第94話 <リゼ>


 さて、今日が終われば明日から七月。

 いよいよ一学期最後の月で、ジェイクの誕生日と学期末試験が控えている。

 これは色々な意味でリゼにとって重要な一月になる事は間違いない。


 そんな午後の選択講義を確認し、リゼは首を捻った。



「……社交ダンス?」


 昼食後の移動を控え、しばらく考え込んだ。

 今までカサンドラのスケジュールに疑問を差し挟むことなく、彼女に指示を受けた通りに選択してきた。

 それによってリゼの毎日は大いに入学前とガラッと変わった方向に成長している現状。


 社交ダンスは確かに一回、二回くらい講義で受けたことがあった。

 まだ入学したばかりの頃のこと、相手の足を踏みまくって顰蹙をかった苦い思い出を脳裏に蘇らせる。

 その後リタの生誕祭に向けた『週末特訓』にリゼも参加させてもらい、一通りのステップは叩きこまれて現状に至るのだけど。

 社交ダンスを習う必要はなかったが、リタの身体を動かさないと死にそうだという訴えでそれも組み込まれることになったという曰く付き。

 それに付き合うこちらのことも考えてもらいたい。


 剣術の回数を一回減らしてまで、社交ダンスに参加しなければいけないとは…


 彼女カサンドラのことだから何も考えずに指示をしているとは思っていないが、今日の選択講義だけは違和感がある。

 どうにも一貫性がないというか、毎週必ず剣術講座を二回確保していたはずなのに……


 まぁ彼女にも何らかの意図があるのだろう。

 リゼが向かったのは校舎二階の北西、多目的ホールだ。


 社交ダンスは淑女の嗜みというし、卒業パーティは舞踏会という話も聞いている。

 この講義に参加することは全く無駄ではないのだし、カサンドラにスケジュールを指示された時に質問しなかった自分がうっかりしていただけ。

 今更疑問を持っても遅い。


 今回は彼女の指示に従い講座を受ける他ないのだ。

 元が真面目な性格だ。面倒だからサボるという選択肢は最初からリゼに備わっていない。


 だが遅刻ギリギリでの到着、ホールの扉を開けるのを少し躊躇った状況。

 リゼの心と体は全力でこの講義を受けたくないと言っている……!


 まだ体術や剣術の指導を受けている方がマシだ。

 まさか自分が何かと比べて運動をする方が良いと心の底から思う日が来るなんて思わなかった。


 ホールに入りあぐねていてもしょうがない。

 えいや、と勢いで扉を引いて中に入る。


 講義での社交ダンス指導ということで、制服のままの二十人近くの生徒が――


 ………ん?


 一瞬見間違いかと思ったが、あんな目立つ人物を間違えることなど出来はしない。

 磨き抜かれた床板のホール中心部、この場にいるのに全く以て相応しいラルフと話し込んでいる――

 大柄な赤髪の男子生徒の姿にリゼの思考が一瞬途切れた。



「えええ!?

 ジェイク様、なんでここに!?」



 午前中教室で彼の姿を見るのはもはや毎日の事として慣れてしまったけれど。

 今まで選択講義で顔を合わせたことなど一度もない。

 剣術講座など毎回選択しているが班分けが全く異なる別棟なので見ることも出来ない状態だというのに。


 何故……

 この学園の生徒で最もこの講義に参加しないだろうと思われるジェイクが……?



 社交ダンスが趣味なの?

 とてもそうは思えないのだけど?


