第37話 彼女の弱音
誰もいない静寂の廊下にカサンドラの靴音だけが反響する。
月曜日――ということは、今日は王子と放課後に会えるはずの日だった。
カサンドラは一見何でもない風で澄ました様子で鞄を提げ、長い金の髪を揺らして廊下を歩いている。
もしも誰かとすれ違ったなら、にっこりと微笑んで朝の挨拶を交わすだろう。
だが心の中は、誰もこの廊下を通るな、と強く念じながら走りだしそうな足を懸命に抑えているところだった。
いつの間にか週明けの恒例行事と化してしまった、王子への手紙を生徒会室に忍び込ませるための早朝行軍。
誰かに手紙を書くということがこんなに時間がかかるものなのだ、と。
奇しくも毎週実感しているカサンドラである。
本当に軽い気持ち、良いアイデアだと手を打って始めた事。
その始まり自体は奏功したものの、継続することになるとは……
カサンドラは日曜日の午後、インクと下書き用紙をふんだんに使い、王子へ渡す手紙をしたためる。
書く内容はとても難しい。
己の知らない間に校内で好きな相手に恋文を渡すことが流行っていて驚いたが、生憎自分はその流行に乗れそうもない。
カサンドラの書いている手紙は似たような装いでも全く異なるものだから。
そう、手紙とは本来己の胸の内を文字に起こして相手に過不足なく伝えるためのもの。
……カサンドラは誰もいない生徒会室の前でピタッと立ち止まり周囲を見渡す。
本人の中では忍者のような素早い動きで室内に入り、無人の室内でようやく人心地つくことができた。
鞄の中から萌黄色の封筒をそっと取り出す。
もっと可愛げのある、クラスメイトの柔らかな雰囲気のお嬢さんだったらこの手紙の中は『婚約者』に対する想いが切々と語られているものかもしれない。
一瞬自分もそうしたらどうだろうかと真面目に想像したのだが。
想いが重い! と速攻二つに割いてゴミ箱行きになるだろうことは確実だ。諦めた。
かと言って事務的過ぎても読んで楽しいわけではないだろうし。
色々悩んだ結果、例の滝を見に行った事を少しだけ書き添えることにした。
アレクと一緒に行ったとは、弟を亡くしたことを未だに悼んでいる王子に言えたものではない。
誰と行ったという情報はぼかし、滝の荘厳さや架かる虹の美しさに言及して結ぶことにする。
もしも文通というやりとりならば、どこかに質問の一文を入れておけば相手からの返答でお互いのことを知り合うことが出来る。
だがこのように一方的に渡し続けることは、かなり負担が大きいことだ。
でも王子に皆の前で――手紙がもらえるのかだなんて、ああ言われてしまったらカサンドラには渡さないという選択肢はない。
あの場限りのフォローのつもりで、実は欲しくないという本音だったらどうしようと迷いはあるが、そこは黙殺。
本当に
彼の人当たりの良さ、誰にでも平等に優しく贔屓や差別をすることのない人格者。
紳士的な振る舞いが常であり、ポーカーフェイスを崩すこともない。
内心をどうやって推し量れというのだ。
それが生来の気質とは異なる仮面だとしても、彼は望んでその仮面を被っている。
無理矢理引っぺがして詰め寄ることは失礼極まりないし、そんなことは出来るはずもない。
まぁ、とりあえずは現段階で『悪意の種』とやらの呪いの影響を受けている様子はない。それが唯一の朗報か。
彼の傍にいると心がドキドキして高揚するのに、とても穏やかだと感じる瞬間も多い。
悪魔だの魔族だのの悪しきものの呪いにかかったら、どこかが濁るものだろうし行動や言動も変わってくるだろう。
あんな優しい雰囲気を纏える悪意とは一体……、という根本的矛盾に突き当たる。まだセーフ。
このまま何事も起きなければ、彼はこの国や世界の敵として立ちふさがる事はない。
そっと彼の机の引き出しに封筒を置いて、生徒会室を出る。
本来ここは、カサンドラが長居したい場所ではないのだ――
静かに誰にも見られないように生徒会室を辞した、その直後。
「カサンドラ様ー!」
待ってましたと言わんばかりに急に声を掛けられて、心臓が口から飛び出る程驚いた。
