第38話 <リタ>

 彼女はリタ・フォスター。

 戸籍上”二女”として記されている三つ子である。


 彼女は幼い頃に夢を見た。


 この学園に入る前、一度だけ本物のお嬢様に会ったことがあるせいだ。

 物心がつくかつかないかの時分。自分たちの町を領地の一部として治めるセスカ伯爵が視察に訪れた時のことだ。


 ――伯爵家のお嬢様は二人娘と、そして末っ子の長男。

 リタ達よりも十は年上のお嬢様達は見たこともない綺麗な洋服を着こなしていた。どこを切り取っても美しい絵画のような御一行だったと記憶している。



   あれがお姫様…!



 それは美しく華やかで、脆く儚い夢であった。


 鮮烈な記憶はリタの中に根付いていたが、それも年月を経る程に現実を思い知らされて夢からゆっくり醒めていく。

 親の農作業を手伝う、家の手伝いを強いられる。

 毎日の生活は結構楽しんでいたのだけど、ふと自分の指を見てがっかりしてしまうのだ。


 そこにあるのは細い指。でも擦り切れ赤い筋が入り、ささくれ立った指。


 絵本の中のキラキラした世界とは無縁の普通の農民の娘に過ぎないのだと。


 限界まで膨らんだ泡が一瞬で弾け飛び、そこで自分の夢は終わりを告げる。



「………ほぇ!?」



 本当に現実世界の自分に戻り、覚醒する。

 リタは寝間着のまま。


 恐る恐る室内の時計を見ると――これからどう素早く準備をしても遅刻は免れない時間を指していた。

 一気に血の気が引いてベッドから跳ね起きる。

 実家の寝台よりも寝心地の良いベッドのせいで寝過ごすことは多かったが、今日はリゼもリナも起こしに来てくれなかったのかと絶望しながら服を着替える。


 ああ、うっすらと『先に行くねー』と声を掛けられたような気がする。

 眠さにかまけて適当にむにゃむにゃ返事をしたこと以外、全く覚えていない。ヤバイ。


 昨日寝不足だったせいで今日は寝過ごしてしまうなど。睡眠欲求の正直さには我ながらあきれ果ててしまう。


「うわぁ……これ、間に合わないよ」


 全力で朝の支度を行い、バタバタと鞄の中身を確認する。

 元々整理整頓好きとは言えないリタだが、今に限っては空き巣でも侵入して荒らされた後のような悲惨な様子を呈していた。

 バタバタと急いで身支度を整え――

 一瞬置き去りにしようかと思ったが、既に自分達三つ子の判別記号と化している黄色いリボンを手に取る。

 栗色の髪にリボンをつけ、玄関扉前の姿見で全身チェック。


 遅刻は勿論褒められた行為ではないけれど、普通の生徒なら教師から小言をいただく程度で済むだろう。

 

 しかしリタは今置かれている状況が宜しくない。


 学園側から要注意人物として教師陣から目をつけられていることは間違いなかった。

 選択講義での数多の失敗は学園側も許容量を超えているのではないかと怖い想像をしてしまう。


 この上遅刻をして生活態度が悪いと指摘され――特待生の権利を没収されてしまったら。

 この学園から追放処分を受けてしまうことも十二分に考えられた。


 自分はリゼとは違う。

 彼女のように自力で難関試験を突破できるような地頭を持って教師に一目置かれているわけでもない。

 リナのように学園の令嬢たちと仲良くなって溶け込んでいく社交術など持ち合わせていない。


 二人のおまけのような状態、お情けで仕方なく入学を許可されたようなものだと理解している。

 未だに何故自分が特別に入学を勧められたのか理由が分からない。


 ……このまま何も出来ずに退学処分という体で厄介払いされたらどうしよう!

