第96話 <リタ>
その日も豪勢な昼食に舌鼓を打っていたリタの耳に飛び込んできた話題がある。
元々リタは噂話を聞くのが嫌いではない方だ。
リゼやリナよりも学園内の人間関係に精通している自信があった。
まぁ、そんなことを自慢した暁にはリゼに睨み殺されそうなので彼女の前ではあまり浮き立った反応はしないようにしている。
三つ子の姉といえども、彼女とは本当に性格が合わない。
頼りになる人で、意外と世話好きなことはよく知っているのだが……
いかんせん彼女は自分にも他人にも厳しすぎる。
人っていう漢字はね、他人同士が支え合っていることから由来する漢字なんだよと聞きかじった知識をリゼに披露したことがある。
もう少し他人に興味を持って! 人は一人では生きられないんだよ!
彼女はフッと鼻で笑って言った。
『その一画目はリタかもしれないけど、二画目はリナ? それとも私?』
あの人には心が存在しているのだろうか、と滂沱したことを思い出す。
そんなリゼが、この学園に入学してからというもの凄く変化してしまった。
今まで色恋沙汰に僅かな興味も示さなかったあの堅物の姉が、結構話に乗ってくるようになるなど去年の自分が言われても信じないだろう。
まさかリゼが恋愛をテーマにした小説を自分の本棚から借りていくとか、転がった眼玉を探すのが大変だった。
この間もジェイクの誕生日プレゼントについて悩んでいたり服を買った方が良いのかと考えていたり、あまつさえ完全乙女モードでニマニマしている顔を見たときはこの世の終わりを確信した。
いやぁ、本当に恋愛の力って面白い。
むしろこの場合はジェイクが凄いのか何なのか。
最初の印象とは違って良い人であることは分かっているのだが、何故かやたらとリタにフレンドリーな対応であるので要らぬ誤解が生じないよう出来るだけ顔を合わせないようにはしている。
リゼの目も怖いし。
この人を敵に回したら生き延びれる気がしないので、是非ともジェイクと奇跡を起こしてでも上手くいって欲しいと心から応援している次第である。
今はそんなリゼを正面に、学園の昼食を楽しんでいた。
毎日パーティかな? と思うくらいのご馳走に毎日リタは幸せな気持ちで食事をしているのだが――
突然聞こえてきたクスクスと意地の悪い笑い声を添えた噂に、手が止まった。
――馬鹿な子。
――身の程知らずね。
――だからあれ程止めたのに。
「……ん?」
最初は何のことを言っているのか分からなかった。
そういえば何日か同じテーブル、斜向かいで食事をする隣のクラスの友人の姿がない。
一日二日では気にならないが、もう三日目だ。
その嘲笑の混じった噂の対象が何となくこちらの方を向いているような気がして首を捻る。
噂話は嫌いでないとは言っても、こういうねっとりじっとり人を小馬鹿にする悪意マシマシの噂話は気分が悪くなる。
誰かと誰かが恋人なんだってー、とか。
実はあの先生と先生は付き合ってるんだよー、とか。
最上級生のあの人とクラスメイトのあの子は血縁関係でー、とか。
そんな噂なら乗っかって行くこともあるが、流石に振った振られたの人の傷を抉るような話は遠慮願いたい。
まぁ……
懺悔するなら、『算術講師って髪の毛ちょっと薄いよねー』と発言したことはある。
やっぱりああいうのは良くなかったな、と反省。
本人が聞いたら傷つくだろうし。
そんな風に己の所業を省みていた時、何となく気づいてしまった。
休んでいる隣のクラスの子の事を言っているのだと。
身体の芯が一瞬で凍り付く感覚。
それまでの楽しい時間全てが幻だったかのように、美味しいご馳走が砂を
カーッと何とも言えない怒りが沸き起こってきた。
「……リタ。」
だがそんな自分の表情の変化を察したリゼが鋭い声で制止する。
正面に座っているから彼女の眉間に皺が刻まれているのがはっきり確認できた。
だが曲がりなりにも自分と親しくしてくれている同好の士をあんな風に嘲笑われて平気な顔でいられるわけがない。
自分一人が彼女を庇ったところで何が変わるわけでもないと分かっていたけれど。
「あんたには関係ない」
ピシャリと言われれば、ぐっと言葉に詰まる。
「リタの気持ちは分かるけれど、ここで騒ぐ方が迷惑かけてしまうかも」
隣に座るリナが耳打ちしてくるので、何とか冷静になることが出来た。
仮にこの下世話な話が本当の事だとして。
勇気ある行動を他人に馬鹿にされる筋合いなどどこにもない。
出来れば大声を上げて抗議したい、でも確かにリタ如きが何か声を上げたところで名誉が回復されるとも思えない。
むしろ事が大きくなれば迷惑……?
