第97話 病欠、そして
実は今週、義弟のアレクは屋敷にいない。
レンドール領に一時帰宅しているのは、彼の知人からお招きがあったからだそうだ。
アレクの交友関係に詳しくないが、彼も養子となる以前からの付き合いもあるのだろうし。彼もカサンドラの友人関係に首を突っ込むことは無いのでお互い様か。
辺境伯からの招待ということもあり、参加しないという選択肢はなかったようだ。
――別にアレクがいなくても日常生活には差し障りはない。
食事を共にする家族がいなくなるのは寂しいことだが、それが嫌だと駄々をこねる程子供ではないのだ。
どうせ日中学園に通っている間は会うこともない。
週末には帰ってくるだろうし、お互い非常に淡々とした挨拶だったと思う。
『――姉上。
僕がいないからと言って羽目を外す事無く、健康管理には十分注意してお過ごしくださいね』
子ども扱いか!
そう突っ込みたいのを我慢して『そうですね、気を付けます』と頷いたカサンドラ。
義弟がいなくて外すような羽目など持ってはいないというのに、失礼なことを言う。
そして今日は金曜日、七月に入ってすぐの朝。
※
カサンドラは熱を出してしまった。
※
「疲労が祟った風邪でしょう。
このままよくお休みになっていれば大事無いかと」
カサンドラがどうにも熱っぽいと起きた直後に申告するや否や、邸内は上を下への大騒ぎだ。
家令が即座に手配してくれた通いの医者に診てもらい、ようやく家の者もホッと人心地。
「疲労……」
何と言うショッキングな単語なのか。
ズーーン、と落ち込む。
自分ではあれこれ無理をしていたつもりはなかったけれど。
入学してから肉体的にも精神的にも、徐々に負荷に蝕まれていったのかもしれない。
結構なストレスや緊張状態に置かれていたし、大きなイベントごとを成功させた後の気のゆるみなども加わったのだろうし。
フルートの練習は夜通しだったし、社交ダンスのレッスンだって集中していたから毎晩へとへと。
とどめとばかりに先日の社交ダンスの選択講義で二時間延々踊りっぱなしという、いつの間にか赤い靴でも履かされていたのか状態。
今日が終われば土日で休息出来たはずなのに……
その一日が踏ん張れず、とうとう体調を崩してしまったのである。
生徒会の役員会だって欠席しなければならないし、迷惑をかけてしまうことはもはや避けられない。
ああ! 私の馬鹿!
「お嬢様、どうかゆっくりお休みになって下さいまし」
使用人は寝台横のサイドテーブルに薬湯をそっと置いた後、医師と一緒にぞろぞろとカサンドラの私室から出て行った。
大勢に見守られては休めないだろうという配慮は有り難い。
ただ、しーんと静まり返った自室に一人頭痛を抱えて寝っ転がる自分が情けなくて仕方なかった。
三つ子に対し常日頃オーバーワークは駄目だと言い続けていたのに……
まさか自分が疲労でダウンなど、とても笑えない状況だ。
生誕祭や学期末試験でなくてよかったと前向きに考えられないほど、カサンドラの精神状態は下降線をたどっていた。
夜更かししたわけでもないのに、何故風邪などひいてしまったのか。
しかも夏風邪なんて……
アレクの冷ややかな視線を浴びることが確定してしまい、姉としての尊厳がまた一つ音を立てて崩れていく。
「……色々あったから……かしら」
自分のことも、人のことも。
誰にも後ろ指をさされることのないよう常に気を張ること、それは慣れたはずだ。
どうして後一日持たなかったのだろう。
既にカサンドラが休む旨の連絡は学園に至っているだろうし、気合で風邪が治るなら医者など要らない。
ああ、でも授業を受けている時間に一人で柔らかいベッドの上でごろごろするのは心地いい。
