第93話 放課後奇想曲


 まさかアイリスからこんな大層なものを頂いてしまうとは。

 ただ彼女の窮状を王子に訴えただけで、こんな物品を得ていいものだろうか。


 アイリスが帰った直後も「うーん」と腕組みをして悩んだが、これは王子も一緒に観劇できる催しなのだ。

 別にカサンドラ一人だけが楽しむわけではない、と自分に言い訳する。


 もしも王子に提案して彼の趣味ではないことが感じ取れたら、その時点で一緒に行くことは諦めよう。



 折しも今日は月曜日、更に現在は王子と会うために待機中。


 朝、彼の机にしのばせた手紙にはアイリスから譲ってもらった観劇権の話を敢えて書いていない。

 彼の事だから興味のないことであっても、婚約者カサンドラから誘われたなら気を遣ってしまうかも。嫌でも「行こう」と頷いてしまうかも知れないのだ。

 手紙ではその反応が分からない。


 わざわざ貴重な時間を使わせ、カサンドラだけ観劇を楽しむなんて流石に申し訳ない。

 アイリスのために奔走してくれただろう王子が一瞬でも浮かない様子だったら取り下げよう。


 その反応をちゃんと確認するためにも、顔を合わせた時に提案しようと思った。

 やはり自分は王子のこと、とりわけ何を好み何に興味があるのかよく知らないのだなぁ。


 ……もしもここで反応が芳しくなければ、王子は劇があまり好きではないということで結論付けよう。心のメモ書きが一つ増える、それだけだ。


 そわそわして仕方ないが、こういう時に限って王子に用事があって会うことが出来なかったなんてよくある話だというのに。

 期待ばかりが先走って落ち着かない。


 別に急ぎの用と言うわけではないのだが、カサンドラとしては千載一遇の一緒のお出かけのチャンス。


 しかも観劇に招待されたのは『二人』なので、仮に護衛でジェイクやら見知らぬ騎士やらが着いてきたとしても、建物の外か少し離れたところで待機することになるはず。


 少し薄暗くひんやりとした空気の劇場の中で、役者の動きが良く観える場所に王子と並んで座ることが出来る。

 想像したら物凄くときめくシチュエーション。

 誰もいない物寂しい中庭で、カサンドラは一人勝手に心を忙しくして落ち着かないまま過ごしていた。


 ここで閉門の時間まで待ちぼうける事になったら本当に目も当てられない状況と言えた。



「――今日も待っていてくれたんだね、カサンドラ嬢」

 


