 人付き合いも苦手だ、得意なことなんてぬいぐるみを作ったりお人形に着せる服を縫ったり、刺繍くらい。

 この学園でそんなことで話が合う生徒が滅多にいるものではなく、毎日一人端っこの席で一人『今日は何を作ろうかしら』とノートに落書きをするばかりだった。


 よりにもよって、このクラス。

 明暗がハッキリしすぎて、上流階級以外に存在価値のないこの一室は毎朝針の筵のようなもの。

 同じ庶民でも特待生は皆難関試験を優秀な試験結果で合格した国選りすぐりの賢いエリート候補たちだ。

 シンシアはお金を積んで入学させてくださいとお願いし、お情けで合格させてもらったようなもの。自分と一緒にされては彼らも腹が立つだろう。



 学園に通うのが憂鬱だった。

 


 そんな毎日に少し変化が訪れたのは、四月の終わり頃。


 シンシアは登校中、あまりにも教室に行きたくなくて――ずっと俯いてトボトボ並木道を歩いていた。

 ほんの小さな小石に蹴躓けつまずいて、シンシアは他にも多くの登校中の生徒がいる中で思いっきり素っ転んだ。

 更に受け身に失敗するどんくささを発揮し身体を強かに打ち付けてしまったのである。


 周囲の視線は冷たく痛く、恥ずかしくてもうそのまま消えてしまいたい……というどん底で声をかけてくれたのが同じクラスのカサンドラだった。

 本当に一体何が起こっているのか分からなかったが、ごく普通に自分に気遣わしい声を掛けてくれ――

 そのまま医務室まで同行してもらった。


 その一連の出来事が、彼女にとっては何事もないかのような自然な動きそのものだった。「痕に残る怪我がなくて良かったですね」と微笑む彼女の笑顔にドギマギしたのを覚えている。


 彼女のことは同じクラスでありながら、噂程度しか知らなかった。


 王子の婚約者で次期王妃様候補。そんな目立つ人の傍にいたら怖いから出来るだけ関わらないように生きよう。


 カサンドラは美人ではあるものの、顔立ちがハッキリしているせいか少々とっつきづらく感じる。

 失礼なことを承知で、第一印象は



  『この人の機嫌を損ねたら消される……!』



 という恐怖しかなかった。

 目を合わせたらその強い視線に睨み殺されるんじゃないか、とか。


 周囲の生徒に対して『博愛』の精神を持つのがアーサー王子だとしたら、『孤高』の態度で教室に滞在しているのがカサンドラである。


 実は案外良い人なのでは……?

 そう意識し始め、観察してみると思った以上に彼女は良い人だった。


 高位貴族にごく普通に附随している取り巻き令嬢の姿はなく、王子に対しても常に一定の距離で節度を保っている。

 王子の親友である御三家の御曹司ともそれなりに会話が出来る関係性。

 何より、貴族の子女が相手だろうが特待生が相手だろうが、彼女は相手によって態度を変えるということがない。

 だから、あの朝無様に転んだのが自分でなかったとしてもあの人は声を掛けて手を差し伸べてくれたのだろう。


 高貴な立場にして公平、高潔さを感じる。

 同い年とは思えないどこか大人びた雰囲気、彼女が下級貴族や平民を一段下に見ることがない、”クラスメイトですから”という有無を言わせぬ言葉がけのお陰でこのクラスは結構平和だということに気づく。


 かと言って別に他の令嬢達を軽んじているわけでもない采配具合。


 王子が誰と親しくしていようがそれが彼の仕事の一つだと言わんばかりの余裕は、当初『あの子が王子の婚約者なんて…』と反感を持っていた勢力の意気を烈しく削いだ。


 カサンドラは決して物語の中にいるお姫さまという女の子女の子した女生徒ではないが、一本芯の通った大人の女性っぽい! とシンシアは思う。

 

 こっそり”お姉様”と呼んで慕っているのは彼女には秘密だけれど。



 彼女はレンドール侯爵の娘、大貴族のお嬢様だが政治的には結構難しい立場にいる人だ。

 決して好意的な生徒ばかりではないだろう学園生活で、何故その露払い役の随従令嬢がいないのだろう?