しばらく感じていた後ろめたさも次第に薄れ、カサンドラは手の甲をおでこに当てたままぼんやりと天蓋の模様を眺めていた。
三つ子はきっと心配してくれているだろう。
ジェイクやラルフ、シリウスなんかは役員会不在で迷惑をかけられてカサンドラに怒っているのかも。
特にラルフなど、入学式典の日に医務室に行くだけであんなにカサンドラに剣呑とした態度で突っかかってきたのだ。
不養生からの風邪で休みなんて論外だろう。
……また彼からの風当たりが強くなるのは勘弁してもらいたいが、仕方ない。
カサンドラは主人公と違って、体術の講義を受けた分だけ最大体力が的確にズバッと上がるわけじゃない。
何となく勘違いしがちだが、元々眠っているポテンシャルが甚大であるがゆえに着々と成長を続ける主人公と凡庸なるカサンドラでは土台が違うのだ。
こうして予期せぬところで風邪をひいて、一日を無駄にしてしまうことだってある。人間だもの。
「王子は……」
果たして彼は自分のことを心配してくれるのだろうか。
別に自分と顔を合わせなくとも、何とも思わないのかもしれない。
彼の友人らと同じように、体調管理もろくにできないカサンドラに負の印象を抱いて呆れているのかも。
……駄目だ。
体調が良くないと、嫌な事ばかり考えてしまう。
自分なんかいなくたって今日も陽は昇る。
授業も進む。
三つ子は選択講義で魔法実技を頑張ってる。
役員会だって自分以外の誰かが代わりに進行してくれる。
恙なく一日が終わるのだ。
自分などいてもいなくても一緒だと思うと一層頭が重たくなってくる気がして、カサンドラは表情を歪ませる。
今日は余計なことを考えず、ゆっくり休もう。
とろとろになるまで煮込んだ野菜スープを摂った後、まだ燦々とお日様が照る時間。
午前中昏々と眠った上に薬湯が効いたのか、頭痛も殆ど収まってきた。
寝汗を思い切りかいたので上がり切った発熱も和らいで随分楽になる。
こんなにもすぐに症状が緩和されるなら、這ってでも学園に行くべきだったのかも。
不思議なものだ。
立場が己を作るというのは強ち間違っていないのかもしれない。
自分はこんなにも責任感や義務感が強い性格だったのか…
周囲にあの王子の婚約者! という目で見られるからこそ僅かなことでも気が抜けないし、そういう立ち居振る舞いを意識せざるを得ない。
自分はちっとも完璧な人間ではない、ただ恵まれた環境から選択肢が多いだけの平凡な人間なのに。
破れ掛けの水かきで水面下で必死に優雅な白鳥を演じているのだ。
それはとても滑稽な様に映ることだろう。
「お嬢様、失礼いたします」
コンコンと扉を叩く音にハッと目を醒ます。
いつの間にか自分は寝入ってしまっていたようだ。
午前中あんなに寝たら眠気もないと思っていたのに、身体は確かに休養を欲しているのかもしれない。
この週末はどこにもいかず、家でゆっくり養生しよう。
「どうかしたのですか?」
「お休みのところ大変申し訳ありません、あの……
本来であれば、お耳に入れることも控えるべきですが……」
ふくよかな年配の使用人は困惑したまま、前掛けの白いエプロンを指先で弄りながら言葉を濁す。
「実は、お嬢様をお尋ねになった方がいらっしゃいまして」
「まぁ」
休んだカサンドラの見舞い――だろうか?
しかし休んだ当日に来られても、そうそう面会できるわけがあるまいに。
気持ちは有り難いがこちらは寝着のままだ、お引き取り願う他ない。
「その、訪問された方が……
どうやらロンバルドのお坊ちゃんで」
どうしたものやら、と狼狽する使用人。
その人物像が脳内で具体的にイメージされた時、カサンドラも絶句した。
ジェイクがカサンドラの家にやって来たと?
……何故?