ドッドッドッと激しく駆け巡る鼓動を押さえるように胸元に片手を添え、カサンドラは声の主を確認する。
「……リタさん……?」
助けてください! とカサンドラの前で半泣き状態のリタを目の前にして大変混乱してしまう。
黄色いリボンをつけた、元気印の三つ子のリタ。
彼女が肩を震わせ、かなり追い詰められた様子で訴えてくる。
その姿は普段の彼女から想像することも出来ないもので、カサンドラも彼女に駆け寄って彼女の丸まった背中を撫でてあげる。
本当に涙をポロポロ零しているわけではないが、気合でそれを我慢しているリタ。
「一体何があったのですか?」
まさかジェイクが何かやらかして、その余波を食らって他のお嬢さんに虐められでもしたのだろうか。
一番ありうる可能性を想定しつつ、リタの言葉を待つ。
「私……皆に迷惑かけてばかりで、もう嫌なんですー!」
カサンドラに前面から抱き着き、窮状を訴える。
彼女は自身の抱える事情を話していくにしたがって落ち着きを取り戻していった。
だが語られる話にはカサンドラも愕然とする他無い。
「もう私、選択講義が怖くて怖くて……!」
がくがくと震えるリタ。
彼女が気になっているラルフを『攻略』するために必要となる気品を上げるために彼女に提案しているスケジュール。
その中で週に二日は絶対気品関係に影響のある講座をとるようにと強くお願いしてある。
毎週二日でもぬるいと思う、かなりギリギリのラインだ。
出来れば四日入れたいとカサンドラが打診したらリタが白目を剥いたのでとりあえず今は週に二日。
何も言ってこないからそれなりに何とかいっているものだと勘違いしていた。
四月の後半、剣術講座でいっぱいいっぱいのリゼのフォローに回り一緒に身体を動かしてようやく筋肉痛も感じなくなってきたわけだ。
――リタは持ち前の明るさや元気さで何とかなっているだろう。
無根拠な信頼があったが、実態は散々だったようだ。
彼女はマナー講座やピアノ鑑賞、テーブルマナーなど諸々の気品に関わる指導で皆に迷惑をかけまくっている、と。
最初は庶民のリタがわざわざ選択して学ぶ姿勢を温かく見守っていた他の生徒も、毎回毎回大きなドジをやらかしてしまうリタに辟易状態。
失敗しないように意識すればするだけ、リタも委縮したり空回ってしまって恥を掻く。
「今日は社交ダンス……なんですけど。
また誰かの足を踏んだらとか、こけちゃったらって考えたら……
寝付けなくて夜明け前に目が覚めちゃって――」
日々クラスで接する彼女は、そんな失敗やへこんでいる様子を見せることなどない。
先週だってずっと三つ子で揃って談笑していたし、小気味よいリタの会話は健在だった。
そんな窮屈で辛い想いをしていたのかと、カサンドラは己のことばかりにかまけていた自分を悔いた。
リゼだけでなく、リタだってリナだって苦手なことにチャレンジしているのは変わらないというのに。
普段の様子から全く気づかなかったのだが、どよーん、と暗い影を背負うリタの表情は驚くものである。
一頻りカサンドラに訴えかけ終わると、少しスッキリした様子。
カサンドラの体から手を放し、決まりが悪そうに力なく笑う。
「カサンドラ様は月曜日の朝は早く登校する……って話を聞いたので、今日は二人を置いて先に来ちゃったんです。
愚痴を聞いてほしくて、ごめんなさい!」
教室にいなかったから、こっちかなって。
その情報の出所は間違いなくデイジーだと思われるが、カサンドラがこそこそ王子に手紙を置きに来ているなんて事実がバレるのも困る。
出来れば彼女達が誰にも噂話として撒きませんようにと祈る他ない。
「私が大雑把でテキトーなのが良くないって分かってるんですけど」
はぁ、と大きな息の塊を吐く。
運動神経が良くて体力がある、力持ち。
それだけでは繊細な所作をマスターすることは困難だ、女性の動きにはしなやかさ、余韻だとか丁度良い加減も大事だ。
何事も全力投球で取り組むリタには絶望的に合わないのだろうな……
そう言えば彼女達と一緒に食事をしたこともないので、そこも気になるところだ。