 カサンドラの姿を見つけて呼びかけてくれた王子の声に、思わず左胸を掌で押さえる。

 良かった、ちゃんと来てくれたという安堵感に全身の緊張が弛緩してしまいそうだった。


 ごきげんよう、と挨拶を返すと真っ白な夏服のシャツ姿の王子が颯爽と現れる。

 慣れた慣れたと思っていたが、本当に何を着ても似合う人だなぁとつい感心してしまった。

 左胸のポケットに校章が刺繍された、学園の在校生しか着ることのない服。

 シャツの色にも負けないくらい白い肌は日焼けの痕さえない。


 今日も暑かったですねなどと言葉を繋げ、逸る心を抑えつけてアーサーがベンチに座るのを待った。

 ベンチは二人掛けのものが二つ並んで設置されていて、彼はカサンドラが座っていない方のベンチに腰を下ろす。

 人一人以上の距離があるが、一緒に並んで講義を受けていたように今にも腕が触れそうな状況では話などまともに出来ないだろう。

 結果的には、程良い距離。


「……シャルローグ劇団? アイリス嬢が?」


 彼もまた、あまりにも唐突過ぎるアイリスの返礼に虚を突かれた様子である。


 もしも眉を顰めかけたり、反応が芳しくなかったら速攻でこの提案は却下しよう。

 そう決めていたカサンドラは、今までになく集中した眼差しで彼の眩しさを掻い潜り。

 彼の顔を真剣な面持ちで見つめる。


「本当に私が行っても良いのだろうか。

 ……カサンドラ嬢が受け取ったものだろう、他に誘いたい友人がいたら申し訳ない」


「わたくしは是非王子と一緒に観に行きたいのです。

 アイリス様とレオンハルト様の代わりということでもありますし」


 おっといけない、つい本音が先に出てしまった。

 建前の理由より先に、感情が先走ったのは……

 王子の反応が想像以上に嬉しそうで、彼の青い目がキラキラと輝いたように見えたからだ。


「日程を教えてもらえるかな?」


 アイリスが帰宅した後、招待状を穴が空く程凝視していたカサンドラは既に文面を一言一句違わず記憶に刻み込んでいる。

 観劇の招待状なんて初めて見るという物珍しさも手伝ってのことだが。

 中央貴族の、それもヴァイル公の関わる特権に素直に吃驚だ。


 日付と時刻を彼に伝える。

 すると王子は校章の縫い付けられたポケットから一枚の紙を取り出して広げた。

 それは縦に長く、チラっと手許をうかがうと予定表のようだが……


 ――豆粒のような小さな文字がびっしりと埋め尽くす予定表に、カサンドラの目が危うくポンっと飛び出してしまうところだった。


 果たして一つ一つの用件がどのようなものかまでは読み取れないが、一生徒の持っていい予定表ではないことは分かる。

 アーサー王子と放課後に会えてもすぐに時間を気にして立ち去ってしまうはずだ、と今更納得した。

 多忙過ぎないですか?


「うーん……

 午前に………まぁ、シリウスに代行を頼めば……」


 彼は顎に指を添えたまま小声で呟く。

 そんな姿を見るのは初めてだったので、カサンドラも固唾を飲んで見守るだけである。


 こちらが誘ったことをはっきりと断るようなことはせず、曖昧な表情で茶を濁される可能性を考えていた。

 だが杞憂だったようだ。


「大丈夫だと思う。

 カサンドラ嬢、私も同行して良いだろうか」


「あ……ありがとうございます!」


「――?

 お礼を言うのは、誘ってもらった私の方では?」



 カフェに誘った時もそうなのだけど。

 案外王子は色んな事に興味があるのかも知れない。


 普段誰に対してもフラットな態度で、ともすれば『八方美人』と言えなくもない立ち振る舞いを常とする。


 彼自身の才能も豊かで、何でも難なくこなす器用さを持つ王子。

 ――本当はあらゆることに退屈して世の中を倦んでいる系で、退廃的思考を抱えているのでは……

 そこを悪魔に突かれるのでは、という心配さえしていたカサンドラ。


 だけど目の前の少年は、いつもの笑顔にプラスするように嬉しそうな表情を浮かべている。

 とても人生に退屈している感じには見えないし、何より喜びを隠しきれない様子が――


 年相応の少年っぽくて、可愛いと思う。




 一緒に観に行けたらきっと彼も楽しいだろうから、カサンドラも絶対楽しい。

 ああ、そうだ。

 


 またカフェに誘ったら一緒に来てくれるかな?






 ※





 王子が快く同行してくれることになった。

 その事実にカサンドラは浮き浮きと高揚した気持ちのまま校舎の玄関ホールに向かって廊下を歩く。

 気を抜いたら自然とスキップしてしまいそうだった。


 夏休みが始まったら王宮舞踏会で王子と踊れ、しかも翌月には連れ立って観劇に行くことが出来る…!

 図らずも充実した夏休みになりそうで、今から楽しみでしょうがない。


 早速アレクに報告してこの喜びを彼にも押し付けて共有してもらうのだ。

 彼の溜息が聴こえた気がしたが、今のカサンドラが王子との関係を赤裸々に相談できる相手は義弟のアレクだけ。

 義弟の優しさと気遣いに甘える形になっているが、彼曰く『一人で悩まれて勝手に落ち込まれて勝手に自棄になられるよりマシ』らしい。


 血の繋がらない五つも年下の少年相手に何を言ってるんだという躊躇いや恥を感じたのはもはや過去の事なのである。




 機嫌よく鼻歌でも口ずさもうかと思ったカサンドラの耳に、急に聞き慣れない女生徒の声が飛び込んできた。

 人影の少なくなった放課後、一体誰だろう?


