第110話 不吉な音
土曜日の夜は、お城の舞踏会。
開場は夕方だというのに、カサンドラは朝からとてもバタバタと忙しかった。
王宮舞踏会の思い出は、会場で王子の姿を見て一瞬で心を射抜かれたことしか覚えていない。
折角覚えた社交ダンスも、踊る相手は年配のおじさんが多かった。
同い年くらいの貴族の子息がカサンドラに声を掛けようと動けば、すかさず近くに佇む父が鋭い眼光で睨み据えていたので皆避けていたし。
そこまでお堅くならなくてもと思っていたが、当時から王子との婚約話が水面下で進んでいたなら納得できる。
そうでなかったとしても、ただの社交上の挨拶とは言え誰と誰が踊っただ踊らなかっただという情報は駆け巡るものだ。
いちいち相手をしていたら断れなくなるのはカサンドラの立場上考えられる惨事。
今回ジェイクが一回だけ踊ってくれと頼んで来るに至る、色々相手を見て考えて誘わねばならない苦労を自分も逆の立場で体験するところだったのかも知れない。
誘われたら断れないなど、とんでもない。
誰かと踊れば、何故彼が良くて自分は駄目なのかと食い下がったり不満そうな顔をする男性もいることだろう。
お相手を見つけて来なさいと送り出される娘とは少々勝手が違った立場。
舞踏会嫌いの父がロンバルドやエルディム、ヴァイルに呼ばれた時は必ず同行してくれていた理由も納得だ。
――そんな自分が、今日は初っ端から王子の『婚約者』として皆の前にお披露目されるのだという。
今まで舞踏会の脇役、壁の花だった自分が今日いきなり主役扱いを受けるなど、冷静に考えたらひっくり返りそうな事態だ。
自分の言葉で挨拶をするわけではない、二階の扉から王子にエスコートされつつ颯爽と登場し、中央の広い階段を微笑みながらゆっくり降りるだけ、である。
いきなり裾を踏んで転がり落ちても困るし、降りるタイミング、曲に合わせたゆったりとした動きを確認するため皆より一足先に赴かねばならない。
リハーサルに参加するなら前日から王宮に泊まらせてもらえばいいのでは?
という父母の提案に震えながら首を横に振った。
自分の着るドレスを積み、それを着せて姿を整えてくれる使用人を何人か連れていくので客室を貸して欲しい! なんて言える距離感ではないわ。
朝昼兼用のパンを僅かに抓み、コルセット巻きを終えた段階で既に疲れを感じるカサンドラ。
一昔前のように肋骨が折れかねない程強く巻き付ける習慣は廃れたとはいえ、身体の線を良い状態でキープするため圧迫されるのは心地いいものではない。
もう今日は、これ以上の食事は喉を通らないだろう。
脇役で義務のような心持で参加するのと、注目を浴びるシーンがあることが前提で参加するのでは全く違う。
もしも自分が何か大きな失態をやらかしてしまったら王子に恥をかかせてしまう。
裾を踏みつけるなど以ての外だ、かといって王子を差し置いて前に出ることは絶対に駄目。
緊張で無表情になりそうだが、それでは愛想が悪すぎて宜しくない。
あくまでも自分は見世物。
……『あれ』が王子様の婚約者。『あれ』が未来の王妃様。
そんな値踏みするような視線に晒されるのだ、華やかな舞踏会場はカサンドラにとっての戦場。
侮られることのないよう立ち回らなければ。
例えば何かの物語のように、王子が平民と身分違いの恋愛をし、数多の障害を乗り越え『この娘を我が妃にする!』と大々的な宣伝をするなら――多少振る舞いに難があってもお目こぼしされるだろう。
だがカサンドラは曲がりなりにも侯爵位を王より賜った貴族の一人娘、雑な立ち居振る舞いは父の評判にも泥を塗る。
「そのように緊張なさらずとも、いつも通りで宜しいのですよ」
着替えが終わった後、髪型を整えてもらう。
王子の要望通り、金の長い髪を全てアップでまとめたものだ。
うなじや背中の肩甲骨まで見えるが、背中の衣装を留めるリング部分に綺麗な赤い布がリボン状に結んであってそれが良く目立つデザイン。