リナは大丈夫そうだが、残りの二人は大丈夫か。
「今週は無理ですが、来週からはわたくしもリタさんと一緒に参加できるようにしますね」
ありがとうございます、とリタは小さく笑う。
だがすぐにしょげ返り、視線を廊下に落とすのだ。
「あの……このままだったら、私、六月の生誕祭欠席した方が良いのかなって。
皆の前で失敗して迷惑かけたら……。笑われるのも、最近ちょっとキツくて」
そのあたり、リゼとリタは随分違うと思う。
リゼは生来勝ち気な性格、例え叱られても笑われてもそれを気にせずマイペースでやるべきことが出来る性格だ。
他人に左右されないと言えばいいのか。恋愛関係には相当弱いが、それ以外は結構な鋼メンタルだと思う。
リタは普通の元気な女の子。普通の女の子、だ。
他人に迷惑をかけても平気な無神経だったり鈍感な女の子でもない。
ましてや周囲の令嬢達からクスクスと嘲笑され続け、平気で居られるほど能天気でもないのだ。
失敗ばかりでうまくいかず、己の振る舞いにすっかり自信を失ってしまったようである。
これはカサンドラが下手を打ってしまったということではないか、と申し訳ない想いになってしまう。
午前中はクラスの授業、そして午後の選択講座は気品パラメータ底上げばかりを狙うスケジュールに勉強を詰め込んで。
体力があるし多少の無理くらい大丈夫に違いない、と悪い方に楽観していた。
自分のやりたいことは出来ず無理なことばかりを押し付けられたリタも、愚痴の一つや二つ言いたくなるだろう。
カサンドラはそれが正着だと分かっている。
でもそんな未来を知らない彼女達にとっては理不尽極まりない事象だろうし。
リタはカサンドラを非難しに来たわけではないのだろう。純粋に本当に困っているから正直に吐露してきただけだ。
だからこそ何とかしてあげたいと思うのだが……
生誕祭を欠席などとんでもない。
まだ告知こそ行っていないが、今年の生誕祭はラルフの独奏会になる可能性が極めて高いのだ。
それを見逃してしまっては、間違いなく彼女は後悔する。
「そのように気がかりでいらっしゃるなら、生誕祭までの土曜日を使って特訓しませんか? わたくしの邸をお貸ししますわ」
今週はリタの気合で乗り切ってもらわないといけない。
来週からは自分もフォローに入るように予定を整えればいいが、果たしてそれだけで間に合うのだろうかという不安は残る。
この様子だと効率も悪そうだし、パラメータの伸びも芳しくないに違いない。
それでは三学期のラルフの必須イベントが起こせない……!
まだ序盤とは言え、スタートダッシュは大事だ。折角のリタの恵まれた体力から、このやる気の減少はあまりにも勿体ない。
「カサンドラ様、良いんですか!?」
どうせカサンドラにパラメータなど無関係なのだ、ここは精一杯三つ子の後援に励むべし。
勿論ですわ、とリタの肩に手を添え微笑んで見せた。
※
王子と一緒に選択講義を受けたのは、初日が最初で――そして最後だった。
最初は避けられているのかとも思ったが、王子は本当に様々な講義に参加しているらしい。
剣術を同じ日に選択した偶然があったものの、当然班分けでは別々。
アーサー王子の剣の腕前はジェイクが認める程なので、才能皆無の初心者たちと戯れることもない。
折角の同席チャンスを逸して一か月が経ってしまった。
王子がハイスペック過ぎて辛い。
「王子には必要のないものだとは存じますが、マナー関係の講座に参加なさったことはありますか?」
一週間に一度、僅かに王子と会話できる貴重な時間。
どんな事を話そうかと考えているものの、今日はどうしても気になってしまって失礼なことを質問することになってしまった。
あらゆる講義を満遍なく渡る王子なら、リタの様子を見かけたことがあるのではないかと。
挨拶もそこそこに、カサンドラは遠慮がちに訊いてみることにしたのだ。
「勿論、何度か参加させてもらったよ」
「あの……同じクラスのリタさんの事なのです。
彼女の様子を何か御存知ではありませんか?」