 廊下の窓から見える木陰の下。


 一人の男子生徒と一人の女生徒が向かい合っているのを発見した。

 『告白してるみたいだな』なんてフフッと一瞬笑みがこぼれたのだけど。





   「――ラルフ様、好きです!」

 




 畳みかけるように言葉の槍に突き刺され、驚き戸惑うカサンドラ。

 別に通りかかった自分が悪いわけでもないのに、何故か壁際に背中をつけてこっそりとその様子を覗いてしまう。


 息をひそめ、「!?」と動揺が言葉に表出して気づかれることのないように。


 なんだって下校途中にこんなシーンに巡り合わないといけないのか。


 幸運の直後に不運を被せて来るとは、女神様も粋な計らいをしてくれる。

 ……簡単に幸せな気持ちで家に帰してやるものかという底意地の悪さを感じずにはいられなかった。


 もうこのまま忍び足でこの場を去ろう。

 そう思っているのに、下手に靴音を響かせて彼らに感づかれたら超気まずいと足が踏み出せない。


 それにしても――

 この学園でラルフに告白をしようなど凄いことを考える女生徒もいたものだ。

 好奇心に負けて少女の姿をそっと確認する。


 隣のクラスの特待生か。

 難関試験に高得点をとって合格し、王立学園に通う権利を得た一般庶民。

 立場はリゼ達と同じであろう。


 普通の女の子なのだ。

 好きになった相手を呼び出して、告白。


 凄いベタなシチュエーションではあるが、その勇気は褒め称えたいとカサンドラは心の中で拍手した。

 本来こんな堂々と告白なんかしたら彼の取り巻きのお嬢様達に囲まれて罵詈雑言を浴びそうなものだが……



「――ありがとう」 



 だがしかし。ラルフは爽やかに微笑んでそう一言返すだけ。


 そこは相手が普通ではないわけで、特待生の煙に巻かれたような表情を見ているとかなり可哀そうになってくる。


「え、あの……」


「僕に用事って、それだけかな?」


 彼はケチのつけようのない素晴らしい笑顔とともに、凄まじく残酷な事を平気で言う。

 そこに一片の誤解さえ生じないような対応にこっちの心が抉られる。

 普通の女の子の勇気ある行動を何だと思っているのかと殴り込みにいきたいところだが、それは分別がない行動だ。


 これは仕方のない事だ。


 もしも自分が特待生のように貴族でも金持ちでも何でもない”普通”の生徒だったなら……

 王子に精一杯の勇気で告白したとして、同じような対応をとられていたに決まっているのだから。

 好きだという言葉さえ、彼らには届かない。


「ええと……その、付き合って……いただけませんか?」



「…………。

 ごめんね、それは出来ない。

 僕には――相手を選ぶ権利がないものだから」




  好きです、付き合ってください。




 青春時代の恋愛って普通はそれから始まるものだと思うのだけど。

 そういう過程をすっ飛ばしているカサンドラの立場が普通じゃないのだと、改めて認識させられる。


「どうしてですか?

 恋愛くらい、自由でいいじゃないですか! クラスの皆も婚約者だ許嫁だって……

 親の言いなりで相手を決める人ばっかりで、何だかおかしいです!」



 平民感性攻撃が留まることを知らず、カサンドラはどうにも気になって喉を鳴らして話の行く末を見守ってしまう。

 カサンドラも彼女の言わんとすることも分かる、なんだって親の言いなりでまるで操り人形のように諾すしかない、いいところの長男長女たちの姿は異様にも映るだろう。

 そこに隔たる壁は分厚く高いのだ。




「僕達の事を想ってくれるその気持ちはありがたい、それは本当。

 でもね。

 仮に自由に相手が選べたとしても――僕は君を選ばないから、同じことだよね?」



 彼は表情を一切変えることもなく、優しい口調で諭すように言う。

 その言葉の意味は残酷で、酷薄な現実を突きつける。



 絶句した少女が、呆然とその場に立ち尽くす。

 そこまで辛辣な言い方があるのだろうか、と思うが……

 僅かでも希望を持たせるような言い方は彼女にとって良い事は一つもないわけで。


 この学園には長男長女だけではなく、家督を継げず平民として生きる道を余儀なくされる男子生徒も多くいる。相手が彼らなら、また違った反応だったかもしれない。


 正式な相手の決まっていない生徒が、入学当時にあった揉め事のように――恋人をとっただとらないだと掴み合いの喧嘩に発展していく色恋沙汰問題を引き起こすことがあるのだから。


 少なくともがっちりと周囲を固められた令息令嬢相手に正攻法でぶつかっても、結局はこんな対応をとられてしまうだけ。

 この世界でのそんな”常識”を打ち破ることが出来るのが『主人公』という存在なのだ。


 まぁ、仮にこの少女を気に入ったなんて素振りを見せようものなら彼女を身の危険に晒しかねないわけで。

 ラルフの言葉は正しい対応なのかも知れない。

 でも、つい耳に入ることになってしまったカサンドラの心を烈しく抉る。


「………っ!」


 女生徒が泣きながら走り去る姿を横目に、カサンドラは完全にこの場を離れ玄関ホールから出ていく機会を見失ってしまった。

 何事もなかった体を装って、このまま通り過ぎればいいのだろうか……


 困った、と壁に背中をもたせたまま姿を隠す。

 少し呼吸を整えた後、もう一度窓から校舎裏を覗きそこにいるだろうラルフの様子を確認しようとした。


 だが既に彼の姿が見当たらな――



「覗き見かい? 良い趣味だね、カサンドラ」



「……ら……ルフ様!」


 怖い!

