第53話 努力は裏切らない
自分のうっかりミスで、とんだことになってしまった。
頭の中が真っ白になってしまう。
今、自分はアーサー王子に完全に抱き留められている状態。
細身に見える外見でも、流石剣術などにも定評のある王子。意外と逞しい胸筋ですね……とか言ってる場合じゃない。
蒼くなったり赤くなったり、カサンドラの顔は大騒ぎ状態。
「薄暗いから足元に気を付けて」
王子に指摘を受け、カサンドラはようやくハッと我に還る。
彼から飛びずさるというわけにはいかなかったが、自身の足でしっかりと立ち離れる。
「――も、申し訳ありません!」
ペコペコと頭を下げる。
確かに壇上のステージは光石の灯りで白んでいるけれども、舞台に上がる階段の足元は言われた通り注意が必要だ。
これは恥ずかしい……と、カサンドラは恐縮する他なかった。
「怪我がなくてよかった」
こちらの不注意で手を煩わせたことを全く気にする様子もない。彼はグランドピアノに向かって進み、ラルフと何事か話し始めた。
颯爽と身を翻す姿も本当に絵になる人である。
まだ頭がぼーっとするし、全身が熱い。
そういえばアーサー王子に触れたのって、今が初めてではないだろうか。
……落ちつけ! と、何度も首を横に振る。
ここで余計な事ばかり考えていては肝心の演奏を失敗してしまうではないか。
そう思って自分の立ち位置を探す。
皆それぞれのマイ楽器を持って、調律を確かめる。
静かな講堂内に幾種類もの楽器の音色が飛び交った。その無秩序さも聴いていて面白いのだけど。
シリウスはどうやらヴィオラ奏者らしいと気づいて二度見した。
……ええ……? シリウスって勉強だけでなくて楽器も嗜んでいるの……?
しかもスラッとした長身と知的さをアピールする眼鏡の相乗効果か、ヴィオラを構える姿が大変よく似合っている。特にシャツにベスト姿が何と見目麗しいものかと目で追ってしまう。
普段口数が少なく、口を開けば皮肉や嫌味――そんなシリウスも、傍から見ていると素敵な男性なんだよなぁ。そう再確認してしまう。
「ああ、君はこっちだ」
キョロキョロとステージ上を窺っていたカサンドラに声を掛けたのはラルフである。
彼は譜面を置くスタンドを指差し、そしてとんでもないことを言い放った。
「有名な曲だし、ただ一緒に合わせるのもどうかと思ってね。
それぞれソロで演奏する箇所に印をつけておいた、先に確認しておいてくれないか」
……なん……ですって……?
しれっとした顔で淡々と、ラルフがとんでもないことを言ったのでカサンドラは慌てて自身の楽譜に目を通す。
多くの楽器で演奏することを前提に作曲されたエメリアの旋律。
それぞれの楽器の特徴を考えて調和するように作られたもので、本来ソロのパートはないはず。
特にフルートでそんな箇所があるわけないだろう、と一枚ページをめくる。
赤い線で囲われている一段!
そこではフルートだけ音を出せと?
他に数か所青い線で囲まれているが、そこにメモでヴァイオリンだのヴィオラだの書かれている。
その部分は他のパートの演奏を聴く機会だよということか。
……い、一番難しい一節が見事に入っているじゃないか……
上手く演奏できれば良く映える、だがトチってしまえばリカバリーが困難というとんでもない箇所。
今まで練習したことのない箇所を演奏しろというのは急には難しくても、今日はこの部分は他のパートが弾くから少し休むくらいは融通は利くだろう。
これだけ楽譜で他のソロパート段を強調されていれば、勢い余らない限り見落とすことは無い。
良い機転に見せかけつつ、わざと難しい箇所を押し付けたんじゃないかという疑念が払しょくできない。
最も忙しなく高低差のある個所をわざわざカサンドラにぶつけてきたのだ、これは宣戦布告か!?
