第92話 アイリスの来訪


 日曜日、カサンドラは午前中のダンスレッスンを終え心地よい気持ちで午後の自室でゆっくりと過ごしていた。


 懸念していたほどダンスのカンを取り戻すのは難しい事ではなく、次の社交ダンスの選択講義まで十二分に他人に披露するに堪えうる水準に達したと思う。

 そもそも社交ダンスは自分だけの力で上手くなるのは限界があり、パートナーがあってのことだ。


 互いに基本を習得した上で、相手と曲に合わせる。一期一会の相手にステップで応え、華麗に踊ることが相手への礼儀のようなものだ。

 どちらかが物凄く下手で足がもつれるようなことがない限り、カサンドラもちゃんと相手に応えることが出来るだろう。


 ――王子と踊るのは、とっても緊張するけれど!


 心臓がドキドキするのと同時に胃もキリキリ痛くなる。

 衆目の前で王子と一緒に曲に合わせて踊る自分をイメージしただけで落ち着かない。

 そのそわそわした気持ちを静めるため、部屋の中でつい反復横跳びをしたくなるくらい意味の分からない心境に陥るのである。

 こんな状態では、社交ダンスの練習よりも王子と一緒にいる空間に慣れた方がよっぽど善後策になるのでは?


 そんな風に心さざめく午後だった。



 カサンドラの部屋に使用人が訪れ、予期せぬ来客を告げたのだ。



「……なんですって、アイリス様が……!?」



 社交ダンスが云々などという悩みが一瞬で霧散するほど驚き、カサンドラは指示を求める使用人に丁重に応接室にお迎えするよう告げる。

 自分の姿におかしなところはないか姿見でザッとチェックし、自分の机の引き出しにしまってあるアイリス宛ての舞踏会の招待状もきちんと確認。

 彼女がこの別邸にわざわざ前触れもなくやってくるということはこの舞踏会の招待状絡みしか思い浮かばない。


 持って行こうか一瞬悩んだが、『下さい』と言われたら渡せばいい。

 こちらからどうぞどうぞと渡し、それが彼女の妹達に見つかって同じ轍を踏むことになっては目も当てられないことになるのだから。



 ※



 本当にあのアイリスがやってきたのだろうか。

 ケンヴィッジ侯爵令嬢で学園の高嶺の花と憧れの的。最上級生の学級委員。

 心優しく穏やかな才色兼備のお嬢様が、わざわざ休日にカサンドラを訪れる理由が舞踏会の招待状以外にあるのだろうか?