肩は明るい色の薄布を何枚も重ね、飾りはごく少なめに。
長袖の白が基調のドレスは要所要所に黄色や橙色の綺麗なグラデーションが入れられていて、裾を縫う金糸の文様も丁寧な仕上がりである。
カサンドラは刺繍でもなんでも、模様を自分で考えてステッチするのが苦手である。
このように綺麗な模様を良く考えつくものだと驚いてしまう。
白をベースにした衣装も自分の顔には似合わないだろうなという先入観があって忌避していた。
でも形や装飾品次第でそれなりに見えるのだなと鏡の中の自分をぼんやりと眺める。
「いつも通りというのが難しいのです」
カサンドラは眉根が寄りそうになるのをきゅっと耐える。
誰もいない無人の会場でのリハーサルと、無数の人の視線に晒されて歩くのではプレッシャーも全く違う。
下手をすれば自分が築き上げてきたもの全てが無に帰しかねないのだ。
まとめた髪を留めるバレッタは細かいサファイアの飾りが散りばめられている。
母から譲り受けた髪飾りの中で特に気に入っているそれを飾ると、耳飾りは――
大粒のイヤリングが良いのではないかと言う話になり、衣装を担当する使用人が目をつけたのが例のラルフに選んでもらったという曰く付きの『弁償品』。
壊されてしまったイヤリングより何倍も体積があるだろう大きな耳飾り、それが合うのではないかと言われ不承不承頷く。
「――最後になりましたが、こちらを結び直しますね」
立ち上がり全身像を見渡そうとするカサンドラの後ろで、キュッと音がする。
王子が靴裏の色を赤に合わせるだなんて言ってくれたので、こちらも出来る限り鮮やかな赤い布を探してもらったのだ。
光に透けて煌めく朱色のリボンを背中の留め具のところで蝶結びをしてもらう。
リボンの先は長めに、腰より下に届く程。
これならダンスを踊る最中、ターン時にふわっと舞って映えるだろう。
王子の足元、そして自分の首元という上下に分かれたお揃いの差し色は悪くない。
自分からは良く見えないのが難点だが、そもそも自分の姿など一々確認している心の余裕はないだろう。
「この布、綺麗ですね」
「ええ、ええ。
わたくしどもも真剣に選びました、良くお似合いですよ」
布の先に光沢のある白糸が編み込んである。
その文様は袖や裾の飾り糸と同じ模様で素敵だ。
だが元々薄い布に飾りを施しているので、雑な扱いをすれば亀裂が入って破れてもおかしくない。
手触りが良いので指先で弄りたいが、それは厳禁だな。
爪で引っ掻いたら取り返しがつかないことになりそう。
いつもの髪型ではこのリボンも髪に全て覆われ、目立たなかっただろう。
そこまで気が回っていなかったので、最初からアップに纏めたら? という意見は大変助かった。
首元に直に風が当たってスースーするのが最初は慣れないが、会場に集まる人の熱気に酔えば気にならなくなるはずだ。
ただでさえ長袖デザインなので、背中のあたりが涼しいのはこの季節には助かるというもの。
「……温度調整、失敗するなんてこと、ないわよね……?」
生誕祭のトラブルを思い出すが、一国の王が威信をかけて執り行う舞踏会でそんな不手際があったら今度こそ魔道士達の立場が危ない。
彼らも自分たちの身内の不始末に焦っているはず、意地でも成功させるだろう。
それにシリウスもいるのだ、カサンドラが気にすることでもない。
「ではわたくしたちは先に会場に参りましょう」
「喜んでお供いたします」
ドレスが着崩れてしまったり何らかの不具合があったとき、即座に対応してくれる衣装担当の使用人まで帯同させなければいけない。
今までは不具合があったらそそくさと会場を後にすればいいという能天気さで過ごしていたが、流石に今日ばかりはそうもいくまい。
最初のお披露目さえ乗り切ってしまえば、後は周囲の男女に混じってメヌエットを踊るだけ……!