皆と合わせているところで失敗しちゃった、なんて可愛らしいものではなくなる。
この箇所で思いっきり独りトチるがいい! というラルフの心の声が聞こえてきた。幻聴かも知れないが、まさに状況はそんなものだ。
もしも――
もしもこの一週間、あまり練習をせずに気楽に参加しようなんて心意気だったら間違いなく誤魔化しが効かず焦りまくったに違いない。
だがお生憎様だ。注意が必要な一節はこの一週間、何百回と演奏してきた。
ちゃんと吹ききってやるわ、と。
カサンドラは素知らぬ風のラルフの背中を睨み据え、静かに席に着いた。
ヴァイオリン、ピアノ、ヴィオラ、クラリネット。そして自分のフルート。
ぞれぞれのパートで最も特徴的な一節がその楽器だけで演奏できるように指示されている。
ただのお遊びだと誰もが気楽。観客がいるわけでもない。
間違ったからといってペナルティがあるわけでもないのだ。
大丈夫、と息を吸う。
最初の入り、指揮者はいないがアーサーの奏でるピアノの音が始まりの合図の代わりとなった。
――皆、上手いな。
涼しい顔で楽器を操る彼らの器用さに内心で驚きを隠せない。
楽器演奏や鑑賞は貴族子女の嗜みとはよく言うが、皆真面目だ。興味が無い、面倒だと逃げることなく習っているということ。
日頃の課題をこなしつつも教養も忘れないのは家の教えなのだろうなぁ。
いくら有名で練習したことがある曲でも、初見の集まりでいきなり音が揃うなんてありえないだろうに。
尤も、上手く合わさっているのはリズムやテンポを完全にリードしているピアノのおかげだ。
メロディラインを奏でるその音が、皆を纏めている。
聴き馴染んだ音階を丁寧に響かせるアーサーの指に、弦楽器の音が重なった。
実は自分以外、先に集まって練習してました? とさえ思ってしまう。
そしてこの先はヴァイオリンのパート。
ふっと口を離して、耳で音を拾う。
やっぱりラルフの音は心地いい、三人の中でも群を抜いて良く響く。
シリウスのヴィオラも思ったより全然聴ける。
ヴィオラのソロはあまり聞いたことがない。ヴァイオリンよりも低く空気を震わす音に聞き入ってしまう。
縁の下の力持ちというか、シリウスが選ぶ楽器らしいなぁ、と少し思った。
主役を張ることはそうそうない楽器だが、なければ合奏に深みが足りないというか。
凄く上手に引き立てるけれども、ソロでもしっかりと主役を張れる。
さて、そんな風に感心しているだけではいられない。
次は自分の番だ。
この部分のフルートはトリル――指を素早く動かして細やかな音を出すのが少々難しい。
フルートを演奏していると実感できるパートである。それは間違いないのだが。
そっとフルートの頭部管に唇をつけ、息をゆっくりと吹き込んだ。
他の楽器の音が一切聴こえない中、カサンドラの奏でる音だけが講堂を支配する。
たった一段だが無限の時間にさえ感じられた。
既に緊張は通り越し、心は無に近かいのだが。
あれほど毎日延々と奏でていたのだ、勝手に身体が動いてくれる。
あっと言う間に指定されたソロパートを吹き終えて、後は全員で最後まで耳に馴染んだメロディを演奏していく。
それは確かに楽しい時間だ。
ラルフとアーサーの素晴らしい演奏を聴かせてもらうのは幸せだけれど、完璧ではなくっても自分が自分の得物を持って参加できるというのは楽しい。