 と疑問に思ったシンシアは同じくレンドールに近しい地方貴族、デイジーに恐る恐る声をかけた。



  ――何故カサンドラ様はお一人で行動される事が多いのですか、と。



 余計な事を聞いてデイジーに睨まれてしまうかも知れないと物凄く心配だった。

 でもいつもデイジーはカサンドラの傍で彼女の様子を伺っているような素振りを見せている。

 そんなに当たらず障らずで見守り隊をしなくても、立場上堂々と取り巻き――というと聞こえは悪いが、要するに信用の置ける腹心として傍にいればいいのに。



『私だって……!

 私だって出来ることならそうしたいのです!』



 デイジーの魂から絞り出した臨場感に満ちたあの声を聴いて、もう三か月経とうとしている。

 ガルド子爵家のお嬢様、デイジーとの会話をきっかけにリナという三つ子の一人、同級生が友達になってくれた。


 今、シンシアは学園に通うことは楽しくて仕方がない。

 しかも憧れのカサンドラの舞踏会のドレスまで提案することが出来たのだ。

 お人形遊びの延長線上で、カサンドラに似合うだろうなぁと着せていた妄想がまさかのまさか、本当に形になってしまった。



 もはや思い残すことは何もない。

 



 これから夏休み、長い間リナやカサンドラに会えないことが残念だが心は幸福感で満たされていた。




 ※




 今日、昼から来客があるとか言っていたような気がする。

 商人として日夜多くの人と会い、小難しい話し合いをする彼らには尊敬の念しか抱けない。

 シンシアなどは口下手で、交渉事など以ての外だ。

 そしてその話し合いには度々母も同行しているし、自分には商人の嫁など務まらないだろうことは分かる。


 折角寮から帰って来れたのだ。

 これからの長い夏休み、一体どんなぬいぐるみを縫おうかな、と。

 今まで作った自分の作品を眺めて、シンシアは幸せな気持ちに浸っていた。


 自室の棚の一段を埋め尽くす、動物をデフォルメしたぬいぐるみ。

 特に犬や猫、クマなど色とりどりのファンシー空間。


 手作業はぬいぐるみだけに留まらず、自室を彩るカーテンは自分で布から選んで作ったものだし。

 クッションのカバーも勿論手縫いだ。

 一度兄にもお揃いのクッションカバーを作ってみたのだが、『気持ちだけもらっとく』と突き返された。

 どうやら熊さんはお気に召さなかったらしい。


 兄に似合う服を自分で縫ってみたいが、それは自重。

 自分の服を部屋の中で着るだけで我慢我慢。

 中堅商会とは言え、着ているもの身に着けているものは顧客や商談相手に値踏みされるもの。

 シンシアも家族の一員。

 素人の手作りの服を着て人前に出るわけにはいかず、シンシアの寮の部屋に備え付けのクローゼットには自分の部屋でしか着れない服がぎゅうぎゅう詰めだった。



「シンシア、こちらに来なさい」


「……?

 何ですか、お兄さま?」


 やや疲労を濃く残した表情でシンシアを呼びつけたのは兄だ。

 もう来客は帰ったのだろうかとヒョイと顔を出す。


「ウェッジ家のご子息が君に話があるそうだ。

 ――失礼のないようにな」



「………はい?」



 シンシアの目は完全に点になった。

 サーっと血の気が引いていく。


「ウェッジ家……って、私聞いたことがありません。

 今までお付き合いのないお家ですよね?