 でも渡さないと言っているわけではないのだし、押し入って「今すぐ招待状を渡して」なんて頼むような女性ではない。

 それはカサンドラを信用していないと言っているも同然だし、何かのっぴきならない理由がなければアポなしのお宅訪問をする身分の女性ではないのだ。


「突然の訪問、大変申し訳ございません」


 応接室で静かに待っていたアイリスがソファから立ち上がり、たおやかな微笑みを浮かべる。

 深い藍色の真っ直ぐな髪、空色の双眸。


 人違いではない、どう見てもアイリスだ。


 まるで美しく咲き誇る百合の花のような高潔さ溢れるアイリスの姿は、まさしく自分が知っている彼女である。


「こちらこそお待たせしてしまい、ご無礼申し上げました。

 どうかおかけになってくださいアイリス様」


 淡いパステル色調の黄色のワンピース。

 スレンダーで何を着ても似合うだろう楚々たる美女アイリスの姿に同性ながらもちょっとドキドキする。


「事前に仰って下されば、いつでもアイリス様のご自宅までお伺いましたのに」


 いきなりアイリス級の来客を迎えることになり、別邸の使用人は緊張に包まれている。

 中央の貴族でヴァイル公爵家に近しい彼女に何か粗相があれば大変なことになることは誰もが意識していることだったから。


「お構いなく、急に罷り越したのは私ですもの。

 ……今日はカサンドラ様にお渡ししたいものがあってお伺いしました」


「わたくしに……ですか?」


「はい。

 私の家族の事情でカサンドラ様や王子にお手間をおかけしてしまい、このまま言葉だけの感謝で終わるなどとんでもございません」


 彼女はゆったりとした口調ながら、明確な意思を添える。

 完全に内々の事とは言え、王宮舞踏会の招待状を再度用意してもらうというのは確かに大事である。

 だが実際に手はずを整え実行してくれたのは王子なのでカサンドラはただ相談しただけ。

 そんな自分に大層なものを受け取る資格などないと思う。


「お気持ちは嬉しいのですが、わたくしは王子にご相談申し上げただけです」


「ふふ、カサンドラ様ならそうおっしゃると思って――」


 そう言って彼女は二枚の封筒をそっとテーブルの上に置く。

 まだ互いに手付かずの紅茶のカップ二つの間に、白い封書が重なって並ぶ。


「こちらはシャルローグ劇団の観劇招待状になります」


 シャルローグ劇団の名に、カサンドラは大声をあげてしまいそうになった。

 あまり演劇に興味のないカサンドラが唯一観て感動した劇団ではないか。


 とても有名な劇団であることは間違いなく、ヴァイル公からかなり手厚い後援を受けている。

 舞台やら歌姫やらを目指す人間にとって憧れのいただきと言っても良い。


 中々観る機会がないのは、この劇団は地方巡業がとても多く王都でも毎年数回しか公演しないから。

 十二分に遠征できる勢いがあるということだが。


 国内だけに留まらず、険しい山脈を越えた隣国に招待され王侯貴族の前で堂々と演じることも過去あったという。


 学園内でも観たことがある人は羨ましがられる程。


 恐る恐る中を検めると、一般大衆向けの席でさえない!

 これは”招待状”と名のつく通り、まだ公開されていない新しい観劇の内容を特別に招待したお客様に楽しんでもらう趣旨のもの。

 お金を出せば入手できるという類の権利ではない。


 アイリスはヴァイル派でも有力貴族なので、伝手は十分か。

 いきなりこんな封書を二通分渡され、カサンドラはしばらく固まった。


 八月の中頃、夏休みど真ん中。


「母からいただいたものですが、生憎レオンハルト様は当日御都合が悪くいらっしゃって。

 他の方と観に行く気持ちになれませんし……

 ご興味がおありでしたらカサンドラ様と王子に代わりに出席いただけたら嬉しいです」


「ええ!? それでしたらお母様にお返しされた方が……」


 すると彼女は首を横に振る。


「このようなものでお詫びになるかはわかりませんけれど。

 ……私、どうしてもカサンドラ様に謝りたくて」


「……???」


 彼女の含みを込めた言い方に理解が及ばず首を傾げる。

 さっきも彼女に言ったが、招待状を再度送り直してもらうよう手続きをしたのは王子で。


 カサンドラはいつも生徒会でアイリスにお世話になっている、彼女がいなかったら本当に悲惨なことになっていただろうと簡単に予測できるわけで。

 虐められることもないし、常に支えてくれる彼女にはこちらも感謝しているのだけど。謝罪を受ける意味が分からない。


「カサンドラ様が入学する前、お茶会に招待いたしました。

 覚えていらっしゃいますか?」


「はい!

 アイリス様のお気遣いをいただき、肩の力が抜けたのを今でも覚えています」


 まだ前世の記憶を思い出していない時代を思い出すと冷や汗が背中を止め処なくつたっていく。

 だが流石の高慢なカサンドラもアイリスという大物令嬢に招待されて失礼な言動はしていなかったはず……!