 第一彼自身、かなり渋面でラルフの表情とは正反対。

 居心地が悪そうな倦厭感を隠そうともしない様子は、決して望んでここにいるわけではないと物語っている。


 あまりにも吃驚して声を上げてしまったから、当然参加する生徒皆の視線の集中砲火を食らって立ち尽くす。

 別にジェイクだって学園の生徒なのだからどれに参加しようが彼の自由。


 彼がここにいることに文句がある、そんな非難の声に聴こえてしまったのだろうか? だとすればかなり失礼な態度をとってしまったことになる。


 幸い、ジェイクはリゼの姿を見つけて軽く手を挙げた。

 よっと笑いかけてくる何気ない表情にドキドキしている場合ではない。


「まぁ、リゼさん。

 貴女もこちらに? ――珍しい偶然ですね」


 呆然と立ち尽くすリゼの横から、聞き慣れた声が掛けられる。

 思わず全身の力が抜けそうになるくらい、彼女の存在がただただ有難かった。


「カサンドラ様……」


 偶然というわけではないはず。

 だってリゼがここにいるのは、彼女の指示があったからだ。

 でなければ誰がわざわざ社交ダンスなんて剣術の次に自分に縁遠い講座など選ぶものか。


 学園側としては生徒の自主性に重きを置いているということで、他人に選択講座を管理されているなんて知られたら問題に発展するだろう。

 だから自分達三姉妹がカサンドラに組んでもらったスケジュールで講座を受けている事は誰も知らない。


 ……当然、ジェイクも知らないわけで。

 貴女が指示したことでしょう、なんて言うべきではない。


 彼女に話を合わせるのが良いのだろうと判断した。


「ええ、この間リタに付き合わされたじゃないですか。

 そのまま忘れるのも勿体ないかなって」


 出来れば今すぐにカサンドラに質問の矢を浴びせたかった。

 自分の把握できない、理解できない状況であることがとても落ち着かない。


「それは結構な事ですね」


 にこにこと微笑むカサンドラの表情を見るに、今の受け答えで正解だったのか。

 他の女生徒はもとより、ジェイクやラルフ達も特に不審に思われていないようだし。





 ――定刻になりましたので始めましょう、と講師が手を叩きながら皆の前に歩み出る。

 すらっと長身の女性で厳しそうな雰囲気。

 カサンドラの館でお世話になったコンラッド夫人を思い出す、そんな容赦のない性格がにじみ出ているような講師であった。


 ホールに呼ばれた数名の弦楽器奏者が部屋の奥で各々の楽器の調律を始めているのがチラっと視界に入る。

 こんな一講座のために、音楽隊まで常備しているとかこの学園絶対おかしい!


 誰も疑問に思っていないのかも知れないが、リゼには全く効率性の問題などにおいて納得できないものである。


 そんなことよりも、と。

 チラチラとジェイクの方向を窺ってしまうのはしょうがない。


 この場にいるお姉さま達は皆ラルフ目当てだろうというのは何となく分かる。

 彼の興味関心があるだろう講座に参加すればどこかで幸運にも同じ部屋にいることができる、そして座学でない実技ならこうして話も出来たりするわけだし。

 それは羨ましい限りだ。


 ジェイクのように普通のお嬢様では全く以て存在さえ垣間見れないような状態ではないのだから。


 それでもジェイクの姿を物珍しそうに眺めているのは一人や二人ではなかった。

 



「それでは――まず初めにこちらのお二人に『お手本』をお願いしましょう」



 社交ダンスは一人で踊るものではない。

 相手があってのもので、当然男女がペアになる。

 しかも男性と女性では振りも変わってくるので、当然女性パートしか覚えていないリゼにはそちらしか踊れないわけだが。



 ホール中央に向かい合わせで立つのは、ラルフとカサンドラの両名である。

 この中ならその二人の組み合わせしか思いつかないよねと誰もが納得してしまう。


 彼女が参加していなかったら自分がラルフ様と……と思っている上級生も多いだろうけれど。

 そういう本音を押し殺し、表面上は穏やかに見守ることが出来るようだ。


 ラルフの周囲にいる令嬢にそういう傾向があるとするなら、ジェイクの周囲にいる人たちってミランダを筆頭に実力行使に出る人ばっかりなんじゃないかという一抹の不安に駆られる。



 講師が合図をすると、ホールの中に静かにクラシックの円舞曲が流れる。

 同時に、流れるようにラルフ達は動き始めた。

 ざわっと空気が揺らぐのをリゼも感じ取ってしまう。


 確かにここは殺風景なホールで、そして彼女達が着ているのは普通の夏制服で。

 ――にも関わらず。

 音楽に合わせて二人で手を取って踊る姿をまじまじと見ていると、まるでここが宮殿のダンスホールで豪華絢爛なドレスを纏っている錯覚に陥る……!