そうすれば正式なパートナーとして認知してもらえる、はず。
そんなに難しい事じゃない。
王宮側の指示通りに動いて、笑って、踊ればいいだけ。
……それだけなのだ。
※
先に会場に連れられ、カサンドラは舞踏会場二階の待機室に案内される。
一番奥の豪奢な扉が、会場へ繋がるものだ。
王子と自分はその扉が開かれたらそのままビロード絨毯の敷かれた階段を降りていく。
去年の王子は一人で登場し、二階からにこやかに手を振っていた。
最初の一曲が終わるまで、階下で繰り広げられる舞踏会の様子を国王陛下と眺めていたのだ。
その後、悠々と降りてきた姿を今でもよく覚えている。
ダンスホールの中央には正式なパートナーと参加している男女しか待機できず、相手が居ない人は皆壁側でダンスの邪魔にならない場所に下がる必要がある。
なので光り輝く王子の姿が階上にいるのを見て以降、王子の姿を正面から見ることは結局出来なかった。
王子が『踊ってください』と言って来れば喜んでその手を取っただろう。
だが彼は数名の女性と踊った後奥で歓談する大人たちの相手をしに引っ込んでしまった。
主賓側とは斯くも忙しいものなのか、と思った記憶がある。
「やぁ、カサンドラ嬢。
早く来てもらって申し訳ない、今日は宜しくね」
控室の中にいた人物の中で、真っ先にカサンドラに声をかけてくれたのは王子だった。
こちらに気づき、爽やかな笑顔で向き直る。
王子の盛装のインパクトに動悸が烈しくなり、目が血走る寸前。
普段から王子様然たる姿の彼が、実際に王子様仕様の煌びやかな衣装に身を包んでいれば相乗効果で目が潰れる光輝を発する。
カサンドラの衣装の色に合わせてくれたのか、最初からそうなのか。
彼もまた白を基調にした金銀の飾り刺繍も鮮やかなゴージャス仕様なお召し物である。
カサンドラと違って素で嫌味のない美形なので、目立つ衣装さえ引き立て役と化している。
純粋に『王子様……!』と手を組んで拝みたくなる彼のインパクトに緑色の目がぐるんぐるんと回って倒れてしまいそうだ。
どんな宝飾品も王子本人には敵わない、金の肩章を着けた上着を難なく着こなせる男性が一体どれほどいるというのか。
「ごきげんよう。
本日はお招きに与り、大変光栄です」
ドレスの裾を手で持ち上げ、カサンドラは一礼する。
「こちらこそ来てくれてありがとう。
綺麗な衣装だね、君に良く似合っているよ」
一点の曇りもない紳士スマイルで言われると顔が一気に赤くなってしまいそうだ。
だがこの現実に浮足立って地に足がつかないままではいられない。
王子の姿に感動できたのは最初の数分だけだ。
「早速だけど、今日の段取りについて――」
頭の中に順序は入っているが、今更ながらに不安になってくる。
ホール内の楽士たちが始まりのファンファーレを鳴らし、その後荘厳で迫力のある入場曲。
ある一節、決められたタイミングで二階の扉が開き、二人が一歩前に踏み出す……
音楽に合うようなゆったりとした動きで一段一段降りていく。
その動きがたどたどしくならないよう、カサンドラは幾度か階段を降りる。
特に男性にエスコートしてもらいながら階段を降りるなど難易度が高すぎて、途中何度もバランスを崩しそうになってしまった。
王子の手をとるのは嬉しいのだが、力み過ぎても駄目。
また彼によりかかるわけにはいかないので、本来その手に頼って降りてくるはずのこの一連の動作がカサンドラの両足の先のバランス感覚に全て任されるという過酷な事態に。
出来る限り王子に体重を寄せないようにしようとすると中々難しい。
しかも階段は……結構長い、というか二階まで高い。
何度も往復しては体力の方が先に尽きてしまうので、三回ほど歩いてみて感覚を確かめる。
音楽の曲調に合わせて二人同時に一段一段優雅に降りる自分をイメージしつつ、頭が真っ白になってもちゃんとやることはやれるように流れを頭の中に叩きこむ。
ようやく人心地ついたのは、開場まで数十分という差し迫った頃であった。
……あと一時間後には大勢の人たちの前で王子の婚約者だとお披露目される。
カサンドラ・レンドールと呼ばれたら会場でお辞儀をする、まずはそれさえ乗り越えれば後の人間はナスかじゃがいもかかぼちゃだと思って頑張る……!