 そこでアイリスの腹違い三姉妹の姿を初めて目にし、”うわぁ”とドン引きしたのだけは良く覚えている。

 客である自分の目の前で、姉の婚約者に粉を掛けしなだれかかる少女達の姿は一種異様な光景であった。


 ケンヴィッジ侯爵家のあの噂は本当だったのだとアイリスに物凄く同情したものだ。


「カサンドラ様のためと言いながら、全て自分自身のためにしたことなのです」


 まるで女神様の前で懺悔するように、彼女は俯いて淡々と話し始めた。


「貴女様が王子の婚約者になったとお聞きし、私はそれを好機だと思いました」


 直系長女としてケンヴィッジ侯爵家に生まれ、公爵家の血を引く第二公子を婿に迎え入れて自身が爵位を継ぐ。

 だが父親は結局のところ義妹ばかりを厚遇し、自分や母のことは無視はしないまでもけんもほろろな対応ばかり。


 そこで性格が悪いと密やかに囁かれ、爵位こそ侯爵位であるものの地方豪族の末裔のカサンドラに目を付けた。

 カサンドラの噂を考えれば、次期王妃と雖も学園内で孤立し生徒会でも上手くいかないだろうということは容易に想像がついた。


 そんなカサンドラに前もって恩を売り親しくすることで、王妃候補に親しく便宜を図ってもらえるよう立ち回る。


「……いえ、あの……

 王妃王妃とは言いますけれど、この国は御三家の方々にしっかり要所を抑えられていますし。

 わたくし一人が妃に立ったところでアイリス様のお役に立てるかどうか」


 率直な感想を述べると、彼女はおかしそうにクスクス笑う。


「私が欲しかったのは、私が女だからと侮られ侯爵家の名誉を毀損しないだけのコネクションでしたの。

 父でさえ表立って文句の言えない”王妃”を自分の味方に出来たら、少しは安心できますから」


 彼女が爵位を継いだ後、それを貶めるような人間がいるとも思えないのだけど。


 いや……あの妾腹三姉妹が果たして社交界でどう動くのかを考えると安穏としてはいられないかもしれない。

 何せ、カサンドラの前でさえレオンハルト公子に言い寄るなど針金どころか鋼鉄製の精神だと思われる。

 アイリスの成功を妬み結託して何をするのか分からないという、彼女の不安も分かる。


 自分は妹達に虐げられている被害者なのだ、と。

 王室に連なる者にその様を直々に見て庇ってもらえるのなら、彼女にとって社交界での保険になる。

 例え評判の良くない王妃だろうが、社交界での噂の元締めのような存在であることは間違いない。


「……ですから私はウェレス伯爵令嬢の『もしかして』という話を聞いて、気が気ではいられませんでした。

 貴女が王妃に立たないということは、私にとってとても不都合なことでしたから」


 あの校舎前の庭園のことを思い出す。

 雨の日、誰も寄り付かない四阿の下で彼女は自分に不安というていで忠告をしてくれた。

 くれぐれもそのようなことのないように、とわざとカサンドラに意識させるような事を言ったのも合点がいくではないか。


 その後ジェイクのことをぽけーっと眺めていたら、アイリスに睨まれていたような気もしたし。

 あれは気のせいではなかったのか……


「わたくしが舞踏会でジェイク様と一曲、という話もそこに行き着くわけですね」


 あれほど取り乱したアイリスの姿をこの学園で見た生徒は自分だけではないだろうか。

 淑女の鑑がこちらの両肩を掴んで揺するなんて周囲の人間に説明しても鼻で笑われそうな事態である。


「全く以てお恥ずかしい限りです」


 カァ、と彼女は顔を紅潮させ両頬を掌で押さえた。

 自分でもやり過ぎたという自覚はあったらしい。


「……何故そのようなお話を……」



「自分を省みて、とても忸怩たる思いにかられたから――でしょうか。

 今までカサンドラ様は私と親しく、そして常に優しく接してくださいました。

 それは貴女にとっても私に利用価値があるからだと、その……

 お噂を考えれば、ええと……」


「あ、それ以上は結構です」


 言いづらそうに言葉を淀ませるアイリスに、つい片手を突き出して待ったをかける。

 彼女もまた攻略対象達と同じように『王妃になるためには手段を選ばない女』だの『周囲を蹴落として邪魔する人間』だの『利用できるものは利用してあげてもよくってよ?』的な悪役令嬢イメージを持っていたということなのだろう。


「ですがカサンドラ様ご自身から身分など全く関係ないという趣旨のお話をお聞きし、私はそんな純粋な方に対し自分の都合ばかり押し付けていたのかと恥ずかしくなりました。

 ラルフ様ともお話をする機会があり、カサンドラ様のお気持ちの程も身に沁みましたし。

 舞踏会の招待状の件でも薄々思っておりましたが……

 貴女は王子に関わる事でなくとも、ご自身の労を厭うことなく他人を気遣うことのできる、損得もなく接せられる方なのだと」


 え?

 ラルフは一体何をアイリスに吹き込んだの?



「いえ、あの……アイリス様……?」



 これにはカサンドラもちょっと笑顔が引きつる。

 アイリスの澄んだ瞳がとても心に痛い。

 そんなまさに王妃の鑑! みたいな感情を込めてこちらを見られても戸惑うばかりだ。


 結局カサンドラは自分のしたいことをしたいようにやっているだけで、博愛精神の持ち主でもなんでもない。

 王子を救いたいというのは自分の”我儘”に近いものだと今では思っているし。

 アイリスと仲良くしていたのは彼女に最初に親切にしてもらって、いつも優しく癒される存在だったからで……

 愚痴一つ零す事無くお茶汲みにも付き合ってくれるし。


 そんなアイリスに”貴女は滅私奉公してます!”みたいな反応をされると背筋がむず痒くなる。


 第一、王子のことを好きだというだけで、何でこんな視線で見られないといけないのか。理解に苦しむ。

 

「あのですね。

 アイリス様はわたくしに懇切丁寧に役員のことを教えて下さいましたよね?