 というか二人とも外見が麗しく人目を惹くもので、素のままで十分ゴージャスな組み合わせである。

 音楽に乗ってスムーズに踊る彼らの姿に、リゼも息を呑んで見守ってしまう。


 お互いに見つめ合って微笑みを絶やさず、上品かつ優雅なステップ。自分なら絶対に踏み間違えそうなターンも華麗だ。





   うわぁ、これはプロの仕事ですね……




 流石生まれた時から大貴族のお嬢様であるカサンドラの格は違う。

 その他の有象無象の女生徒など一切寄せ付けることのない、堂々とした態度。

 あまり人に囲まれて中心にいる姿は見ないが、そういうところは孤高というか気高いと思う。



 ……何で自分は、いや、自分達はこの人にここまで肩入れしてもらっているのだろう。

 まさに別世界を演出する二人の舞踏をぽへーっと眺め、思考が混迷の渦に沈んでいく。


 あの人、わざわざ社交ダンスの選択講義に出る必要もないのでは?

 とても洗練された所作に見えるのだけど、ラルフのように好きでこういう系統の講座に関わる人にも思えない。

 ジェイクにせよ、カサンドラにせよ。

 偉い人の考えることはよくわからないなぁ、と首を捻った。


 臨場感を演出する、室内に反響する弦楽器の合奏が十分に盛り上げてくれる。


 だが一曲は短く十分にも満たない出来事だ。

 あたかも舞踏会場で踊っていたのかと錯覚させる雰囲気の二人の幻影がフッと消失し、その場の生徒達は彼女達に惜しみない拍手を送る。


 しかし今のをお手本にして自分も踊れと言われたら、凄く困るのだけど。

 この講座に参加している男子生徒はラルフとジェイク以外にも六、七人。


 顔も知らない男子生徒と組み合わされて、また足を踏んだら……とリゼの顔は少し青白く染まる。

 リタ程粗忽ではないと普段思っているけれど、ダンスに関しては別だ。

 今ではリタの方が絶対に上手に踊れる、身体を動かすことにかけて彼女に敵うとは思わない。


 一通りそれなりに齧りました程度のリゼが、この場を無難にやり過ごすことが出来るのだろうか?

 それも同じ空間にはジェイクもいるのだ。


 自分が相手に迷惑をかけている姿を見られるのは大変恥ずかしい。

 お腹が痛くなったことにしてこの場を辞そうかと一瞬考えてしまうくらい胃が痛かった。


 ペアとなる相手と踊り、それを講師が注意事項や直したところがいい箇所、客観的な視点での指摘をしてくれる。

 その後ずっと流れ続ける曲を背景に練習を繰り返すことになる。


 ラルフもカサンドラもそんな指摘など必要がないくらい完成されていて、更にここにいるラルフを追いかけるように参加しているお姉さま達も当然社交ダンスはお手の物だろうし。


 本当に自分が場違い過ぎてヤバい。


 ラルフに挨拶をした後、カサンドラはジェイクに向かって何事か話しかけていた。


 今度はジェイクと一緒に踊るのかな? と、リゼはそのことに何一つ疑問を感じなかったし、ラルフと一曲踊ったから次はジェイクとという流れは周囲の女生徒達も気に留める風でもない。


 ここまでくると羨ましいとかそういう感情は湧いてこない。

 そもそもカサンドラは王子の婚約者で、そこにリゼが抱えるような感情が乗っていないことが分かっているからだけど。

 もしカサンドラが彼らと同じように婚約者のいないお嬢様だったら、きっとこの状況は気が気ではなかったに違いない。


 逆に一体どんな風に二人が躍るのか少々興味があって、自分は待機したまま眺めていたい気持ちになった。


  

 どうせ自分に声を掛けてくる奇特な男子生徒などいないだろう。

 女子生徒の数が多いのは一目瞭然、自分はあぶれるかも。

 これならジェイクの姿を盗み見る事が出来るかも知れない。



 そう思い表情が明るくなったリゼの傍に、急に誰かが歩み寄ってきた。

 こんな一般人に、社交ダンスを選択するような貴族の令息が何の用だと訝しがって視線を向ける。



「――リゼ、俺と一緒に踊らないか?」



 ………はぁ!? リゼは自分に声をかけたらしき人物がジェイクであることに気づいてしまった。

 思わず彼の姿を二度見三度見し、混乱の際に立って目をぐるぐる回す。

 


「ジェイク様!?」



 何故!

 いや、そりゃあめちゃくちゃ嬉しいですけれども!