 今からでも体調が悪いと寮監に告げて休ませてもらおうか……

 そんなずるい考えが頭の中を過ぎるが、そんな不誠実な己の思考を頭を振って払う。

 能力にも家柄にもこの学園で誰より劣る自分が正直ささえ失うのであれば、一体どんな顔をして次の日から姉妹やカサンドラ達と顔を合わせて話をすればいいのか。

 体調を崩したなんて嘘をついても、昨日カサンドラにあれほど愚痴を聞かせてしまった後なのだ。


 講義が嫌でサボっていると看破されてしまうに違いない。

 カサンドラに心配されるだけではなく、がっかりされたり幻滅されたら起き上がれないくらいダメージを負う。それだけは避けなくては。


 かと言って今から全力ダッシュでも間に合うまい。


 学園前の門が閉ざされてしまえば中に入れないのだし、遅刻扱いで中に入れてもらうしか――



 リタは禁断の手段を決意した。できる事なら卒業まで使うことはないまま終わりたかった。ここは腹をくくるべきだ。

 正攻法で突っ切ることが出来ないのなら、別の個所を突破する他ない。


 校舎の最西側の壁、あそこは確か医務室くらいしか目立った施設がなく人通りも少ない。

 あの近辺の壁をよじ登って乗り越えれば、遅刻扱いで事情聴取されることもないはずだ。


 ――そうしよう。


 グズグズと悩んでいる暇はない。

 校門閉鎖の鐘の音を耳が拾って、もはや一刻の猶予もないとリタは持ち前の足の速さで街路樹の脇を駆け抜けていく。



 真っ直ぐ向かえば誰かに見咎められてしまう。

 壁に沿い、小走りで駆けながら目的地近辺に辿り着いた。

 緊張のせいか少し息が荒くなるのを深呼吸で整える。


 自身の身長よりも高い壁だが、決して届かないわけではない。

 これを越えて校舎に入れば、今日のところは非難の目から逃れられるはずだ。


 リタは邪魔な学生鞄をえいやと壁の向こうに放り投げ、聳える壁を前に腕まくり。


 肩をぐるぐると回し、爪先で地面をトントンと蹴る。

 どうせ遅刻を見咎められても己の立場は危ういのだ。


 今日だけ、今日だけだからと自分の中の良心に言い訳を繰り返し壁に向かって走る、そして垂直に飛び上がり壁の縁に両手をがっちりと掴む。

 滑り落ちそうになる指先に力を込め、自身の身体を持ち上げる――!

 ぐぐぐぐぐ、と腕に一層の力を。


 これは懸垂!


 そう己に言い聞かせ、ようやく片肘を壁の上に掛けることに成功したリタ。

 間髪入れず、勢いに任せて足も上げ上半身を壁の上まで持ち上げる。


 ここまでくれば後は簡単だ。リタはミッションの成功を確信し内心でガッツポーズ。

 だが勝利の余韻に浸っている暇はない、壁の上に乗る姿を誰かに見られたら終わってしまう。


 地面に向かってひょいっと飛び降り、先ほど投げ入れた鞄を持って教室に…………


「あった……」


 鞄はすぐに見つかった。

 だが鞄の傍に、誰かの足が見える。


「………!?」


 まさか教師はおろか、生徒の姿などこの時間にあるわけがないとタカをくくっていたリタである。

 人影を確認した瞬間、息の根が止まるかと思った。


「…………。」


 その人影は無言のまま、今リタが降って来た壁の上、そしてリタとを交互に視線を移す。

 それを二往復ほどさせた後、何事もなかったかのように微笑むのだ。


「――怪我はないかな?」




   ラルフ様!?




 ヒィィィィィ! と心の中で悲鳴を轟かせる。

 この場にどんな化け物が出てもここまで驚かないだろうが、自分にとってこの学園で最も現状遭遇したくない人が眼前に!?

 なんで!?