するとアーサーは不思議そうに首を傾け、怪訝顔。
眉根が少し寄り、どうしてそんな話をと言わんばかりの表情でまじまじとカサンドラを見やってくる。
カサンドラだって本当はもっと聞きたいことはある。
役員会で後回しになった独奏会のジャッジは既に行われたのか? 尋ねてみようと意気込んでいた。
そもそもどうして彼が手を挙げたのかという動機の部分も聞けたら嬉しいなと思っていたほどだ。
だが今朝のリタの様子を思い出すと、どうにも王子との会話の時間が落ち着かないというか――
自分ばかり王子の隣に座って穏やかな時間を過ごすことに罪悪感がひしひしと押し寄せてきて、どうしようもなかった。
関係がない事と言われればそれまでだが、心に蟠っていることがあると他の事を素直に楽しめないものである。
「リタ君がどうかしたのかな」
「選択講義で大きな失敗を重ねてしまったと、落ち込んでいらっしゃるのです。
詳細はお聞き出来なかったのですが、もしかしたら王子が御存知ではないかと……
失敗の原因が分かれば、わたくしもリタさんに何か協力できることがあるかもしれません」
根掘り葉掘り失敗談を聞くのは難しい。
同じ講座に参加した他の生徒に聞くなど以ての外だ。
カサンドラがリタの失態を暴いて嘲笑しているだなどと思われたら、大変なことになる……!
本人が口を閉ざすならば、カサンドラが実際に現場を目撃する他ない。過ぎ去った過去の講座内容を確認するなど当然無理だ。
……アーサーならばカサンドラの意図をちゃんと汲んでくれて、誤解せずに話が出来るのではないかと思った。
悪意を以て他人の行動を評すれば、どれほどまでも悪し様に表現できる。
王子は自分を肯定してはいないかもしれないが、否定的ではない――一々人の行動を裏を読んでそれを友人にヒソヒソ陰口を言う人には思えない。
アーサー王子が何も知らないのならそれまでだ。
この話はここでおしまい、後はリタ本人からじっくり聞くしかないだろう。
「リタ君……か。
あの日、私がいたせいかも知れないね。
彼女には申し訳ない想いをさせてしまった。その言いようでは随分気に病んでいるようだね」
そう言ってアーサーが目を伏せる。
話は非常に単純なことだ。
リタ達身分の低い庶民や低位貴族グループはお茶くみ、つまり紅茶を給仕する練習をしていたそうだ。
爵位を持つ令嬢と言っても、もっと上位の貴族や王族に侍女として仕えることも考えられる。
だからこそ、振る舞う側と振る舞われる側に分かれて応対の教えを受けるというのは何の問題もない。
……リタはどうやら王子の隣に座るどこぞの貴族の令息に紅茶を差し出す時、思いっきり手を滑らせて零してしまったそうだ。
その琥珀色の飲み物の飛沫が、なんと王子の制服の袖にかかってしまった……らしい。
「――――!?」
それを聞いたカサンドラの顔も真っ青である。
まさか王子がいる場所でそんな失態を……!
それはあの元気娘も落ち込むわけだ。
周囲もフォローできず、かなり殺伐とした空気になっただろうことは間違いない。
戒厳令でも敷かれたのだろうか、リタがこの件で罰せられたという話は聞いていない。
万が一シリウスの耳にでも入ろうものなら、遠慮なく彼は不敬だとリタをつるし上げただろう。
そうなった場合ジェイクがキレそう。
…………戦争でも起こす気かな?
心の中で滝のような汗を流すカサンドラ。
アーサーも事態が深刻にならないよう、予め皆に口止めをして広まらないよう尽力してくれたのだろう。
流石、危険予知能力の高い王子様。完璧な手腕である。
恐ろしいことは、きっと彼女の失態はそれだけにとどまらないのだ。
絶望的なまでに気品関係の講座は大雑把かつドジっ子、ガサツな彼女との相性が悪い!
特訓……。
申し出たのはカサンドラの方だ。だがその提案は正しかったと言わざるを得ない。
――特訓。いえ、合宿が必要かしら?
カサンドラは真顔でリタの顔を想い浮かべ、頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます