第52話 決戦の日曜日
外出のための支度を始める。
使用人に髪整えてもらい、鏡の中の自分の姿を凝視した。
目の下にうっすらと隈が浮かんでいる。が、この程度は誤魔化せるだろう。
――大丈夫、大丈夫。
カサンドラはまるで自分自身に暗示をかけるようにぶつぶつ呟きながら、脳内では今日演奏する予定の楽曲がエンドレスで繰り返し演奏を続けていた。
昨日の土曜日に練習と予行を兼ねて三つ子の前で演奏してみたではないか。
彼女達はとても喜んでくれたし、ちゃんと褒めてくれた。
アレクも不在で一人でリズムやテンポを調整しながら長い一曲を演奏し、実際に聴いてもらえたのは良い機会だった。
彼女達の来訪を断らなくてよかったと心から安堵する。
今日という決戦の前日に三つ子を家に招いて特訓を継続をするか否かは結構悩んだのだ。応対している時間があるなら一人で練習を続けるべきなのではと。
だがずっと半日以上根を詰めて延々と孤独に練習を続けるより良かったと思う。
彼女達と一緒にいることで気持ちもリフレッシュできた!
追い詰められていた感覚が和らいだし。
別に大勢の前で演奏するわけでもない。所詮、本番で演奏する二人の気分転換。
ただのお遊びと彼らが断言するものに命を削るのも本末転倒だ。
『カサンドラ様、凄いです! お上手ですね……!』
リナが瞳を煌めかせてうっとりした顔をしてくれたのが印象的だ。
何より人前で演奏したのは初めてのこと。彼女達がとても素直に褒めてくれたので、今日失敗してももういいや、という気持ちにさえなったものだ。
人を励まし温かい気持ちにさせる。
これが主人公パワー……そしてそれが三倍となればカサンドラの尖った神経も穏やかになるというものだ。
自分は恵まれている。
本来一人しかいないはずの”主人公”三人と親しく付き合うことが出来るのだ。
こればかりは例え攻略対象と
まぁ、そんなことで優越感を感じてもどうしようもないのだけど。
「お嬢様、
自分一人で長い髪を手入れするのは手間がかかるし面倒なことだ。
だが毎朝、そして就寝前の湯浴み後に使用人が丹念に髪を梳いてくれるおかげで、カサンドラの豊かな金髪は保たれている。
彼女達にとってはそれが仕事なのだから当然の話かもしれない。
だが今日は特別な一日。通学時より入念に整えさせた。
お嬢様は長い髪はそのままロングヘアで髪飾りなどで飾ることが多い。
どこを向いても長い髪、代わり映えがない。校則で決められてもいない髪がここまで同じ様になるのも凄い事だと思う。
カサンドラは複雑な編み込みのハーフアップで学園に通っているが、今日は世間様で言うところの休日である。
「お嬢様の髪をお纏めしたのは久しぶりでございますね」
両サイドに少量の髪を垂らし、完全に編み込んでもらったものだ。
服と同じ濃青色の蝶の髪飾りを刺し、背面から映す鏡でその状態を確認。
流石手慣れたものだ、髪型一つで気分も変わる。
何となく頭部の重心がいつもと違って違和感だが、フルートを演奏している時に万が一絡まっては大惨事。念には念を入れなくては。
「まぁ、良くお似合いでございますわ」
年配の使用人はふっくらとした笑顔で心から褒めてくれた。
入学する前の高慢で使用人に労いの言葉一つかけなかった頃では考えられないニコニコとした心からの笑顔にホッとする。
失敗や手直しばかり指示してツンとすましていては、彼女達も褒める言葉さえこちらの顔色を窺っていたことだろう。
仕事でも人間相手、互いの気遣いは大事である。
前世の記憶を思い出す前の自分を思い返すと、床の上でジタバタ暴れたい衝動にかられてしまう。
リゼがいてもたってもいられなかった気持ちと似ているのでは。
既に起こってしまったことを忘れることなど出来はしないのに。
「どうもありがとう」と言葉を添えて立ち上がる。
制服ではない、私服で集まるというものまた難しい状況だ。
まさかパーティ仕様の完全防備で行くわけにもいかないし、ただのお遊びの合奏会なのにあからさまに主役のような気合を込めた恰好でいくわけにもいかない。
ここはシンプルに青いフレアワンピースにケープを羽織ることにする。
普段着と言えば普段着だし。
自分が何を着るか考えることに夢中だったが、そういえば今日は皆私服か。
……当然、王子も普段着で来るはずだ。
果たしてどんな格好であの王子様が普段休日を過ごしているのかさっぱり想像もつかず、カサンドラは緊張に喉を鳴らしながら用意させておいた馬車に乗り込んだ。