これは彼らなりの気遣いなのだろうか。
演奏は楽しい、その楽しいことを自分達だけで完結させるのは申し訳ない。
だから一緒に”遊んで”みようかという提案はただの善意なのだろうなぁと思う。
カサンドラに一番面倒なパートを割り振られたことはちょっと恨む。
練習をみっちりしていて本当に良かったと胸が未だにバクバクしている、本当に心臓に悪い。
通り一遍演奏できますというだけではうまく思い通りに吹けなかっただろうな。
やりきった……。
ふぅ、と肩から力が抜けていく。
どこもミスしなかったし、調和を乱すこともなかった。
直前で急に任されたソロ区間も無難にこなし、カサンドラにとってはこれ以上ない結果で合奏の時間は幕を下ろしたのである。
誰かに発表するわけでもないこの一幕。
でもアレクの協力あってこそ、無難にこなすことができたのだ。本当にありがとう、と心の中で何度も義弟にお礼を言う。
椅子から立ち上がる時、不意に視線を感じて振り返る。
何とも言えない表情をしたラルフとバチっと目が合って思わずフルートを落としてしまうところだった。
危ない。
ちゃんと楽器を持ち直し、お疲れ様ですと先に声を掛けた。
困難な一節をカサンドラに任せてやれば馬脚を現すだろうという彼なりの思惑があったのかもしれない。その罠をちゃんと回避することが出来た。
――とはいえ、非常に気持ちよく合奏できたのは彼の丁寧でしっかりした旋律のリードあってこそだ。
今のカサンドラは余裕に満ち溢れていたので、彼が今何をどう考え思っていようが、まさに知ったこっちゃない心境だったのである。
アレクに良い報告が出来るとウキウキだった。
「……。思ったよりも良い音で、少々驚かされたよ」
「まぁ、ラルフ様にそうおっしゃっていただけるなど光栄の至りです」
では他の曲を今ここで吹いてみろと言われても困る。多分言い訳を並べて辞退するしか出来ない。
これを弾くからと予め言われていた曲を可能な限り練習し、何とか形になるまで仕上げただけだ。
全く違う楽譜を渡されてじゃあお願いね、と言われたら顔は真っ青になるだろう。
ラルフなら初見だろうがパーフェクトに弾きこなしそうだ。
――凡人と天才の差だ。その差を日の下から隠し、水面下の努力で覆っているに過ぎない。
「君の参加に感謝する」
ラルフはそれだけ呟くように言った後、フイッと視線を逸らす。
そして今し方一緒に演奏したアイリスと他学年の委員に何かヴァイオリン指導のような講釈を始めたのだ。彼は真面目な人だが、音楽が好きなのだなということは伝わってくる。
ラルフと勝負をしていたわけではないが、嫌味を言われないということはケチをつける要素が見当たらなかったと捉えても良いのだろうか。
粗が無かったということで、カサンドラは無事にやりきった!
「素晴らしい演奏だったね、自分が観客席にいないことを惜しんだよ。
いや、特等席で聴けたから幸運だったのかな?」
いつの間にやら近寄っていた王子にいきなり褒められ、ぎゃあ、と悲鳴が喉から零れ落ちそうになった。
急に話しかけられると挙動不審になるので遠くから先に声をかけてもらえないだろうか。
そんな無茶な事を心の中で要望しつつ、カサンドラは笑顔を向ける。
またステージから下りる時に足を縺れさせるのではないかと、監視されている……?
先ほどは本当に危ないところを助けてもらった。
今でも思い出すだけで顔が一気に紅潮してしまう、何とか意識を逸らしたい。
でも目の前にアーサーがいたらどうしてもあの一瞬の接触を思い出してしまっていてもたってもいられなくなる。
舞踏会で男性と踊ることは珍しいことではない。
手を取って、一曲。貴族の令嬢であれば誰もが身に着ける常識の嗜みであろう。
でもシチュエーションが全く違うとこんなにも受け取り方が違う。――いや、相手が違うからこんなにドキドキしてしまうのか。
「とんでもございません、恐縮です」
ラルフやアーサーと比べられるのは畏れ多いが、自分比では精一杯頑張った。
「……楽しそうだね」
彼はクスッと小さく笑い、カサンドラに言葉を続けた。
労いの言葉だけで終わりだと思っていたから、会話の先があったことに動揺する。
「え、ええ……
とても楽しい時間でした、お声を掛けてくださって感謝します」
週の始めの月曜日に声をかけてもらえたから、時間をかけて練習することが出来た。
いきなり役員会で告知されたらもっと完成度は低かったはず。
彼の気遣いには助けられてばかりだ。
「それに――」
知らず、フルートを持つ両手が震える。
早く専用の箱にしまわないといけない、ステージから降りないといけない。
それでも王子とこうして話ができるのは嬉しかった。
「こうして王子と休日にお会いできたのですから」
見れば見る程、光石の輝きを受ける彼の姿は神々しくて拝みたくなるほどだ。
普段制服姿以外を見ることなどないカサンドラにとって物凄くレアな彼の格好は、写真か何かで是非保存しておきたい。
生憎この世界にはそんな便利な道具はないので、瞳の奥に記憶としてしかと焼き付けることしかできないが。
「王子、あの……
不躾なお願いであることを承知で申し上げます」
物凄く図々しいことを言おうとしている。
しかし今しか機会がない。
今の気炎を逃してしまえば、打診することを怖れて何も言えなくなるのではないかと思った。
人間、勢いも大事だ。
大滝に身を投じる覚悟で、カサンドラはアーサーに頭を下げた。
「また――王子と休日にお会いしたいです」
今回は生徒会役員の行事の一環でもあった。
だがもしも許されることならば、休日にも彼と会えたらいいのになと思った。
別に丸一日一緒に居ろだとか、デートのようなものをしたいだとか、そこまで大きな事など考えていない。
まさに滅相もないとんでもないお願いである。
彼の休日の活動が垣間見えるような機会があれば、是非お供させて欲しいというだけだ。
駄目なら駄目でしょうがない。
彼はカサンドラの突然な申し出に虚を突かれたのか、珍しく沈黙したままこちらを見つめる。
予期しない言葉を掛けられて、彼はとても困っているのだ。
あ、駄目だ。
これは玉砕した……!
「大変申し訳ありません!
ご無理を申し上げました。ええと、今日、思いもかけず王子と御一緒できた事が嬉しかったので、つい」
分不相応なことを言ってしまった。カサンドラは調子に乗り、浮かれてしまった自分に気づいて蒼白になる。
「ああ、いや。駄目というわけではないんだ、勿論。
ただ生誕祭が終わるまではラルフとの練習がある」
確かに、いくら彼らが素晴らしい腕だからと言って練習なんかしなくていいと土日も遊び惚けるような人たちには思えない。
二人とも責任感が強く、演奏だけではなく諸々の進行についても打ち合わせをするのだろう。
そこに軽薄にも「休みの日に会いたいです」とか自分の頭はお花畑か。
脳内でヘラヘラ笑う自身の幻影の頬を、パシーンと平手打ちした。
「生誕祭が終わった後、カサンドラ嬢さえ予定がないのなら一緒に街に行かないかい?」
「………え?」
「時折、街に出て皆の様子を眺めることがあるんだ。
――良ければ君も一緒に」
それはお忍びですか!
身分を隠して普通の平民の格好で忍んで治安などを確かめる行為ですね!
……それにカサンドラも同行していいなど、なんという僥倖……!
本当にいいのだろうか、頬を抓ってみたくなる。
「是非! ご同行させてください!」
もうその約束だけで一月終始笑顔で暮らせる自信がある。
カサンドラの心に激震が走る、そんなアーサーのお誘い。
……人間、何事も言ってみるものだ。
絶対王子と一緒に出掛けるなんて不可能だと思い込んでいたのだ。
この機会でもなければ、まず勇気が出なかっただろう。
「護衛の心配は必要ないからね。
今回もジェイクと一緒に回る予定だ、彼なら護衛対象が二人でもどうということはないだろう。
心配なら、信用のおける者を増やしても勿論構わない」
キラキラエファクトを纏い全く何の他意も悪意も感じないアーサーの笑顔。
まさかの提案にカサンドラの動きが静止した。
それは先週想像した悪夢ではなかったか。
――
あんな目立つ存在を引き連れて歩くなど、もはやお忍びでもなんでもない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます