第59話 対峙する


 月曜日朝の恒例行事で、カサンドラの一週間が始まりを告げる。

 もう五月も半ばを過ぎた、最初は忙しなかった毎日もそれが日常と化せば穏やかに時が過ぎるというものだ。

 リナもリゼもリタも、そしてカサンドラも。皆己のやるべきことをこなすだけ、進展はゼロに近い。焦る気持ちを抑えつけ、自身に言い聞かせるように念じていた。



  ――物語の序盤は耐え忍ぶべし。


 


 早朝、生徒会室にこっそり忍び込む。

 昨日一日一生懸命考えてしたためた手紙を王子の生徒会室の机に気づきやすいように置いておく。


 今ではすっかり慣れたもの、とカサンドラも気負いがない。

 どちらかというとそう”すべきもの”というルーチンになっているので、負担でもなくなった。


 特に変わり映えのない朝の時間、のはずだった。



 無駄に豪華な生徒会室の扉を開け、部屋の奥の役員用の机を一望する。

 最も奥で大きな生徒会長のための机に狙いを定め、自然な足取りで向かった。


「……あら……?」


 カサンドラがいつも手紙を置いている彼の机に、一枚の封書が置いてあるのが分かって思わず手を止める。

 彼の個人宛の手紙がここに置かれているなど初めてのことである。

 訝しく感じつつ、封筒の隣に置こうと手を動かすカサンドラ。


 しかしその白い封筒の宛先に――


 何故か自分の名前が書いてあったので、しばらく「???」と石像のように硬直した。

 たっぷり一分間ほど、視覚情報を処理できずに不自然な姿勢。

 置ききれず、中地半端な高さでカサンドラの手紙がプルプル小刻みに震える。


「もしかして、わたくし宛て……?」


 ……アーサー王子からの手紙……!?


 翡翠色の瞳をカッと見開き、カサンドラは誰もいないはずの生徒会室を再度キョロキョロ見渡す。

 人の気配はない。


 喉を鳴らし、手を伸ばす。

 落ち着け、と息を大きく深く吸って深呼吸。


 スー、ハー。よし、少しは落ち付いたか。


 まるで犯罪者のような手つきで、アーサー王子の封筒と自分の持ってきた手紙を入れ替えたのである。


 どこからどう見ても自分の名にしか見えない。

 カサンドラも、レンドールもどちらも自分を指し示す言葉だ。


 毎週手紙を置いているのだから、彼も今日高確率で自分がやってきて手紙を置こうとするのは想像できるはずだ。

 この手紙をカサンドラが見つけると予想するのは容易く、となると十中八九自分あて。


 心臓が口から飛び出て来そう。

 両手でその封筒の両端を掴み、もう一度念のため周囲を確認。

 そして宛名も確認。


 間違って他人当ての手紙を開けたなんてことがあったら取り返しがつかない。

 よし、大丈夫。


 そして封を開けて読むなら、今ここが最適な場所でもある。

 教室では誰が入ってくるかも分からない。

 こんな動揺して変な顔をして緩み切った自分の姿を見られたら今後学園に通えなくなる。


 ここが自室で完全プライバシーが保たれていたら、手紙を掲げてバレリーナの如くクルクルと回っていたくらいには嬉しい。


 王子からの手紙。

 それは決して一度も言葉にしたことは無い言葉だ。


 返事が欲しい、欲しいと思っていてもそれを求めては彼の負担になるのだ。

 こうして毎週送ることさえ煩わしがられていたらどうしようと冷や冷やもので、まさか彼が手ずからカサンドラにメッセージを……!

 嬉しい、額縁に入れて飾りたい。

 ――いや、流石にそれはアレクや使用人に見つかったらドン引きされるどころではないので、やめておこう。それくらいの分別はある。



『――親愛なるカサンドラ嬢へ』



 親愛なる!


 ……まぁ、手紙の常套句だ。ここに一々反応している場合ではない、大体自分もそう書いているではないか。

 でも本当に王子の字は綺麗だなぁ、と思う。

 字には個性が出るが、本当にお手本のように綺麗でしっかりした文字である。


 いつも手紙を渡しているそのお礼、社交辞令かもしれないが楽しみにしていると言われたら安堵に包まれるというものだ。


 だが次の段落に視線を移すと、カサンドラの瞳は美しいエメラルドそのものの輝きから、深海にたゆとう藻のような濁った色に替わってしまった。

 フッと、両目からハイライトが消える。


 今日、王子は放課後に用事があってシリウスと共に王宮に向かうらしい。

 つまり今日は会えないから先に帰ってね、という単なる事務的なお知らせでした。


 やりきれない想いを拳に乗せて近くの机をダンッと叩いて呻くカサンドラ。

 なんてことだ、天国から地獄。


 だがこのオチは、予想できた事ではないか。

 自分の頭がハッピー過ぎただけ。


 過剰に過大な期待に胸を膨らませ、その限界まで膨らませた希望を一瞬で破裂させカサンドラの息の根を止めようとする。

 逃れる術のない超ド級の罠に、カサンドラは肩をがっかりと落とすほかない。


 一週間で唯一、王子と二人で話が出来る数分間。

 最近はぎこちないながらも、少しずつ雑談めいた状態になっているような気がする! と意気揚々としていただけにこれは苦しい。


 もしも埋め合わせに他の曜日でも指定してくれたら心は軽かっただろうが、生憎代替案は文章のどこにも書いてなかった。


 ……太陽の光に透かしたら浮かんでくるとか……!?