遥か遠くの上座テーブルにて静かに食事をしているラルフ達。
彼らの様子を伺い知ることはこんな末端の席では不可能であるけれど、騒ぎ立てれば彼の傍まで波及しかねない。
ラルフにとって嬉しい話ではないだろう、彼にも不快な想いをさせるかも……
「今日……講義終わったら、様子を見に行ってくるから」
憮然とした顔でそう呟くのがやっとだ。
それでもリゼは良い顔をしていないが、漸くできた『普通』の友人が落ち込んで休んでいるかも知れないというのに!
こんな不名誉な噂で馬鹿にされ、何もしないでいられようか。
「それで気が済むなら好きにすればいいんじゃない?」
勿論、リゼに言われなくてもそうするつもりである。
※
特待生として入学した彼女は、当然非常に頭が良い女の子だ。
黒髪お下げがトレードマークで、非常に庶民派。
学園生活に馴染めない様子ながらも、彼女も頑張っているのだ。
会えば笑顔で会話する関係性である。
仲良くなった一番のきっかけは、やはり聖アンナ生誕祭の後。
生誕祭での演目としてラルフと王子の合奏をした件で翌朝の寮食堂は持ちきりだった。
女子寮でのことで皆他の男子のことなど一切考えずに思い思いにきゃあやきゃあと騒いでいたわけで。
リタも是非ラルフの演奏のことで一緒に盛り上がりたかったのに、技術的な話になると全くついていけない。
内心うずうずしながらパンを頬張っていた時、ふと視線を感じて顔を上げた。
それがレミィと親しくなったキッカケだとよく覚えている。
何度か特待生同士ということもあり見知った関係だったが、まさか同じラルフのファンだとは思わなかった。
それはレミィも同じだったのか、『意外』と言われたものである。
ファン――同好の士。
相手が普通の男子生徒だったらただのライバルに過ぎない状態だが、何せ相手が相手だ。
もはやそんな感情はなく、同じ趣味を見つけた仲間同士の意識の方が圧倒的に強かった。
リゼもリナもラルフもことに一切興味がないので話も出来ないし。
いや、二人に好きになられたらそれはそれで大変困るのだけど。
「――ねぇ、レミィ! 体調大丈夫ー?」
コンコンコン!
リタの部屋と彼女の部屋は非常に近い。
特待生に用意されている部屋はリタ達にとっては不便なく必要なものが揃っていると感じるけれど、貴族のお嬢様達にとってはあまりにも狭苦しいものだとか。
お金持ち用の棟はこの部屋の数倍の面積があるらしいのだから驚きの事実である。
最初はノックをしても返事が無かった。
だが中で人の気配がするのは分かるので、リタは諦めずに幾度が扉を叩き続ける。
「もう、わかった、開けるから待って。
そんなに叩かないで! 扉が壊れちゃう…!」
のそのそと寝台から這いずる音と、心底勘弁してくれと言うテンションの低い声が返って来た。
いくら自分でも、ちょっと叩いた程度では扉を壊すことなど出来ない。
もしかして扉がへこんだのではないかと恐る恐る確認をしたが、頑丈な作りの扉は傷一つなくリタの前に立ちはだかっているままである。
良かった。
数十秒後経って開いた扉の向こうから、目の下に隈を作って陰の気を纏うレミィの姿が現れる。
「……どうぞ」
普段三つ編み二つでまとめている髪は下ろされたまま。
彼女に促され、部屋に入れてもらう。
きょろきょろするのは品がない行為だと自嘲するが、姉妹以外の寮部屋に踏み入ったのは初めての事。
間取りは同じだと分かっているのに、入居している生徒によって雰囲気が全く違うのだなと改めて再確認。
全体的に白とキャメル色の小物で統一された、落ち着いた色調の部屋。
勧められた椅子に座ると、彼女は肩にカーディガンをかけたまま――リタの正面の寝台の上に腰を下ろした。
ぽすっと、ベッドが軋む。
寮は二人以上の在室を想定していない作りで、椅子もテーブルも一人用のものしかない。