 混乱でぐるぐる回る目。

 ようやくリタは、彼が一匹の犬を腕に抱いているのに気づいたのである。

 手元に何かの紙片を持ち、ひょいっと茶色い毛並みの犬が胸元に。


「ら、ラルフ様……? あの、こちらで一体何を……」


 多分それを問いたいのはラルフの方だと思う。が、僭越にも先に問いたださずにはいられなかった。


「犬の鳴き声が聞こえたから探していたんだ。

 ……どうやら迷い込んでしまったらしい」


 そう言って犬に視線を落とすラルフ。

 土埃にまみれた犬は決して綺麗とは言えないけれど、ラルフが抱え上げているというだけでブルジョワ仕様の犬種に見える……!


 よく見ると犬の前足にうっすら血が滲んでいる。

 どこかで怪我をしてしまったまま、こんな校舎の奥まで逃げ込んでしまったのか。


「君も怪我をしないようにね、気を付けて」


 困ったように苦笑するラルフを前に、もう蒸発して空気と化してしまいたいくらい恥ずかしかった。


 野良と思われる犬を抱え上げるラルフは犬好きなんだろうか。

 犬の鳴き声が聞こえるからと探し、しかも自身の制服が汚れることなど一切意に介さない彼には驚かされる。


「僕は医務室でこの子を診てもらうよ。

 君は早く教室に行った方が良いのではないかな?」


「は、はい……!」


 それにしても、傍で見ると目が潰れるんじゃないかというくらい輝かしい。

 綺麗な長い金髪を首元で一つにくくり、真っ赤な瞳のヴァイル公爵家の跡取り公子様だという。

 親戚に王家筋の方がいるという話も聞くし、王子の側近で幼馴染というのもよくわかる貴公子である。


 しかも見た目だけではなく、実際に優しいのだなぁ、と驚いた。

 樹から滑り落ちた後の対応に完全に心を射抜かれて熱烈ファンと化していたリタであるが、こんな一面もあるのかと感情が騒がしく。

 本人が目の前にいなかったら、キャーキャー叫びだしたいとさえ思うくらいだ。


「ああ、そんなに暴れては危ない」


 ラルフがもう一度犬の位置を正そうと腕を動かした時、彼は手に持っていた数枚の紙片を滑り落としてしまった。

 勿論をそれを黙って見過ごすなどあるはずもなく、リタは散らばる紙片をすぐに拾い上げる。 

 数枚の紙を即座に拾い上げ四隅を合わせて綺麗に重ねると、その紙が何であるかは一瞬で分かる。


「楽譜……?」


 ピアノの時間を思い出して顔が歪みそうになるが、ぐっと堪える。

 五線譜に並ぶ黒いオタマジャクシはリタのにっくきかたきのようなものだ。


 この学園に通う生徒の殆どはピアノやヴァイオリンを嗜む上流階級ばかり。

 音楽に触れるという体で初心者向けのレッスンをとってみたら、滅茶苦茶スパルタな上で譜面を読めない自分は参加したことを後悔せざるを得なかった。


 繊細さに欠ける自分に、楽器の演奏などそもそも無理なのだ。


「ありがとう」


 彼は片腕で犬を抱きかかえ、空いた手で譜面を受け取ろうとした。

 が、その手を直前で止めすっと上部へと上げていく。


「リボンの位置が歪んでいるよ」


 側頭部に留めたリボンの位置を、ラルフの白く長い指が直してくれる。

 非常に自然に所作に、リタはまるで彫像が如くカチコチに固まったまま、両手で譜面を差し出すポーズのまま。


 いやこんな安物に手が触れたら指の先が穢れますと訳の分からないことを口走りたくなるほどの大混乱である。

 さりげなく何の嫌味もなくなんてことをさらっとするのだ、これだから紳士は!