 カサンドラと一緒に踊るとばかり思い込んでいたリゼは、まさかの誘いにちっとも冷静でいられなかった。

 普段ジェイクに対し積極的に絡んでこようとしないラルフ狙いのお姉さま達も、突然のジェイクの申し出に驚いてポカンとこちらを見ている程。


 これはちょっと不味いのでは?

 何の気まぐれか知らないが、軽い気持ちでダンスの相手をしろとジェイクに声を掛けられたとか……

 変な風に伝わって行ったら、ろくなことにならないのでは。


「な、なんでですか?

 私じゃなくても……」


 すると彼は大変予想外な台詞を大真面目な顔で言い放った。



「だってお前、この中で一番下手だろ?」



 あっけらかんと、悪びれた風もなく。


「え? あ、はい……それはそうかもしれません……けど」


「上手い奴と踊るより下手な相手の方が、腕が分かりやすいって奴だ」


 要するに令嬢達に紛れて一人ぽつんと立っている一般人相手にそれなりに踊れるなら、それだけ技量も高いという理屈だと?


 ……何故この講座でダンスの腕を披露する必要があるのかまでは理解できないが、周囲の女生徒は「まぁ、ジェイク様ったら、遠慮がないのだから」と可笑しそうに笑みを含ませる。


 そりゃあ公衆の面前で一番下手だなんて言われて嬉しい人はいないと思う。


 下手だからスキルを磨くために講座を採っているのだ、下手だという理由で馬鹿にされる謂れはないと噛み付きたい。

 もしも声を掛けたのがジェイクではない別の人だったら足を踏んづけてやろうかと思うところではあるけれど。




   ……でも今ほど社交ダンスが得手ではなくてよかったと思った事はありません……! 




 結局のところ、ジェイクと踊れるのなら些末な問題だ。

 しかも指名の理由がただ単に下手だからという理由なら誰かに妬まれる心配も皆無だろう。

 いっそ哀れまれそう。







    これ 幸運の数え役満状態だ。







 ※






 石像のようにガチガチに固まって上手く身体が動かせない。

 ただの紳士淑女の必修課題、貴族社会に生きるのならこんなものはただの挨拶、挨拶――……!


 さっきもラルフとカサンドラが優雅に踊っていたけれど、当然ラルフの片腕はカサンドラの腰のあたりに平気で触れ身体を支えていたわけで。

 それが普通……!


 分かっていても、今までそういう世界と縁のなかった一般庶民にはハードルが高すぎる。

 しかも相手はダンスを教えてくれる講師でも年配のオジサンでもなく、ジェイクだ。


 ……え? 本当に?


 曲が始まると、涅槃へ旅立っていたリゼの思考が現世に帰還する。

 心臓の音がやかましい、これでは上手く聞き取れないじゃないか。


 だが、周囲のペアが動き出すのと同じく、ぐっと身体が引き寄せられる。

 近い! 近い!

 悲鳴を出さないようにするのが精一杯で、何で皆澄ました顔で異性のクラスメイトと踊れるのか不思議で仕方ない。

 もっと皆、パーソナルスペースを大事にするべきでは? 何て意味のわからないことを考えるリゼ。


「おい、ちゃんとこっち見ろ。

 マジで転ぶぞ」


 正面からそう忠告を受けたのだからしょうがない。

 何とかふらつく足元に意識を集中させつつ、顔を上げた。


 今、手を繋いでるんだ。

 顔が真っ赤になるくらいの羞恥に身悶えそうになるけれど、そんな自分を叱咤する。


 落ち着こう。

 これは、ただの講義の一環だから。

 ただの教養の一つで、いちいち動揺して動きを緩めて彼に負担をかけ続けるわけにもいかない。


 足を踏むのはみっともない、彼の顔が近いのも恥ずかしいし、触れる箇所を意識するだけで脳内が沸騰しそうになる。

 でも一番情けないのは――



  真面目に取り組まないことだ。



 これが一つの課題だとすれば、いつまでも馬鹿みたいに呆けていただけで終わってはいけない。

 絶対後悔する。


 ここにいるのがリゼじゃなかったとしたら、彼は普通に別の女生徒とこんな風に手を繋いで踊るのだ。

 お城の舞踏会で多くの令嬢達と一曲踊るのだろう、それは当たり前のように。

 不埒なことばかり考えている場合ではない、これは授業だ。

 


 心の中で己の頬を引っぱたいて、リゼは口元を引き締める。

 ダンスの腕がどうこうとさっき話していたけれど、確かに彼のリードは凄く自然で足元が覚束ないリゼの動きをフォローしてくれる。


 絶対足踏んだ! 今踏んだ!