「なぁに、急に。もしかして私のことが噂になっちゃってた?」
彼女は自虐的にハハっと笑う。
参ったなぁと前髪を掻き上げる彼女の顔は完全に憔悴していた。
「本当のとこ、どうなの?」
あくまでも噂は噂だ。
当人不在で、勝手に流された噂を真実だなんて決めつけるつもりはない。
だがこの様子を見るに、火のないところに煙は立たないという『噂』の孕む真実性の一かけらを垣間見てぞっとした。
レミィが誰かに見られるような目立つところで告白をしたとも思えない。
……それでも、噂になるのか。
「………はいはい、完全にフラれました。
もう取り付く島もない、酷い話よ。
そりゃあ見た人がいたら面白おかしく吹聴しちゃうかもね、あーあ……
なんで私、あんなこと言っちゃったんだろう」
レミィは顔を覆って俯く。
その肩が小さく震えていて、リタは堪らず立ち上がって彼女の隣に座る。
泣いている人を間近にしてどうしたらいいのかなんて、そんな正解は誰も教えてくれたことが無い。
「あれこれ言う人なんかより、レミィの方が凄いと思うよ!
ただ見てるだけで、話すだけで満足して何もしない人より絶対勇気が要ることだもん。
からかう方が悪いんだし!」
「……。
ねぇ、リタ。――やめといた方がいいんじゃない?」
「……ん?」
彼女は急に顔を上げ、真剣な眼差しでこちらを見つめる。
潤んだ藍色の目には後悔と懊悩の色が混ざっていた。
「あの人、やっぱり私達なんかと生きてる世界が違う。
恋愛とかそういうの……出来ない人。
………ラルフ様自身、そんなの”どうでもいい”のよ」
急所にぐっさりと刃を突き立てられた衝撃。
彼女を励まし慰めに来たはず。
だが現実は非情で、返す刀で致命傷を負わされた。
しかも彼女はリタを傷つけようとしているのではなく、自身の経験からリタのことを想って忠告してくれているわけで。
……そんなの 分かってる
「それにあの人、優しい人だって思ってたけど……
そうじゃなかった!」
彼女はそう叫ぶと同時に、自分が言われた言葉をそのまま復唱する。
成程、あの人に険しい視線でそんな冷たい言葉で接せられたら……
リタだって大号泣するだろう。絶対に無理だって分かった上で告白するのだ。
でも彼なら普通に気持ちを受け入れてくれて、その上で相手を傷つけない断り方をするだろう。
そう思っていたからこそレミィも駄目で元々、玉砕覚悟で突進することが出来たわけで。
だがしかし、いくら同好の士と言っても言って欲しくない言葉はある。
「――ラルフ様は優しいよ!」
本来傷ついた友人を前にしたらまずは『共感』するものだ。
それくらいは分かっているはずなのに、好きな人をそう言われては収まりがつかずリタは噛み付くように言い返す。
「……だからそれは表面上だけだったのよ!
お嬢様達には優しいのかもしれないけど、私達のことなんか本気で何とも思ってないの!
優しい人が、あんな冷たい目で………っ……言うわけないじゃない」
実際に告白をした彼女がそう言うのだから、それを否定するのは非常に困難なことだ。
そう言われ、感じ、落ち込んでいる人に対して”そうじゃない”なんて相手を意固地にさせるだけ。
苛立たせるだけだというのに。
「私はラルフ様が好き!
そんな風にレミィに言われたって『じゃあ諦めるね』なんて言えると思う!?
忠告は有り難いけど、絶対、諦めるなんてないから!」
「……。
そんなに自信があるの?」
彼女はしげしげとリタの顔を覗き込む。
ベッドの端に、レミィと二人並んで座る。彼女がラルフだったら物凄くドキドキするシチュエーションではあっただろう。
そして今、別の意味でリタはドキドキしていた。
「自信なんて……あるわけないじゃない」
彼女の瞳孔の開きかけた目がホラー染みて怖いから!