※
病欠当日とは言え、ジェイクが訪ねて来たのであっては流石に『帰れ』とは言えない。
幸い体調は随分マシになっていたので、起き抜けの髪をざっと梳いた後室内用のケープを羽織って応接室に向かった。
起き上がれない程重病らしいなんて誤解されるのも面倒だし。
覚悟を決め、カサンドラは扉を開け放つ。
出されたコーヒーを半分ほど飲んでいる状態のジェイクが、「よぉ」と片手を挙げる。
「ジェイク様、本日は急に休んでしまい大変申し訳ありませんでした」
とりあえず先手で謝罪。
彼が何をしにこの屋敷まで訪れたのか真意がはっきりしない以上、下手な応対は出来ないと内心で恐々としていたのだけど。
彼は橙色の瞳を瞠り、ポカンとした顔。何でカサンドラが謝っているのか理解できない顔。
ジェイクは持ち上げていたカップをソーサーに置いた後、溜息をついた。
「突然来て悪かったと思ってる。
体調戻ってないんだろ? 早く座れよ」
彼も若干気まずそう。
ここに来たのは彼の本意ではないということは何となく伝わってきた。
だが油断せず彼の挙動を具に凝視しつつ、疑いの眼のまま彼の正面のソファに腰を下ろした。
「はぁ……
今日は本当に面倒だった」
「も、申し訳ありません」
「ここに誰が訪問するかって言うので超揉めたんだよ、昼食が遅れたくらいだからな。
全然決まらなかったら担任が……
あの野郎、どうせ俺が街に出る用事があるんだからって押し付けやがって」
「……?」
ジェイクの額にはうっすらと怒りのマークが浮かんでいる。
不承不承彼が話した内容によると、カサンドラが病欠ということでクラス中が大騒ぎだったそうだ。
大きな病気ではないのか? など結構な騒動に……
病欠報告済の生徒など本来放っておくべきはずだが、カサンドラの様子伺いに名乗りを上げたのが三つ子とデイジー、それだけではなくクラス中のほぼ全ての女子が意思を表明。
カサンドラと仲良くしても良いことは無いと思うのだが…
是非私が! と女子のカサンドラ邸訪問権を巡って何故か揉めた。
三つ子やデイジーは分からなくもないが、そんなに女子たちと親しくしてるわけではないカサンドラには俄かに信じがたい。
担任も困っただろう。
別に普段休んだ生徒相手にクラスメイトを派遣して様子を伺うような習慣などない。でも収まりそうになく、「行かなくてもいいよ」なんて言えない雰囲気。
人員を決めかねて「うーん」と担任が唸っているところ、白羽の矢が立ったのが完全に他人事状態のジェイクだった。
普段放課後は真っ先に街に出て所用を行うジェイクならカサンドラの家までついでに行けるだろう、と。
しかもジェイクが行くとなったら他の誰が差し置いて行くだなどと言えるのか。
女子の争いをおさめるため使われたのなら、ジェイクの機嫌が悪いのも当たり前か。
「なーんでたった一日病欠しただけで様子伺いが要るんだよ。
ま、今回は伝達事項もあったからしょうがなく引き受けたけど」
完全にドン引き状態のジェイクの心中を思うと、何だかひたすら申し訳ない想いにかられる。
「伝達事項ですか?」
「ああ、学期末の試験範囲。
二週間後だろ? 今日公示があったんだよ」
そう言って彼はメモ書きをテーブルの上に置いた。
それぞれの教科の試験範囲が確かにしっかりと記載されている。
他のクラスとも範囲を合わせなければいけないので、この範囲情報は確かに無いと対策のための勉強が出来ずに困る。
「それで具合はどうなんだ?」
彼は大仰に溜息を落とした後、足を組み替える。
相変わらず長い足だこと、と。カサンドラは思わず口元を手の先で覆った。
「お陰様で少し休んだら楽になりました」
「そうか、なら大丈夫そうだな」
彼は本当に長居をするつもりなど無かった。
いや、そもそも騎士団の用事のついでにこんな子供の御遣いのようなことをさせる担任が怖い。
彼は残りのコーヒーを飲み干し、そのまま立ち上がって鞄を手に取る。
「ええと……
その、ラルフ様はやはり怒っていらっしゃいましたか?」
怖いもの見たさというか、聞きたさが
ラルフとあまりにも気まずい状態過ぎるのも困るし、『やはり
びくびくしながらそう尋ねると、きょとんとした顔のジェイクと視線が合った。
「いや? なんで?
……フツーにお前の事心配してたんじゃないか?」
本当にそうなのだろうか。ジェイク個人の感想なので完全に鵜呑みにすることは出来ないが、少なくとも目に見えて苛立ちを見せる程怒ってはいないということで良いのだろうか?
挽回可能だと良いのだけど。
「お前が休むと大変だっていうのが良く分かった。
クラスの女共も役員会も、な。
もう二度と風邪ひくなよ」
うんざりした顔の彼には本当に申し訳ない。
「お前が風邪ひいたままだと、俺も舞踏会で困る」
彼は憮然とした顔だ、それが本音なのだろうと苦笑するカサンドラ。
去り際に彼は「そうそう」と思い出したように振り返る。
「アーサーがさ、『お大事に』って言ってたぞ。
だから見送りは要らないし、早く部屋戻って寝てろ」
王子が……!