 何故私に?」


 あわあわ、と両手を振って「無理!」を示すシンシア。

 だが兄も引き下がる気は最初からないようで、部屋の中に再度引っ込もうとするシンシアの腕を掴んで強引に引きずり出した。


「まぁ、その恰好ならいいだろう」


 今日は部屋に引きこもる気満々だったので、自分で縫ったワンピース姿。

 来客時に一々着替えろと言われるのも面倒だが、こんな自分で作った服で人前に出て本当に良いのだろうか。

 相当疲れているのか、兄も渋面だ。


 だがこのワンピースは手前みそだが自信作である。

 異国との交易品の中に混じっていた高価な布を親戚がシンシアに譲ってくれ、その素晴らしい桜色に染まった布で作成したものだ。

 真っ白なカーブを描く襟をつけるのが大変だったくらいで、あとは白い飾りボタンも縫い付けた可愛いワンピース。

 普段手掛ける、チャレンジ魂を込めすぎてで失敗スレスレの素人仕事の作品とは一味違う。無難なデザインともいう。







 ――ベルナール・ウェッジ。


 シンシアはその名についぞ聞き覚えがなく、応接間に向かう際簡単に説明を受けたが記憶の中に思い当たる人物像がない。

 どうやら同じ学園の生徒で、一学年上の男子生徒のようだ。

 何やら自分に話があるということだが……


 上級生に目をつけられるようなことをした記憶はない。

 地方でよく聞く無位の領主のご子息との話だが、猶更一層自分には関係ない。


 出来れば兄や父に同席しておいて欲しかったが、同じ学園の生徒ということでポイっと一人応接室に放り込まれてしまった。

 確かに同じ学園の先輩後輩にあたる関係で一々保護者同伴というのもどんな箱入りお嬢様だとも思う。

 だが初対面の相手と一体何を話せばいいのだと、頭の中は大混乱だ。



「失礼します。

 あの……私にご用件がおありとのこと、何か不手際でもありましたか……?」


 もしかしたらこの家の応接間で来客の対応をしたのは、これが初めてかも知れない。

 今まで自分あてに友人が遊びになんて来たこともないし、親兄弟の仕事のことには全く触れてさせてもらえない。


「ああ、お前がシンシアか………ん?」


 深い青色の髪と瞳も印象的だが、何より彫りの深い顔立ちが印象的だった。

 眉も力強い太さで一度話したことがあったら忘れないだろう男子生徒。


 彼がこちらの姿を見て立ち上がったのを見て、シンシアはつい身を竦めてしまった。

 目力――眼光が強い!


 普段人の影に隠れて注目を浴びないような日陰者、だからこうしてジロジロと凝視されること自体に慣れていない。

 彼の視線は例えるなら矢の嵐を射かけられているようなものである。


 ヒィ! と心の中で叫んだ。



「え、ええと……。

 私がシンシア・ゴードンです。

 ……ベルナール先輩……? あ、すみません! この場合ベルナール様ですか!?」


 

「……あ、ああ……別に。

 好きに呼べばいいだろ、ほら、座れよ」



 無位の領主でも立場は自分より上だから『様』付けにするべきだった!

 本当に慣れない事態に口が滑ってしまった、恥ずかしい!


 己の無知にカーッと顔が赤くなると、何故か正面の青年が「先輩……。」と小さな声で呟いて、僅かに動揺している気がする。


 ……会ったこともない自分に先輩呼ばわりされたのが気に入らなかったのだろうか、とシンシアは笑顔を顔に貼り付けたままソファに座った。


 商家としての威信をかけて建造されたこの客室は、シンシアも滅多に立ち入ることがないので落ち着かない。


 成金趣味のものはないよね!? と慌てて飾り物をぐるっと見渡したが、壁に掛かった大鹿の首の剥製が目立つだけでシンプルな内装だ。

 良かった、父も母も趣味が普通で。


「あー。えーとな、カサンドラからの言伝を預かってきた」


「……!

 か、カサンドラ様から……!?」


 話によると、彼はレンドールの出身でカサンドラとは昔馴染みの関係なのだそうだ。

 爵位を持つ家の生まれではなく舞踏会に参加できない身の上だが、レンドール侯爵に挨拶に行った先でカサンドラと再会したと。


 まさかカサンドラの知人だとは。

 だが彼女の名前を聞いたことで身体から変な力が抜け、ふにゃっとした顔になる。


「………。」


「あ、す、すみません。

 ちょっと気が抜けて……!」


 駄目だ、穴があったら入りたい。

 なんで学園の先輩の前で気を抜いているのだ、自分と彼は初対面なことに違いないというのに。

 もう顔を覆ってその場をダッシュで去りたいが、カサンドラの言伝を聞かずに逃げることは出来ない。


「お前の考えてくれたドレス? だったか。そのことに感謝していてな、改めて礼をしたいんだと。

 要望があるなら遠慮せず教えて欲しいそうだ」


「そ、そんなそんな!