「同じクラスだから? カサンドラ様が力になってくれるから?
……いいわねー、リタは。
そうね、望みがあるんじゃない? 少なくとも私よりぜんっぜん」
いいなぁと羨まれるとリタには何も言えなくなる。
どちらも自分自身の努力の結果、功績でも何でもないから。
たまたま同じクラス。たまたまラルフと同じ生徒会役員のカサンドラが――リタに協力して手間をかけてくれている……から。
「特待生だから生誕祭は制服だって思ってたけどリタは綺麗な服着てたね?
それにカサンドラ様のお家に招待されてたんだって?」
「あ、あれを貸してくれたのはデイジーさんだし……」
確かに自分はとても恵まれている。
あの服を貸してもらったおかげで、結果的に生誕祭の時にラルフと二人で話すことも出来て。
しかもカサンドラには自分が頑張ったら想いが叶うとずっと背中を押してもらって、何くれとなく世話をしてくれて。
カサンドラは自分達三つ子を誰かに重ね、その面影を想って色々善くしてくれているのだろうというのが三つ子の定説である。
きっと自分達に似た人間と過去何かあって、リタ達に親身になってくれているに違いない。
だがそんな説明をしたところで、レミィからしたらわけがわからない運の良い話というだけ。
「――リタばっかりずるいんじゃない?」
そう言われて、プチっと理性の糸が切れた気がした。
喧嘩をしにきたわけじゃない、追い打ちするためにこの部屋の扉を叩いたわけじゃないのに!
「私は! 私に出来ることを頑張ってるだけ!
マナー講座とか苦手だし、嫌いだし、逃げたいけど……
諦めずに頑張るって決めてるから! ちょっとでも近づきたいもん」
「無駄な努力になるから、諦めた方が良いって言ってるの」
ラルフという好きな人がいて。
彼に近づくために、実際の物理的な距離を縮めるのではなく礼法作法などの習得と言う迂遠な手段を用いているのは、彼女から見れば――
どうせかないっこないのだから、『無駄』なものなのだ。
「無駄だなんて言わないでよ。
私……生まれがこんなだし、隣には相応しくないのは当たり前でしょ。
少しでも隣に立てるようになりたいって、それだけ!
ラルフ様の見てる世界が見たいし、理解できるようになりたいだけだよ」
本当の本気で願いが成就するなんて御伽噺のような話を鵜呑みにしているわけではない。
だがカサンドラの言う通りに頑張るという目に見える継続と努力の形が、今のリタの感情を支えているのだ。
そういう目標でもないとこの感情が昇華できない。
少しでも前に進んでるっていう実感が欲しい。
「ねぇ、レミィ。
ずるいって言葉は、ずるいよ。
現状の自分のまま、気持ちをラルフ様に言うことを選んだのはレミィでしょ?
……その勇気は凄いと思う、私にはまだそんな勇気ないから。
でもさ、レミィ。
ラルフ様が遠い人だって分かってて、それでレミィはあの人に近づくためにどんな努力をしていたの?
世界が違うなんて、最初から分かってたじゃない。
それを埋める努力をしなかった人に、諦めないことを『ずるい』って言われるのは納得できない」
努力をしているのが偉いというわけではない、それが当然だと思う。
自分達は傾国の美姫のような美貌の持ち主でもないし、実は生まれが隣国の姫でとても身分が高いだとか、頗る気立てが良くて街でも評判なお嬢さんだったりとか。
ずば抜けた彼に釣り合うものを持っていない。
そんな池の中のメダカが、どんな鯉でも鰻でも自由に釣り上げることができる釣り人に掬ってもらえるわけがなかろう。
素のままの自分を好きになってくれなんて畏れ多くて、そんな傲慢なことを思うことさえ憚られる。
彼女の今までの話が正しければ、殆ど話もしていないようなラルフとは所謂顔見知りの段階のはず。
こちらが好きなのだから好きになってなんて、それはラルフも困るのではないだろうか。
「……。
もういい、リタ、話は終わったでしょう?