それはただのクラスメイトにもかけるだろう、定型の句に過ぎない。
でもわざわざジェイクにそう伝えてくれって言っていたということは、少なくともカサンドラの存在を気にしてくれているわけで。
ひらひらと手を振って部屋を出るジェイクへの挨拶もそこそこに、カサンドラは両頬を掌で覆う。
たった一言でも、気にかけてもらえるというのは幸せな事だ。
疲労も怠さも吹き飛んでしまう。
それだけで一気に元気になれそうな自分は、とても現金な身体をしていると思った。
※
翌日の昼、レンドールから帰還したアレクに冷ややかな目で睨まれて現在に至る。
どうやらカサンドラが風邪を引いて学園を病欠したことを既に聞かされているらしい。
出来ればこのままなかったことに……と思ったが、そうは問屋が卸してくれない。
「姉上! 貴女という人は、また何か無茶をやらかしたんですか!?」
アレクは外出着のまま、その端正な顔を怒気に染め叫ぶ。
「そ、そんなことはありません。
ただ日頃の疲れが原因だと……」
「日常的に疲労が溜まり続けている事の方が大問題じゃないですか。
ちゃんと自分の身体をいたわって下さいよ、いつもいつも貴女は! 心配ばかりかけて!」
「面目ないと思っています」
自己管理が出来ない状態ではまた同じように倒れるぞ、と。
アレクはそう心配してくれているのだと思う。
「脇目も振らず目標に向かって頑張るのは姉上のいいところかもしれませんが……
無理をしては何の意味もないです、それなら僕は今後姉上に協力することを躊躇ってしまいますよ」
「そんなこと言わないでください、アレク!」
腕を組んで呆れた表情のアレクに何と弁明したものか。
とにかくここは下手に出て謝っておくほうがいいと手を合わせるカサンドラ。
そんな彼女に、再び使用人がバタバタと駆け寄ってきたのだ。
「お嬢様、こちらをご覧ください!」
義弟と話し込んでいる時に使用人が横槍を入れてくるのはとても珍しい。
一方的にカサンドラが謝っている、その気まずい空気を打ち破るための方便かと思ったがどうも違うようだ。
使用人の両手はプルプルと震えている。
「さ、先ほど……お庭の花の手入れをしておりましたら、こちらを……」
そういって両手で恭しく何かを掲げる。
アレクと顔を見合わせ、使用人の尋常ではない様子に頷きそっと受け取ることにした。
一通の封書と……
一輪の黄色い花。
誰だろうと裏の署名を確認した直後、カサンドラは息を呑む。
「お、王子……!?」
つい封書とアレクの顔を順繰りに見やり、口をぱくぱくと開閉する。
「開けてみては……?」
確かに何が書いてあるのかなんて開けてみなければ分からない。
震える指でカサカサと封書を開く。
指先に心臓が引っ越してきたみたいにドクンドクンと脈打って、なかなか上手く紙をつまめない。
――以前目にしたことのある、確かな王子の筆跡で手紙が書かれていた。
食い入るように文章を読む、思いっきり紙を眼前に近づけて誤読のないよう細心の注意を払って。
『親愛なるカサンドラ嬢へ』
という常套句から始まる手紙。
季節の挨拶がもどかしく、その下に視線を滑らせる。
突然手紙を渡して申し訳ないということ。
大きな病気ではないようだけど、早く治して登校して欲しいということ。
皆が、そして王子もカサンドラと会えるのを楽しみに待っているということ。
――勉強などに根を詰め過ぎず休んで欲しいということ。
それらを流麗な文字で書き連ねている彼の文章は、丁寧で十分に気持ちが感じられるものだった。
添えられている黄色の花は、王子からの見舞い――贈り物という扱いでいいのだろうか!?
わざわざ病欠した自分のために、王子が手紙を書いてここまで持ってきてくれたと?
この切り花がある以上、使用人に手渡しだったのだ。
……そりゃあ使用人も動揺して狼狽えるわ!
昨日のジェイク以上の存在に、目も眩むというもの。
――ということは、この屋敷の傍に王子本人が通ったということ!?
寮からも王宮からも結構な距離があるのだけど、わざわざ?
例えそれが王子にとっての社交辞令だとか、礼儀だとか、マナーだとか。
そんなことに関わらず、ただただ嬉しい。
この手紙はその他大勢に向けたものではなく自分だけに向けられたもの。
他の時間はどうであれ、この文字を書いている時だけはカサンドラのことを考えてくれていたのだ。
そう思うと、あまりの気恥ずかしさに身体中の血が一気に沸きそうに。
「お嬢様! またお顔が……まさか熱が?
お医者様をお呼びしなくては!」
「いいよ、そんなの呼ばなくて」
もう彼らの会話などカサンドラの耳に入って来ない。
アレクは額を押さえ、肩を竦め何とも言えない奇妙な何かを見るような顔つきになった。
「アレは、どんな名医でも治せないからね。
あーあ、馬鹿らしい。
僕は部屋に戻るよ」
綺麗な花、早速部屋に飾ろう。
ありがとうございます、王子!!
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