 折角のご厚意ですが、私はカサンドラ様が喜んで下さったのならそれで十分です。

 わざわざお手間をおかけしました、また新学期にお会いしたいとお伝えください」



「………ええ……?」




 何故か目の前の青年はシンシアの返答にいたく不服そうな表情だ。

 拍子抜けとでも言いたげで。


 ベルナールは唇の端を歪め、眦を吊り上げる。



「お前、本当にあの学園の生徒か!? おかしいだろ!」



 ……ガーン、とシンシアの頭上に岩が落とされた。

 彼の直截な指摘は流石に予想できたものではない。


「あの……仰る通りです。

 この家に生まれたこと以外何の取り柄もありませんし……

 本当になんであんな大層な学園に通ってるんでしょう…」


 でもそれでベルナールに迷惑をかけているわけではないと思う。

 いや、もしかしたら自分には及びもつかない間接的な事情で彼に迷惑を……!?


 自分の顔は、ショックで青ざめていたかもしれない。


「あ、違……! そういう意味じゃねーよ!

 あの学園に通ってるにしては、やたらフツーっていうか、あー……

 もういい、何でもない」


 彼は言葉での説明を放棄し、前傾に乗り出した身をもう一度ボスっとソファの背もたれに戻した。


 普通という表現は誉め言葉とは程遠い。

 別に社交辞令を言われたいとは思わないが、面と向かって「凡人すぎる」と指摘されればシンシアだって傷つきもする。

 何故初対面の先輩に面罵されなければいけないのか。

 カサンドラの昔馴染みだというが、一体どんな関係なんだろう。全く二人が共にいる場面が想像できない。


 彼は完全に押し黙って、何だか「あー」だの「うー」だの、先に続く言葉を待っていてもその続きが出てくることは無い。



 ――用事がそれだけだというのなら、もう帰ってくれないかな……。



 それは居心地の悪い時間の過ごし方を知らないシンシアの本音だ。


「カサンドラ様からの言伝ありがとうございました。

 あの、本当に礼など結構ですので……

 わざわざお声がけくださったのに、気の利いた返答が出来ず申し訳ないです」


「……。そうか。

 いや、まぁ、仕事のついでだし」


 彼は大きな息の塊を吐きながらそう呟く。

 『仕事』、か。

 学園の生徒であると同時に、社会的地位のある親の手伝いをして将来へ向け実務を学んでいくということは何ら不自然なことではない。


 だが日常的に学園生活を送るだけでもシンシアなどはいっぱいいっぱいだ。

 この先輩、見た目は少し大雑把で放漫な人に見えるけれど……

 根はちゃんとした真面目な人なのかも知れない。


 そうだ、忘れてはいけない。

 彼は先に父たちと交渉事を行った後、追加の用があるとして自分を呼んだのだ。


「ええと、お休み中ですのに、ベルナール様は責任のあるお仕事をされているわけですよね。

 凄いですね、今日はどんなお話を?」


「いや、別に凄くはないけど……皆やってる事だし」


 凄くはない、と言いつつも彼は大変そわそわし始めた。

 挙動不審な姿をシンシアが不思議そうに眺めているのに気付いたのか、彼は大袈裟な咳ばらいをひとつ。


「小麦の話で、ちょっとな」


 セスカ領で大豊作だった小麦を国庫で全て買い上げ、余った分は備蓄に回す。

 理由は判然とせず、国の方針で定まったそうなのだが――王宮側の介入により大変困ったことが起こってしまった。


 それ以外の地方から小麦は買い上げない、買うとしても歩合は今まで以上に下げると一方的な宣告。

 今までウェッジの所領で作っていた中央に買い上げてもらう分の小麦の行き場がなくなった。

 他のところに売りに行こうにも、大口の交易に奔走するには条件が見合わないところばかり。

 捨て値同然で中央に買い上げてもらうのも癪だと思っているウェッジ側。


 そして普段セスカから直接大量に小麦を仕入れていた商会――ゴードン商会にも影響が及んだ。

 セスカから小麦を仕入れる間際、回してくれる予定量が突然大量に減った。

 足りない分は直接大商会のサーシェあたりから仕入れてくれという、そんな馬鹿な話があるかと父は激怒したが結局上の方針次第で方向転換を余儀なくされるのは変わらない。

 今更大量の小麦を売ってくれる取引口もないと内々で頭を抱えていたわけだ。

 その上小麦が足りない、大量に他所から仕入れたいという火急の事情は他所に知られてはならない。

 足元を見られるか嫌なやり口で潰されかねない。


 他所の大商会などの規模の大きな取引と比べ、ゴードン商会の規模では明確な定量契約が出来なかった。

 資金力、信用に劣るのだから優先度が低いのはしょうがないが、長年の取引が反故にされ腹に据えかねている状態。




 ――売りたい買いたいは双方一致しているものの、この取引の歩合交渉が難航して調整中なのだとか。



 諸々の条件について後日担当官が詳細な資料を持ってやってくるそうだ。



 シンシアは経営について触れたことがないので、良く分からない。

 色々説明されても、「ほぇー」と上っ面だけをなぞるようなものだ。



 ただ、結構得意げに説明をしてくれるベルナールが楽しそうで、ちょっと可愛いなぁと思ったくらいだ。



 

「凄いですねぇ」


 シンシアの言葉は嘘ではない。

 学生の身の上でありつつ、親の代行として色んな商会に顔を出して打診、交渉をしているということだから。

 彼は王立学園に在籍して、そして将来のために沢山のことを学ぶ権利が十分にあると思う。


 ……自分は、そういう明確な将来の目標だとか。

 どうやったらなりたい職に就けるのかも分からない。

 ただ親に言われて身の程知らずな場所に滞在して、時間を無駄に過ごしているだけのような気がする。


「いや、うーん……なんか調子狂うな。

 ほら、あの学園のお嬢様なんかさ、……こんなんじゃないっつーか」


「え? 私はお嬢様なんかじゃないですよ。

 庶民としてフツーに生きて来ましたから、まさか親に学園入れられるなんて想像もしてなかったくらいで」


 こんな規模の商会の娘が入るなんて畏れ多い、と未だに思う。

 普通の家よりは多少お金はあるかもしれないが、代々続く由緒正しい歴史もないし。どちらかというと新参者の部類だ。


「右を向いても左を向いても立派な方々ばかりで、気後れしちゃいますよねぇ……

 あ、ベルナール様は私とは違いますよね、すみません」


 駄目だ、彼の話し方が普通の少年の口調なのが良くないのか。

 勝手に仲間意識を持ってしまった、失礼すぎる。


「……。俺は、お高くとまってるより、全然……。

 ……。

 あのさ、一つ聞いても良いか?」


「何ですか?」


 彼は少し強い意志を込めた目で、こちらを見据えてくる。



「お前、その……好きな事とか、趣味って何?」



 何故そんなことを知りたがるのか。

 もしかして、こんな普通の庶民と話をするのは初めてで、ちょっとした好奇心というものだろうか!?

 こんな庶民崩れの娘がいる商会と取引をすることに不安があるとか!?

 自分の返答次第でこの交渉がひっくり返るとかそんなことはないよね!?


 だが見栄を張った無理をして嘘をついても知識不足で絶対にバレるだろう。



「ええと……手芸です。

 ぬいぐるみ作ったり……服を、作ってみたり……」


「服まで作るのか!?」


「は、はい。

 今更恥ずかしいですが、良い布が手に入ったのでこの服も自分で縫ったもので……す!?」





「もう無理! しんどい! 何これ、理想が落ちてきた!」



 ビックゥ! とシンシアの肩が跳ね上がる。



 ベルナールはシンシアには理解の出来ない言語とともに、顔を両の掌で覆って――横にコテンと倒れた。

 ソファのスプリングがその衝撃で大きく軋む音を立てる。


「べ、ベルナール様!?

 どうかしましたか、具合でも……」



 こんなところで倒れられてもシンシアも混乱の極みである。

 慌てて彼の様子を見に立ち上がり、以前カサンドラにそうしてもらったように。無意識に手を差し伸べていた。




「もう一コ、質問いいか?」



 彼はその手を掴み、横倒しになった姿勢のままシンシアを見上げた。






「――好きなタイプは?」



 そんなことを聞かれたのは、生まれて初めての事だった。

 普段考えもしなかったフィールド、無縁だと思っていた別世界の扉の向こうの話。




「……真面目な人……?」






 「そりゃそうか!」と、何が可笑しいのか、ベルナールは急に笑い出した。







 混乱の後に、あれ? と気づいてしまった。

 どういう意味なのかな、と今までの会話をザーッと脳内で繰り返すと気づいてはいけないことに気づいてしまう。



 シンシアはその手をパッと放し、向かいのソファを越えて壁に背中を張り付けて――自身の胸元に掌をあてがう。






   心臓の音が 耳に障って とてもうるさい

 



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