 そう顔が引きつりそうになる時も、彼はひょいっとそれを避ける。

 まるで自分が一か月前より凄く上達したんじゃないかと勘違いを起こすくらい、身軽に動ける。


 きっと彼は物凄く動きづらいと思う、さっきカサンドラを相手に踊っていたラルフとは雲泥の差の状況。

 でも彼はちっとも不快な顔をすることもない。

 自由に足を動かせてくれ、上体の軸が崩れないようにしっかり支えてくれる。


 恐る恐るという感覚が消えた頃、紅潮するのが違う意味を持つ。

 自分の力ではないけれど、誰かにリードしてもらって踊るのは良い気持ちだった。


 楽しいなぁ、と表情が明るくなる。

 こんなド素人をここまで”それなり”に踊らせてくれるのだ、そりゃあこの人は上手いのだろう。


 意外性のせいか、今目の前にいるジェイクが更にカッコ良く見えてしょうがない。 





 ――そんな夢のような時間も終わりが訪れる。



 あっという間過ぎて、夢から覚める瞬間にどっと寂しさが押し寄せてきた。

 指の先が震え、まるで蝋燭の火が掻き消えた後のような喪失感を覚える。


 曲の切れ間で皆も一旦動きを止めた。

 間奏が流れホール内にリラックスした雰囲気が満ちる中、リゼは一人心の中で大騒ぎ中だ。


 足こそ踏まなかったものの、あまりにも下手で呆れられたかもしれないなぁ。

 でも恥という概念をかなぐり捨て、自分なりにやりきったつもりだ。


 ……そもそも踊ったというよりは、踊らされていたという表現の方が近いのかもしれないけれど。




「大分身体の使い方がしっかりしてきた、体幹良くなってるな」


「……そ、そうですか?」


 ジェイクはダンスを褒めるというのとは違い、全く違う視点で感心してくれた。


「細かいところはそりゃ全然だけど。

 軸がしっかり立ってるとこっちは楽だな、すぐにカサンドラくらいには動けるようになるんじゃないか?」


「それはないです、ないない」


 物凄いことを言ってくる。

 大げさすぎて聞いているこっちが畏れ多いのでからかうのも大概にしてもらいたいものだ。


「最初と比べて体力もついただろ? 今だって疲れもしてない」


「一曲くらいですし……」


 そう両手を横に振りながら、ふと入学当初を思い返す。

 確かにあの体力の全然ない頃では、一曲踊っただけでへとへとになって蹲ってそうだ。

 着実に運動系が苦手ではなくなっているのが分かって、リゼは嬉しい気持ちになる。


「そっちの手、ちょっと開いてみろよ」


 そう言われて右手をジェイクの前に差し出す。

 彼はリゼの手首を掴み、動揺に言葉を失うリゼの掌を指差した。


「これだけ肉刺まめも潰れてるしなぁ。

 ……根性あるな、ホント」


 あんなに模造剣を握って振り回していれば肉刺の一つや二つ出来るのは当たりまえのこと。

 だから潰れてしまって「あーあ」と思うことはあっても特に意識することはなかったのだけど。


「結構痛かっただろ、これ」


 そう言ってジェイクの指の腹が掌をなぞる。

 一瞬のことに、リゼの背筋がぞくっと戦慄わなないた。



 それは不快なものではない、今の今まで”講義だから”と必死で抑え込んでいた己の感情が一気に飛び出し思考を覆う。

 カァァァ、と心の最奥から這い上ってくる恥ずかしさ。




「来週も――フランツさんに鍛えてもらいます。

 組手の約束、忘れないでくださいよ!」



「さーて、いつになるんだろうな」


 彼は悪戯っぽい表情。子供のような顔で愉しそうに笑う。





 彼の手が離れる。

 固く大きな指が、厚い掌が、その体温が離れていく。


 今の感情を『切ない』というのだろうか。










 知らなかった。

 ――好きな人と手を繋ぐとこんな気持ちになるなんて。





 

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