出ていって!」
ああ、傷ついた彼女を励ますんじゃなかったのか。
でも自分はラルフの事をどうしても良いように考えてしまう、彼の方に寄り添いたいと思ってしまう。
異性を好きになるとはこういうことか。
友情よりも、男をとってしまう……! 自分がそんな薄情な人間だったとは!
完全に彼女の部屋から追い出され、リタは廊下で四つん這いになったまましばらくショックで動けなかった。
こんなはずでは………
※
あまりにもあまりな結果に、リタは頭を抱えて悶々とする。
部屋に閉じこもって一人反省会をする気分でもない。下手をしたらリゼやリナがどうだったか聞きに来る可能性もあり、今の顛末をどんな顔で話せばいいのか分からない…!
寮の裏庭で一人膝を抱えて落ち込んでいた。
しかも落ち込んでいるのが、
『優しい人だって思ってたけど……そうじゃなかった!』
ラルフの事をそう非難された事が赦せなかった、そんな自分の思考回路。
おかしいなぁ、この間まで普通にラルフの事を話して一緒に盛りあがっていた間柄だというのに。
女同士の友情について少々儚みたくなる。
――彼は優しい。
違うと言われても、彼の事ばかり考えてしまう。
”わんっ。”
意気消沈している最中。
急にリタの頭に、もふっとした温かい物体が飛び乗ってきたのである。
完全に死角から、項垂れるリタの頭の上にぴょーんと飛び乗ってきた『何か』。
「わっ、なになに!?」
驚いたリタは逃げ出そうとするそれ――茶色い毛玉のような犬をがしっと両腕で捕まえた。
わんっ! わんっ! と威勢よく吠えるこの犬には見覚えがある。
「あれ? この子は」
「おーーい、待てーーー!
どこだーーー!
……お、ここにいたかぁ」
野太い壮年男性の声が聞こえ、リタはぬいぐるみのようにその犬を抱きかかえたまま硬直する。
わんっ、と茶色の犬は尻尾を左右に振りながら嬉しそうに吠え続けた。
見間違いでも記憶違いでもなく、この犬はあの日ラルフが医務室に連れて行ったあの犬だった。
「本来は動物禁止だからな、女子寮の皆には内緒にしといてくれよ。
――ラルフ様に世話を頼まれちまったからなぁ」
どうやらこの犬は怪我が治るまで男子寮の寮監が個人的に世話をすることになっていたのだとか。
怪我が治っても犬に情が移り、未だに寮の裏庭で飼い続けているそうだ。
「鎖が緩んで付け替えようと思ったら、まさか壁の穴抜けて女子寮まで来るとは。
はーー、見つかって良かった良かった」
彼は心底ほっと胸を撫でおろし、リタから茶色の毛玉、もとい犬を受け取った。
あの時ラルフの腕の中で硬直していたというのに、今ではこんなに元気でやんちゃな子になってしまったのか。
毛並みも艶々しているし、入念に世話をされているのが良くわかる。
「ラルフ様が……」
「あの方、毎朝こいつを心ゆくまで撫でていくからなぁ。
もし行方不明なんてことになったらどうなってたか」
おお怖い怖い、と寮監はおどける様な仕草で首を竦めた。
人懐こい茶色い犬が、彼の頬を興奮したようにぺろぺろ舐める。毎日餌をくれる人間に特別懐いているのだろう。
「怪我、治ったんですね。良かったです」
あの時はラルフの存在自体に気をとられていた。
どうなったのかなと聞けばいいのに、彼が傍にいると舞い上がってしまっていつも変なことばかり話している気がする。
今度会ったら、この子の話をしてみようかな。
「最初は何事かと思ったけどなぁ。
本当に動物が好きな優しい方だよ、ラルフ様は」
……ぐっと、唇を噛み締めた。
何気ない厳つい寮監の言葉に、思わず涙が零れそうになってしまったから。
人によって何を優しさと呼ぶのか、その基準はまちまちだと思う。
リタは彼の事を優しい人だと思う。
いつか告白して玉砕する日が訪れた時も――そう想っていたいのだ。
告白出来るだけの自信は、”努力”で積み上げる他はない。
全然 足りないんだ。
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