第35話 意外なお誘い


 昨日ジェイクと話をした後しばらくカサンドラの心は無我の境地だった。


 色々と突きつけられて情報を整理しなければいけないのに、思考が上手くまとまらない。

 最後の最後で自分は何を口走ってしまったかと、思い出すたびにその場にゴロンゴロンと転がりたくなるくらい恥ずかしい。


 この先思い出すたびに心が病んでしまいそうなジェイクとのやりとりの一切を忘却したい。いや、王子に関することだけは覚えておかなければいけないのか……

 だが好きな場面だけを切り取って記憶したり、忘れたい記憶だけを消去できる人間など存在しない。


 とりあえず一晩経って起きた後、決意した。

 待ち望んだ休日、己の心身を休め受けた精神的ダメージを回復する時間にしょう。


 今日は一日、心と頭を空っぽにして一週間の疲れを癒すことだけに専念することにした。


 同じ屋敷で自分の目付け役として暮らす義弟アレクも、流石に下校も遅く生ける屍のような様子で帰宅したカサンドラを見て驚いていた。

 ああ、彼が心配そうに声を掛けてくれたのは何日ぶりだろう?


 入学したての頃はカサンドラの元気がなければ『姉上!』と心配そうに駆け寄ってくれた優しい弟。

 それが最近は「ま た か」と胡乱な表情で生ぬるい応対をするようになってしまったのだ。


 確かにカサンドラにも非がある。

 ある朝はニコニコ嬉しそうにしていたのに、帰宅したら生気の無い沈んだ顔を見せたり。

 トボトボと顔を蒼白にさせて登校する日もあれば、馬車から降りた後スキップせんばかりのテンションの高さを発揮する日もあり。

 彼のまだ通わぬ学園という場所は、カサンドラの様子だけを見るならば中で何が起こっているのか理解不能な世界と化しているに違いない。


 普段からこの様子、頻繁に繰り返されれば慣れるものである。


 乙女心は秋の空。

 そんな恋する少女のふんわり感とは隔絶したジタバタみっともなく足掻く現実模様に、カサンドラはもはや溜息も出てこなかった。



 この土日が終わったら王子に会える。

 けれども果たして独奏会の件はどうなったのだろうとか。

 何よりジェイクの姿を見れば苦虫を噛みつぶした顔になりそうなのを抑えるのに苦労しそうだし。


 一番悩んでいるのは、王子とどう接すればいいのかということだ。

 彼の力になりたい支えたいだの、肝心の方法が思いつきもしない。

 アーサーが紳士的に振る舞ってくれるのを一喜一憂するだけで、一体何の役に立てるというのだ。


 自分は大した人間ではない。

 ……あんな悲しい過去を持つ王子に対し、何の苦労もなくヘラヘラ生きてきた自分がどんな力になれると……?



 一抱えもあるような大きくて重たい岩をぺらっぺらの一枚の紙で包み込めるわけがないだろう、と真面目に思う。

 自分の人生なんざ前世も合わせてA4用紙一枚分のペラい何のドラマもない薄いもの。

 そんな自分の薄っぺらい人間性に今更落ち込む。



「――姉上、今日は僕と一緒に出掛けませんか?」


 頭の周辺にどんより黒い雨雲を纏うカサンドラに思うことがあったのか、突然アレクが誘いの言葉をかけてくれた。

 朝食を摂っている最中も心ここに在らず状態でぼーっとしていたカサンドラは彼の声を一瞬スルーしかけた。


 だがすぐに顔を上げ、正面で苦笑いするアレクの姿を視界におさめる。

 動揺してドギマギする自分が情けなくもあった。


「急にどうしたのアレク?」


 茶を濁すように引きつった笑みで反応すると、彼は十歳の少年には似つかわしくない嘆息をつくのだ。

 見かけは将来が楽しみすぎる美少年だというのに、中々堂に入った所作をすると感心してしまう。

 これも侯爵の後継ぎ教育の賜物か。


「遠い場所ではありませんが、王都の外に出掛けようと思っています。

 バスケットに軽食を詰め準備するように言ってますが、姉上も一緒にいかがですか?」


 そう彼が勧めてくれたのは、王都より外に位置する若干鄙びた山間の絶景スポットだそうだ。

 馬車で片道一時間半程度と近く、道は敷かれているし車窓の景色も良いとのこと。


 アレクが誘ってくれた事は驚いた。

 今まで姉と弟という立場でも一緒に行動することが極めて少なかったから。

 同じ屋敷にいても食事の時くらいしか顔を合わせる時間もなく、互いに日頃何をしているのかは闇の中状態。


 家庭教師が出入りしていることは知っているので、勤勉で真面目なアレクは日々励んでいるのだろうということだけは確かだ。

 今まで血の繋がらない義弟として接していたが、こうして彼から声をかけてもらえるのは殊の外嬉しいものだった。


「折角アレクが誘ってくれたのですもの!