※
学園の敷地内にこれでもかという程の存在感を醸し出している歴史ある建造物。
大きな聖アンナ像を掲げる大講堂に向かい、ゆっくりと歩いていく。
あの大講堂を訪れるのは一月半前に入学式典があって以来だ。
重要な儀式や祭典で使われる駄々広い講堂の天辺には時計塔とともに大きな鐘がある。
あの鐘が鳴ると校門が閉まり、授業が始まり、終わって――という合図。
煩悩を浄化してくれそうな重く荘厳な鐘の響く音は、今日一日聴くことはないのだ。
「カサンドラ様、ごきげんよう」
爽やかな初夏の陽光に合わさり、それはもう見ている者の心を癒す麗しい侯爵令嬢が手を振ってカサンドラに声をかけてくれた。
「お会いできて嬉しいです、アイリス様」
もしも王子と二人きりで会える機会なら話は別だ。
だが今日はアイリスの姿があることで心の底からホッとする。
なんというか……
思い違いかもしれないということを念頭において。
王子が自分とジェイクの仲を勘違いしてないか疑惑が自分の中で浮上したのである。
杞憂ならば構わない。
だが、やはり王子の婚約者として。そしてリゼの友人という立場として。
出来る限りジェイクに関わるのは控えた方が良いのではないか、と。
ジェイクの『
これ以上の接触は不要とさえ言って良い。
誤解が解ければいいのであって、慣れ合うつもりなどさらさらない。
個人的に親しいなんて欠片でも受け取られたら最悪だ。
ジェイク自身は嫌いではない、良い奴だという王子の言葉通りに受け取っているだけだ。もしも異性と友情を育めと言われたら間違いなくジェイクを選ぶ程度には慣れた存在である。
……勿論自意識過剰と言われればそれまでだ。
王子の言動も態度も最初と何一つ変わることは無い――
もしも自分とジェイクが接近していた事に焼きもちだの嫉妬だのしてくれるなら、諸手を挙げて喜ぶ。だが現実は王子がカサンドラの行動を不審に思って遠ざけ、婚約が解消される未来しか見えない。
ただ自分の今週の行動を顧みるとかなり際どい行動ではないだろうか?
李下に冠を正さず。
疑わしい行動は慎むべきだ、とカサンドラはそう思った。
今日はジェイクは不参加だが、他の男子生徒は参加するだろう。ラルフは絶対にいるし。
誰かに要らない誤解を与えることなく話ができる、女生徒のアイリスはまさに天の助けのような頼れる先輩!
さりげなく王子と会話できる機会が沢山あればいいのだが、ラルフやシリウスが様子を窺っている中で図々しい態度は……
どんな嫌味が飛んでくるか考えると愉快なことではない。
「カサンドラ様、素敵なお召し物が良くお似合いですね」
どこからどう見ても良家のお嬢様としか見えない美しい容姿のアイリス。
そんな彼女に外見を褒められるとドギマギしてしまう。
「深みのある青色が素晴らしいです」
落ち着いた色じゃないとケバくなるからね! という本音は笑顔で呑み込む。
「アイリス様こそ、お仕立てがとても宜しくて。
どうか御贔屓にされている職人を紹介して下さいませ」
彼女は黄色だの橙色だの、そんな華やかな色も良く似合う。
清楚清廉な容貌だからこそのセレクトだろう。
気を遣うこともなく歓談しながら講堂に向かい、その重々しい扉をくぐった。
本当にアイリスは生徒会の癒しだ。年上の婚約者がいるからか、淑やかな落ち着きぶりに憧れてしまう。
彼女が卒業してしまう来年以降が恐ろしい……!
鬼が笑うような事を考えつつ、ブルブルと内心で震えるカサンドラ。
しかし培ってきた立場故、そんな動揺を表情に出さずに平然とできる。
――素直ではないな、うん。
主人公だったら表情もクルクル変わるし、自分の感情に明け透けだ。
自分にはないものだからこそ、憧れるのだろうか。
「やぁ、来たね」
大講堂の奥、舞台の上。
そこには既に男子生徒が集っていた。
こちらの姿を見つけ、声を掛けてくれたのはアーサー王子だ。
「お誘いありがとうございます」
彼の姿を視界に入れ、焦点を合わせた瞬間息を呑む。
黒い暗幕で天窓の採光を遮り薄暗い講堂内。
そこに光石という照明のために用いられる道具が皓皓と舞台上を照らしている。
雰囲気を本番に似せようと言うことなのだろう。それは良い、それは。
アーサー王子が段を降り、悠然と近づいてくる。
完全に王子様仕様の服じゃないか、目が潰れる! とカサンドラは鼓動が高まるのを感じる。
容姿が良いのは長所の一つとはいえ、顔面スペックが高すぎる…!