 そんな容姿で優しい声で――今しがた見たはずのリタの奇行に眉一つ顰めることなく普通に接してくれる。軽蔑の眼差しで見られても文句は言えないのに、彼はなんてことの無い顔のまま。


 この学園には美男美女ばかりが集められているような気がするが、その中でもラルフと王子に関しては群を抜いているというか。

 間近で見てしまえばまさに視界が眩む。


 御伽噺に出てくる白馬の王子様がそのまま現実にそっくり魔法で出てきたような男性だった。


「ほら、直った」


 彼は口元を笑みの形に保ちつつ、リタの手から楽譜を受け取る。

 百年経ってもリタなどでは弾くこともできないような難しい、見たこともない記号の乱舞する楽譜は彼の手元に戻ってしまった。


「あ、あの……いつも……変な姿で、申し訳ないです。

 ええと! い、以前貸して頂いた上着は……!」


「ああ、そういえばそんなこともあったね。

 あれが君の部屋にあっても邪魔なだけだろう、届け物として生徒会室に置いてくれればそれで構わないよ」


 邪魔とかそんな馬鹿な!

 もしも保管していていいなら子々孫々までの家宝に――いや、邪魔ではないが返す方法があるのならそれは返却せねばなるまい。


 制服の上着だけで金貨十枚はくだらない気もする。

 ……いくら彼の厚意とはいえ、ネコババするような真似は慎むべきだ。


 どうせ返すのだったら、直接返せたらいいのに。

 でも多くの生徒の前で返すわけにもいかないし、生徒会室に届けるのが一番……なのだろう。


 チラ、チラと。

 名残惜しそうにラルフの姿を見納めようと視線を揺らす。

 それを彼は楽譜に向かっていると思ったのか、たった今リタが拾ったばかりの楽譜を指先で揺らす。


「これは今年の生誕祭で弾く曲だよ。

 生徒会室に置いていたから取りに来たんだ」


 楽譜を回収に来た際に、犬の鳴き声に気づいた――と。当然そんな壁内の事情を知るわけもないリタが空中から飛び降りてきたら驚くだろうな……


 はしたない、非常識、と顔を顰められてもおかしくないのに。

 彼はいつだって柔和な笑顔でリタを非難することは最後までなかった。



 生誕祭。



 リタはカサンドラに言った通り、欠席しようか本気で悩んでいた。

 また何か失敗をしてしまったら一緒に参加していた生徒達だけでなく全校生徒の笑いものになってしまって、姉妹たちにも迷惑をかけるのではないかと悩んでいた。


 カサンドラは自宅で一緒に特訓しようと誘ってくれたけれども、そんな付け焼刃で自分がマシになるのだろうかと。

 折角デイジーも服を貸してくれると張り切っていたけれど辞退しようかなぁ、と。

 自分の実力や性格は誰よりも自分が良く知っている。

 努力すれば何でも叶うというには自分の立ち位置はあまりにも低く、前向きになることがとても難しかった。


 だが今、リタは己の耳でしっかりと拾い上げてしまった。

 ラルフが女神様の生誕祭で――何か楽器を演奏すると!?


 乏しいリタの知識ではその譜面が何の楽器なのか見定めることは出来なかった。

 だが彼がピアノにせよヴァイオリンにせよフルートにせよ何にせよ、演奏を披露してくれる……だって……?


「ラルフ様が演奏されるんですか?」


 天は二物も三物も与えるのか。

 この上更に、そんな絵になる光景が似合う特技を持っているとは……!


「未熟な腕で女神様にはご不満かもしれないけれどね。

 心は籠めるよ。どうか君も楽しんで欲しい」


「勿論です! 私、凄く楽しみです!」





    ――週末の特訓に命を懸けよう。 

 



 先の見えない遠い目標よりも、目の前にぶら下げられた近い目標。



 リタの完全に削がれていた意欲がフル充電された瞬間である。







 ※






 リタが鞄を拾い上げ、信じられない風のような速さでラルフの元を去って行く。

 その姿を完全に見届けた後――


 彼は近くの壁を手で何度もバシバシと叩いて声を出して笑っていた。

 その様子に怪我をして大人しくなっていた犬もビクッと毛を逆立てる。



「……いやいや。この壁を女の子が身一つで越えるとか……何それ。

 特殊潜入員にでもスカウトすべきなのかな。

 はは、ジェイクあいつの好みは摩訶不思議だな、理解が難しいよ」



 クローレス王国ヴァイル公爵家嫡男ラルフは、笑い上戸な少年だった。



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