「早くからお疲れさん、様子を見に来たぞ」
ドレスに皺をつけたくなくて、ソファに座るのも躊躇われる。
控室の中央で緊張のあまりガチガチに固まったカサンドラ。
部屋の中に入室してきたジェイク達に、若干引きつった笑みを向けた。
そしてジェイクを始め、シリウスとラルフの揃った姿に背を仰け反った。
分かっていた事だが、視覚への暴力が過ぎる。
王子一人でもその姿を一目見たとき動揺ばかりだった。
今度は三人一緒に顔を出されると悲鳴さえ口から漏れ出そうになるというものだ。
式典とは違い、彼らもまた盛装。
ダンスホールに相応しい装いで登場するのである、目がチカチカ痛かった。
ジェイクもシリウスもオールバックで普段と全く印象が違う。
唯一ラルフだけ髪型がいつもと同じなのにホッとするが、すらっとスタイルの良い美形三人が舞踏会仕様なのは中々心臓に悪かった。
「うーん、髪型違うと印象も全然違うな。
……お前そんな恰好もするのか」
ジェイクがじーっとこっちを見てくる。不躾な視線に、カサンドラは乾いた笑いだ。
そういえば合奏の時にアップの髪型で参加したが、その時はジェイクはいなかった。
印象が違って見えるというのは本音だろう。
「ジェイク様もいつもと全く違う装いで、普段と随分変わって見えますね」
「ホント動きにくいから嫌なんだよ。
今日は絶対一番に抜けてやる」
あまり気乗りのしない一日だろうに、妙に生き生きとして見えるのはそのせいか。
舞踏会タイムアタックをする分には構わないのだが、カサンドラを巻き込んで欲しく無かった。
約束だから、勿論踊りの相手にならなければいけない。
リゼと一緒に踊ってくれたことを考えれば、それくらいならお安い御用だ――とも思う。
「準備は万全か?」
シリウスは淡々とした口調で王子に話しかける。
こういう場も義務だからと、タキシードを着こんでいつもよりお洒落な赤縁の眼鏡。
身体を動かすことは苦手な彼も、ちゃんと必要な技能は一通りそろえているようだ。
馬にも乗れるらしいし、全くのひ弱なお坊ちゃんと言うわけでもない。
「ああ、大丈夫だ。問題はないよ」
「アーサーが女性をエスコートして入場するのは初めてだね。
楽しく見させてもらうよ」
ラルフも余裕の微笑み。
こちらは物凄く緊張して水も喉を通らないくらいなのに。
男性と女性の差というより、彼らは本当に場慣れしているということなのだろう。
幼馴染達が和やかに談笑するのをぼんやりと眺め、何とか平常心を取り戻す。
そして段々とホールから聴こえる人の話声が大きくなってきたことに気づいた。
既に開場し続々と舞踏会に招かれた貴族、その子女が押し寄せていることに嫌でも気づく。
それまで無人だった広大なホールに、今何十人居並んでいる事か……!
幼馴染同士和やかな雰囲気なのと対照的に、カサンドラは緊張でずっと笑顔を貼り付けたまま。
彼らの何でもない雑談は、舞踏会絡みのことではなく他の案件のことばかり。
……こちらはこの瞬間で手一杯だというのに、場慣れしている人たちの余裕さを見せつけられた気持ちだ。
ふと控室の時計を見ると、とうとう舞踏会の始まりまで残り五分を切ってしまった。
ファンファーレが鳴り響き、この壮麗な扉が前に向かって開かれる。
……王子と一緒に、同じタイミングで……
さっきまで頭の中で何度もシミュレートしたのだ、大丈夫なはず!
やることは単純だ、それに王子もこういう場には慣れている。カサンドラを多少なりともフォローしてくれる余裕はあると信じてる…!
扉の手前、自分達の待機する床の上に向かってソロソロとカサンドラは歩みを進める。
「……ああ、もうこんな時間か。
私達は下で待機しているとしよう」
シリウスもまた差し迫った時刻に気づき、控室から一足先に退出する。
扉の傍には蝋燭が灯り、それを立てる枝つき燭台は金で出来ているのが分かる。
豪奢な作りで、飾りが尖っていた。
雰囲気はばっちりだ。
「じゃあな。
約束は忘れるなよ、カサンドラ」
ジェイクも大きな手を軽く振って、シリウスの後に続いた。
ああ、ドキドキする。
王子の隣に立って、ファンファーレを待つ。
「……あ……王子!」
カサンドラが緊張の面持ちで王子の横顔を見ていると、なんと一匹の蛾が王子の肩章に停まった瞬間を目撃してしまった。
確かに王子は光り輝く程美しい。
このようなちっぽけな蛾でもその光に誘われ、止まりたくなってしまうのは道理であろう。
だが到底見逃すことなど出来ず、カサンドラは反射的にその蛾を追い払おうと肩を捩った。
本当にごく自然な反応で、無理に身体を捻ったわけではない。
「失礼いたします。こちらに、虫が……」
もうすぐ定刻だ。
楽隊のファンファーレまで二、三分。
虫を払うために手を動かした時、くいっと後側に僅かな抵抗を感じた。
王子の肩から掌の風圧で蛾を追い払ったまではいい。
……ビリ、と。
この場で絶対に聞きたくなかった嫌な音が――控室に響き渡ったのである。
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