王子様が着る衣装、絵本や童話で見かける肩に乗せたふさふさの飾り――肩章というのだが、それがまぁ彼に何と似合っていることか。
濃藍色の衣装に金で縁取る白い肩章は、もはや彼のためだけに存在する付属品と言っても過言ではあるまい。
薄暗がりの中でも彼自身が光源ではないかと錯覚する煌びやかさ。
アイリスと一緒に王子に礼をするが、想像以上に王子様な王子が心臓に悪い。
王子という単語が脳内で飛び交い過ぎてゲシュタルト崩壊を起こしそうだ。
「人数も揃った。
先に僕達から皆に聴いてもらおうか、アーサー」
その煌めきを更に二乗にせんとばかりにラルフが私服姿でアーサーに声かけをする。
紅い瞳、蜜色の金の髪。
アーサーとラルフは遠縁であるらしいと思い出す。
具体的に似通った顔立ちではないのに血縁を感じさせる高貴さを纏う。
ラルフの一つにまとめた後ろ髪が、段を降りるたびにゆらゆらと揺れた。
「ああ、すぐに準備しよう」
そう答え、もう一度アーサーがこちらに向き直る。
「カサンドラ嬢、今日のその髪型は貴女に良く似合っているね」
「あ……ありがとうございます……!」
流石王子、紳士の紳士たる由縁だなぁ、と。社交辞令とは分かっていてもつい頬が紅潮してしまう。
仄暗い講堂内でよかった。
婚約者の髪型の普段との差異を逃さず、ちゃんと指摘して褒める。
そのような細やかな配慮でカサンドラの立場を立ててくれる、嫌味の無い振る舞いは確かに学園の令嬢達が虜になるのもわかるのだ。
彼は人が不快に思うようなことなんてしない。
立場を嵩に着て偉そうな態度でもない、常に謙虚だ。
……そりゃあ、ジェイクやラルフ、シリウス達が慕うわけだ。家同士の繋がり以上に、普通の感性があればこれほど仕え甲斐のある王族なんてそうそう見ないレベル。
わがまま放題で気品もなにもない粗野な王子、それは物語の中で見る分には嫌いじゃないけれど。現実問題、仕える主人が破天荒では困るものだ。
講堂の最前列に移動し、先に着いていた役員たちにも挨拶する。
本日は宜しくお願い致しますと頭を下げると、四名のクラス委員は皆弾かれたように立ち上がりペコペコと頭を下げた。
彼らは幹部ではないがクラスを纏めるクラスの長だ。そのクラスで最も影響力が強く地位が高い生徒が選ばれる。
だがカサンドラとアイリスの二人以上に身分の高い生徒などいるはずもなく、いつも腰が低い。
ラルフやシリウスの自分に対する扱いがアレなので、こうして畏れてくれる反応は大げさだなぁと苦笑することもあった。
そして彼らは皆、ほぅ……と息を呑み、言葉を失ってこちらを凝視する。
ああ、アイリスが傍にいるから彼女の楚々とした姿に見惚れているのかと思った。
が、どうやらその視線にカサンドラも入っているらしいことにぎょっとしてしまう。
自分は決して不細工ではないし顔立ちもそこそこ整っている方だと鏡を見て思う。
だが女性らしさや、守ってあげたい系の雰囲気は微塵もない。
どこまでも気の強そうなお嬢さんでしかない。
ただ格好がいつもと違うというだけで、相手の反応が違うと落ち着かない気持ちになった。
彼らは口々に普段とは違う姿を褒めてくれはするが、それが何とも面映ゆくて恥ずかしい。そんなに髪型でイメージ違うのか、今度この髪型で通学してみようかなんてチラっと考えた。
普段攻略対象や王子の視覚的暴力に打ちのめされることの多いカサンドラだが、良かった、お世辞でも褒めてもらえる程度には見れる格好なのだと胸を撫で下す。
「騒々しい。――早く掛けなさい」
しかしそんな様子をうんざりした様子で一瞥したシリウスは最前列の中央に陣取ってクイッと眼鏡を上げる。
その高圧的な言い方は彼だから似合う。
申し訳ありませんと謝りながら、カサンドラとアイリスは二列目の席に腰を下ろす。
自身の持ってきたフルートを大事に空いた場所におき、壇上の二人を見上げた。
いつの間に運び込まれたのか、ピアノのセッティングもばっちり。
そしてこの後のお遊び合奏用の場所までちゃんとスタンドが用意されているのだから周到だ。
……お遊び? 本当に?
緊張で口から心臓が飛び出て来そう、つい俯く。
だが直後に、ステージから二人の奏でる音が講堂内に響き渡ったのだ。
音響施設ではない講堂である。
それにも関わらず彼らの音は明瞭にこちらの心を感動に震わせる大きな力があった。
サロンで聴いたお試しの合奏ではない、彼らが丹念に音を繰り返し合わせてきたそれらは見事に調和し、それぞれのソロパートも二人の技巧に瞠目する。
最初は優しくスローな曲が転調し、ピアノを操る王子の長く白い指が軽快に跳ね小気味よい音を奏でた。
ラルフのヴァイオリン奏者の姿は絵画に切り取って残したいくらい様になっていて、その一弾きは間違いなく絶賛されるに足る領域。
視覚でも聴覚でも、二人の演奏がグイグイと感動のツボを押してくる。
……こんなの、他の生徒が見たら感激の渦に包まれるに決まってる。
下手をしたら失神者でも出るんじゃないかと今から要らぬ心配をする始末だ。
是非ともリタにこのラルフの姿を見て欲しいものである。
彼らの演奏は二十分にも及んだが、時間の経過を感じさせない。どの曲も素晴らしい。
合奏する曲はそのままだと長すぎるので、彼ら自身で編曲したらしい。それがまた良いのだ。
編曲さえも易々こなすなんて、彼らは作曲家かな?
もらった感動に惜しみない拍手で堪え、カサンドラは全身幸福感で包まれた。
音楽は万国共通。
綺麗な曲は人の心を揺さぶり、心地よさを与えてくれる。
「清聴ありがとう。
……さて。先日触れたとおり、君達もここに来てもらえないだろうか」
まだ今の音楽の余韻も冷めやらぬ中、ラルフが客席側に座っていたカサンドラ達に呼びかける。
本当に――この二人と一緒に合奏?
いいの?
プロに混じって素人が参加していたら、それだけで台無しになるのでは。
だが皆、緊張するそぶりはない。
別に間違えても上手くできなくてもそれはそれで、という呑気なものだ。
カサンドラもそれくらい気楽に参加したかった。
でももしも音を外したりトチってしまえば!
王子の前でラルフやシリウスに嘲笑されるなど耐えられない……!
有能であることのアピールはできなくとも、せめて涼しい顔で彼らについていけるというスタンスを貫きたいのだ。
自分でも背伸びしたがりのええかっこしいだということは承知の上。
そうでもないと……
この超ハイスペック王子の隣に立つのは無理! 恥ずかしい!
何の才能もない凡人が彼の隣で右往左往して彼の評価まで傷つけることなど許されない。
――婚約者失格。
一度烙印を押されてしまえば、払拭するなど限りなく困難。
足元を掬おうと虎視眈々と狙う王子の親友がこちらを鋭く睨み据えている。
その眼力に負けないよう、カサンドラもアイリスの後ろについて壇上に上がった。
「……あっ……」
軽い眩暈がカサンドラを襲った。
最後の一段で、足元が少しもつれてしまう。
一週間近く続く寝不足のせいだろうか、先ほどの演奏でピンと張っていた緊張の糸が切れてしまったのだろうか。
両手で持っているフルートを傷つけるわけには……
「――大丈夫?」
何が起きているのか瞬時に状況が分からなかった。
自分は惨めにも舞台の上ですっ転んで醜態を晒すものだとばかり、固く目を閉じて覚悟していたのだけど。
だが何故か自分は転んでなどいない。
誰かに支えられている。
誰かって、そりゃあ。
今現在耳元で心配そうに声を掛けてくる王子以外ありえないわけで!
背後から抱き留められ、抱えるフルートごとそのまま、ポスッと――彼の腕の中に。
カサンドラは息をするのを忘れた。
間近に迫るアーサーと目が合って、心臓が止まってしまったんじゃないかと思う。
パニック状態の自分の頭から蒸気が出ているのではあるまいか。
近い! 顔が近いです王子!
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