 窓硝子に手紙を張り付けてみようかと一瞬本気で考えたが、流石に王子もそこまで暇ではないだろう。

 暗号? あぶり出し? 更にありえない。



 今日一日、カサンドラのテンションが低空飛行することが決定づけられた瞬間である。



 初めて王子にもらった手紙がこれ、か。

 物凄く残念だ。


 でも――彼が自分のことを慮ってわざわざ手を掛けてくれた。

 仮に王子に用事があって自分が待ちぼうけになったとしても、元々の約束は行けたら行く程度の口約束だ。

 これまで欠かさずカサンドラに付き合っていてくれただけ、良くしてもらっていると言って良いのではないか。


 そう自分を慰め、とぼとぼと教室に向かうカサンドラだった。






 自分は王子の婚約者なのに、まともに話が出来ない状態がずっと続いているのはどういうことだ。一層モヤモヤする。


 確かに、実際に会ったことなど皆無と言って良い。

 所詮カサンドラが一方的な一目惚れの対象として見ていただけで、親の介入が無ければ話をする機会さえなかった。


 政略結婚で一緒になったとしても、必ずしも不仲なわけではない。

 そこから始まるラブストーリーなどもはやあまりにも例が多すぎて陳腐だとさえ言われるだろう。



 見合いだろうが恋愛だろうが、所詮は個人の人間性が全てだ。

 相手のことを想い、大事にする者同士なら上手くいく。

 そうでないなら、破綻する。


 ……アイリスの御父上のケンヴィッジ侯爵が愛妾を可愛がり、正妻にはあまり時間をとらず不仲であることはカサンドラでも知っている有名な話。

 だがそれは筋を通せない侯爵が悪いのだ。


 自分は昔から好きな人がいました、だから親戚に決められた嫁なんか気に入りません。最低限、義務で子どもだけ作ります。

 それは全方面に喧嘩売ってるのか? と胸倉を掴んでやりたくなる腐った性根と言っても良い。


 思いやりや人の心があったら、正妻の立場も考えて愛人との関係もちゃんと折衝してあげるはず。

 仮に侯爵が貴族ではない一般的な男性として暮らしていた世界があったとしても、どこかで男女トラブル起こして刺されてただろうなとしか思えない。



 互いに歩み寄る気持ちがあるなら、政略結婚でも『幸せ』になれる。

 カサンドラは王子の為人を間近に見、少ないながらも会話する機会を得て彼は思いやりのある人だと思っている。

 こちらが想うように想って欲しいなどとは思えないけれど、せめて相談事が可能な友人位の立場になりたいものだ。





 ――仲良くなりたい。







  置かれた運命に抗うためにも、その先の未来でお互い幸せになるためにも、だ。






 ※





 ふぅ、と溜息を落とす。

 本来なら王子と一緒に中庭で話をしているはずの時間、カサンドラは一人虚しく生徒会室に向かっていた。

 先週図書館から借りた本を返そうとしたところ、役員会議の後机の上にそのまま忘れていたのだと放課後になって気づいてしまったから。

 前回の役員会はカサンドラも言いたいことを言いたいだけ言って、その勢いで部屋から辞してしまった。

 だってあまりにも奴らが自分勝手だったからイラっとしてしまった。

 自分は悪くない……多分。

 今日の昼食、気まずい雰囲気だったなと思い出して閉口した。


 最低限の資料は鞄に入れて持ち帰ったので困ることはなかったが、一旦鞄から出しておいた本を忘れて帰るとは迂闊。

 朝の時間は王子の手紙ショックのせいでそもそも気づく余地もなかったし。


 図書館に向かおうと鞄を確認して思い出したのだから間の抜けた話である。


 今日は王子はいないが、替わりにシリウスもいない日。

 ならば今から本を取りに行くのは今日の方が良いと判断したのは間違っていないはずだ。


 あの御仁は生徒会室のサロンを我が物顔で使用し、毎日昼食後の長い休み時間はほぼそこで過ごしている。

 下手をしたら放課後もちょくちょく顔を出すのでカサンドラとしては寄り付きづらい。


 対してジェイクは生徒会室に屯するのがそんなに好きではないようだ。

 ティータイムを嗜む柄ではないし、そもそも放課後は直行で騎士団詰め所に向かっている。


 いるとしたらラルフだろうが、この時期だからサロン内の扉と窓を閉め切って楽器を演奏していると想像できる。

 集中して演奏をするなら隣の部屋のかすかな物音まで拾うことはあるまい。


 誰とも顔を合わせることがなく本を回収できるチャンスと切り替えて、生徒会室の扉をくぐったカサンドラ。



 そしてサロンから聴こえるヴァイオリンの音で、本当にラルフが練習していたのかと一瞬顔を曇らせる。

 出来るだけ自身の存在に気づかれないようにそろりそろりと室内を移動していたのだけど。



 ~♪ ♪



 流れてくる旋律につい意識が向く。

 これは生誕祭で弾く曲ではなく、彼個人が弾きたいから弾いているものだろう。


 技巧もさることながら、良くもこんな情感的な音が出せるなと感心する。

 趣味レベルとは一線を画しているのは素人が聞いても理解できるはずだ。彼が公子という立場で無かったとしても、宮廷楽士隊でその腕を存分にふるえるに違いない。


 メロディが切り替わり、別の曲に。

 ゆったりとした旋律から徐々に勢いを増していく音に、カサンドラはぐっと唇を噛んだ。


 悔しいが――

 もう少しだけ聴いていたい。


 サロンに繋がる扉の傍、最も音が漏れ聞こえる場所に立って耳を澄ませる。

 弦楽器が不得手なカサンドラには彼の素晴らしい腕には嫉妬さえ覚える始末だ。

 これが才能の壁。神様ってやっぱり理不尽だと思う。



 こんな彼とまともに弾き合って合奏できる王子のスペックの高さよ……





 もう少しクリアに聴きたい。

 僅かに前傾姿勢になった時、カサンドラが手に抱えていた本が扉にコツンと当たってしまった。

 あっ、と己の迂闊さに悔恨しても時すでに遅し。


 ピタッと演奏が止んでしまったのだ。

 ヤバい。

 汗が背中に浮かぶ。




 ――気づかれた!




 この扉の向こうにいるのが恩返しのためにやってきた鶴だったら、覗かなければセーフだ。

 だが残念ながらあちらさんはカサンドラに何一つとして恩があるわけでもなく。


 ……そしてこの学園で、お偉い男子生徒なのである。



 子どもの頃、洒落にならない悪戯が親に見つかる寸前にこんな風に全身が強張って血の気が引いたのを思い出す。


 可能であれば逃げ出したかった。

 だが体の反応はとても鈍く、近寄ってくる足音から遠ざかることを許してくれなかった。


 反射神経が良ければ、気づかれたと察した瞬間機敏な動作で生徒会室から遁走していただろう。

 悲しいかな、運動神経の皆無なカサンドラは自身に瞬発力など期待してはいけないのだ。


 彼の演奏を盗み聞こうとしたあげく、見苦しく逃げ出そうとするところを捕まえられる方がよっぽど外聞が悪い。

 ラルフに謝る罪状は盗み聞きだけで十分だ。



「聴いていたのは君か、カサンドラ」



 ジェイクほどではないけれど、ラルフもまた上背の高い男子生徒である。

 アーサー王子と同じく綺麗な金髪が視界に入り、カサンドラの緊張が一気に高まった。


 彼の深紅の双眸がこちらの頭の先から爪先までめつすがめつ睨んでくる。

 なんだかんだ改めて実感しなくても彼は非常にルックスの良い好青年。

 じろじろとうさんくさそうに見られると心臓に悪い。


「申し訳ありません。

 置き忘れた本を取りに来たのですが、ラルフ様のヴァイオリンの音色が聴こえ……

 その、盗み聞く真似を働いたこと、お詫びいたします」


 彼が何も言わないので、沈黙に耐えられずカサンドラは深々と頭を下げた。

 本を持ち直し、これを取りに来たのですアピールは忘れない。


「そんなことはどうでも良いんだ」


 彼は嘆息交じりにそう言い放つ。

 腕を組み、真面目な顔でカサンドラを凝視するヴァイル公爵家嫡男、ラルフ。


 どうでもいい……?


 折角気持ちよく一人で練習していた時間を邪魔されたのだ。

 しかもそれがカサンドラで、はしたなくもコソコソと聞き耳を立てて盗み聞こうなど嫌味や皮肉の十連発くらい浴びるのは覚悟の上だったのだが。



 どうでもいいなんて捨て置かれると、それはそれで戸惑うではないか。



「カサンドラ、折角の機会だ。

 正直に答えてもらおう」



 彼の声は鋭く、日ごろ他の生徒達に向ける優男風の微笑みの影さえ欠片も感じない酷薄な表情を浮かべる。


 その真剣で、思いつめてさえいる表情に身の危険を覚えた。

 彼が短刀でも忍ばせているのではと恐々と確認。


 幸い彼は素手だった。


 邪魔だから刃を以て排除します、なんて人間ではないのだけれど。

 人間だからこそ、思いもよらない行動に突っ走るわけで――……






「君は一体、何を企んでいるんだ」








 もしも言葉が形を成すなら、彼の冷たい声は鋭利な刃物としてカサンドラの鼻っ先に突きつけられていたのだろう。   

 彼の苦々しい顔に浮かぶのは、猜疑と不審。




 カサンドラも呆けているばかりではいられない。


 思考を臨戦態勢に切り替え、彼を正面から睨み返した。


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