 妹君達に非礼な行いをされていることは事実で、わたくしも心を痛めております。

 それにミランダさんの懸念事項を受けてわたくしに忠告下さったことも、わたくしの視野の狭さを指摘するという意味で十分襟元を正すものになりましたし……

 舞踏会の招待状の件もわたくしはただ王子に相談しただけです。

 合奏の時にも一緒に参加して下さって心強かったですし……

 斯様な行動を恥じ入る必要などありませんよね?


 わたくし、アイリス様に気にかけていただけて本当に学園生活で救いになりましたから!

 貴女がお困りでしたらお力になりたいと思うのは当然です。

 アイリス様が謝りたいと仰る、その理由がないのでは?」



 こういう社会に生きていて、利害関係の存在しない確固たる友人関係なんて望む方がどうかしている。

 やましい下心というが、それは結局キッカケに過ぎないもので。


 そんなことを言い出したら、三つ子に最初に関わって恋愛成就しないかな! 聖女になれるかもだし! なんて悪魔を巡る保険を掛ける意味で応援を始めた自分の下心は重すぎて地中にめり込むレベルではないか。



「わたくしはアイリス様とお近づきになれて嬉しいです。

 ですからそのような取るにたりない罪悪感など、どうかお忘れになって下さい。

 最初から存在しないものだと思います」


 ”好かれたい”ということも結局は下心なわけだし。

 それが問題になるのは、嘘や偽りで相手を騙し、傷つけた時ではないだろうか。


 それに百の想いよりも一つの行動の方が重いものだ。

 内心はどうあれ表面上出る行動が全て優しく正しいものなら、それはもう畢竟優しい人だよね、という話で。


 本当は優しい人なんだけど、と言われても行動が真逆で伴っていなければそれはただの意地悪い人だ。

 少なくともカサンドラは特定の誰かにだけ優しい人よりは、多くに優しい人当たりのよい性格な人の方が好きである。


 勿論虚構の世界なら別だ。

 所謂ツンデレは大好きだ、大好物だ。


 でも自分に対しリアルにされたら百年の恋も冷めそう。人間とはそういう身勝手な生き物なのだ。

 


 アイリスにはきっかけや内心はどうあれ、今まで善いことしかしてもらっていないので……

 急に「実はこう思ってました」と告白されても、逆に戸惑うだけである。

 ましてや自分を持ち上げられるなど、そんな大層な扱いは求めていない。




「ありがとうございます、カサンドラ様。

 ……ではこれからも、よしなにお願い申し上げますね」


 彼女の控えめな笑顔に、ホッと胸を撫でおろす。

 変に遠巻きに見られたり、持ち上げられたり、良い人扱いされるのは居心地が悪くてしょうがない。しかも持ち上げる相手がアイリスとか何の冗談だ。


「勿論です!

 これからも仲良くしていただけるなら、わたくしもアイリス様のご卒業まで心強いです」



「――ということで、カサンドラ様のためにこちらをお持ちしましたの」


 アイリスはにーっこりと微笑んで手の平を合わせる。

 こちら、というのは要するに例の入手困難な観劇の招待状なわけだ。

 シャルローグ劇団の名が眩しい。

 わざわざお金を払って伝手を辿って観劇するための権利を求めるのではなく、この場合は高貴な方々に是非新しい劇を観覧いただきたいという向こうからお呼ばれしているもの。


 アイリスとレオンハルト公子が行けなくなった代わりにカサンドラと王子と考えると、決して不自然な組み合わせではない。





 「カサンドラ様の友人の一人として、貴女の想いを応援しておりますわ」








  ………王子を誘って、二人で観劇に行って来いと。






 そこに政治的な下心もないということが明白だからこそ、カサンドラは受け取る他ない。





 ……あれ?


 デイジーだけじゃなくて、アイリスにまで王子との仲を応援されている……?

 



  本当に一体、ラルフは何をアイリスに吹き込んだんだ……?


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