 急にいなくなったと思ったら、カサンドラの進むべき方向からスタスタ近づいてくるラルフの笑顔が凍り付く程怖い。


「べ、別に覗いていたというわけでは……」


 たまたま告白する少女の大きな声が聞こえてしまったのだからしょうがない。

 無視して見なかったことにして立ち去るのが最善だったが……

 他人様の告白シーン、それも知人に向けてのものだったらどんな対応するか気になってしまったのは事実!



   好奇心は猫を殺す。

 


 完全に現場を取り押さえられてしまった犯罪者の心持で、カサンドラは笑顔を引きつらせ視線を斜め上に。



「別にどうでもいいことだけどね」


 だがラルフは気分を害しているわけではなさそうだ。

 しれっとした顔でそう嘯くのにとどめる。


 彼の綺麗な金髪が傾きかけた陽を浴びて煌めいた。一つにまとめてくくっている姿は彼のトレードマークの髪型。

 髪をくくる飾り紐は日によって色や素材が違うので結構お洒落さんだと思う。



「先ほどの特待生の方とは親しいのですか?」


「親しいとまでは言わない、数度選択講義で会ったことがある程度だから」


「さようですか」


 そんな状態で呼び出して告白を決行するとか、若さゆえの勢いって凄いな。

 でも一度付き合ってみないと分からないから! と見切り発車で告白する年頃の男女なんて珍しくもないか。

 相手が相手だからしょうがない。玉砕覚悟で、実際に玉砕した。それだけの話だ。


「まさかあんなお嬢さんにまで、不自由さを憐れまれてしまうとはね。

 ――心外だよ」


 彼は少し眉を顰め、剣呑とした表情を見せる。

 吐き捨てるとまでは言わないが、あの子の言葉は彼の心のささくれ立った部分を撫でてしまったのかも知れない。


「恋愛が素晴らしいものだなんて、勝手に押し付けられても困る」



 それは負け惜しみでもないものを妬んでいるのでもなく。

 彼の恋愛観がネガティブなものだと伺わせるに足る物言いであった。




「………。」



 反応に窮するカサンドラに気づいてしまったのか、彼は苦笑を浮かべる。 



「君に言うことではなかったかな」



 まぁ、散々王子に対しての感情を吐露した相手に「恋愛なんかくだらない」的に否定されるのは決して気分のいいものではない。

 だが彼側に事情があることも分かっているので、じれったさも感じる。



 ……恋愛至上主義のラルフのお姉さんが現状不幸な身の上に置かれているのは、彼にとっての事実なのだろうし。






「確かに恋愛が全て素晴らしい結果を齎すとは思えません。

 嫌なことも、悲しいことも、辛いことも全部込みでの感情ですし。

 ラルフ様のお立場上、面倒だと思われる気持ちも承知しております。


 ですが誰かを好きだと思えることは、他で得られない幸せでもありますから。


 いつかラルフ様にもお分かりになる日が来ると良いと、わたくしは心からそう思っています」





 励ますつもりは一切なかったのに、真顔でそんな事を言ってしまった。

 別に今のカサンドラは彼の身内でも理解者でも何でもない、ただの一クラスメイトだというのに。


 でも一度口にした以上、謝るのも変。

 奇妙な空白の時間が二人の間に流れ、その重たい空気に耐え切れず逃げ出した。



 思った事を口にしてしまうのは悪い癖だ!

 彼らの与り知らぬところで『事情』を知っている、そんなことを仄めかすような言動は慎むべきではないか。

 ジェイクにも散々間諜使ってる疑いを掛けられているのに、ラルフにまで疑われたら大変困る。






 ――いつか、か。その時は意外と近い。




 彼の心の色を変える存在がリタであればいい。

 見守る事しか出来ない事が、やっぱりもどかしいと思う。

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