 勿論、わたくしも一緒に行きたいです」


 差し詰め、日帰り遠出の観光ピクニックと言ったところか。

 サンドイッチや軽く抓める果物などを持参し、綺麗な景色を眺めながら食す。


 想像しただけでとても素敵だ。


「では支度が終わり次第お迎えにあがります。

 ……気分転換もいいと思いませんか? お互いに」


 彼は魔性の如き微笑みで、そう言い添えた。

 白銀の髪に透き通る碧眼の完璧な美少年。


 十歳の子供に出来る微笑みか? とパンと一緒に疑問を飲み込む。

 御三家御曹司に勝るとも劣らない将来有望株が義弟として現れたことがちょっと悔しい。


 まだ彼は社交界に顔を出したことがないのだけど……

 正式にレンドール侯爵家の後継ぎ養子としてデビューした暁には凄い騒ぎになりそうだ。


 義姉として変な虫がつかないように見張っておかなくては、と今から心配でしょうがない。

 もしも変な噂つきの令嬢が粉でもかけてこようものなら追い払わなくては――と思った瞬間首を横に振る。


 いいえ、いいえ! それは駄目ね。

 実際に会って為人ひととなりを確かめてから賛否の旗の色を決めるべきだわ!


 自分の苦い経験を思い出し、暴走しかけた姉心を押しとどめる。



 ただし為人をよぉく知っているケンヴィッジの妾腹三姉妹、あれは駄目だ。

 目をつけられたら、カサンドラは奴らの家を爆破に行くかもしれない。




 可能性的にはなくもない話だ。あちらも婿入り先探しには余念がなかろうし。

 くれぐれも父には選択肢に入れるなと忠言しておかなくては……!


 心優しき先輩のアイリスに迷惑をかける、その前に。




 ※




 少しばかり山間の道を歩くということなので、手持ちで最もシンプルなワンピースと底の低い編み上げブーツで向かうことにした。

 毎日通学のために使用している馬車にはレンドールの家紋が掲げられ、大きなサイズなのでどこに行っても目立つ。


 御者は行き先を間違えないようにと幾度も地図を確認し、念のため馬車の傍には護衛を連れていくことにした。


 王都内の治安は良いが、郊外に向かえばそうとも限らない。

 世継ぎのアレクと王妃候補のカサンドラに何かがあれば大問題だ。

 本当は十人以上同行するとの申し出を、郊外でも治安の良い田舎だからと三人にまで減らした。彼らも凄腕の戦いのプロだ、信頼している。


 こういうとき、もしもカサンドラが剣の使い手だったり魔法の使い手だったりすれば、身の安全を護衛に全て委ねることなどないのだろうが。

 ないものねだりをしてもしょうがない、以前リゼに言った通り護衛の仕事を奪ってもしょうがない話だ。


 気分転換――か。

 カサンドラは毎日繰り返される波乱の学園生活から。

 そしてアレクは別邸に籠りきりで後継教育を強いられる毎日から。


 それぞれの立場は違うけれども互いに気分を一新したい! という想いは一緒であったようだ。こういうとき、年は離れているが家族が一緒にいてくれて良かったと思う。

 一人のまま屋敷に籠っていたら、流石のカサンドラも気が滅入ってしまうところだ。慣れない生活での目付け役と父は言っていたが、カサンドラへの気遣いでもあったのだろうか?

 父の内情は娘の自分も推し量るのは難しい。

 ただ単に、評判が良くない娘を見張るためだけにアレクを遣わせているだけかもしれない。





「……わぁ、素敵!」





 感嘆の声を上げ、カサンドラは目を輝かせた。


 馬車が山道に入った時にガタガタと揺れてお尻が痛くなりかけたが、水の音が聞こえて二人は馬車を降りた。

 バスケットを両手で持ち、足取りも軽く前に歩く。

 アレクは飲み水を入れた水筒を提げて進み、何故か焦った様子を見せた。

 水筒は皮で作られたもので、アレクが一歩進むだびにちゃぷちゃぷと音を立てていた。

 その水筒の音も足音もすぐにもっと雄大な水の音にかき消されることになる。


 カサンドラ達の視線の先には、勢いよく流れ落ちる滝がある。

 滝を上から見下ろせる場所にしっかりとした柵が張り巡らされており、他にも何人かここを訪れてその景色を眺めていた。


 滝の飛沫が陽光を反射し綺麗な虹がかかる。

 鮮やかだ。ふわっと幻想的に浮き上がる虹の半輪が壮観な滝を彩っていた。


 成程絶景スポットというのは偽りがなく、ドドドドと絶え間なく落ちる水の音が遥か下から反響して迫力も満点だ。


「姉上、あまり前に行っては危険ですよ」


 転落防止の柵の自己主張は強いので、彼が不安げな顔をする必要もなさそうなものだ。

 王都や町の中ではこんな光景をお目に掛かれるわけでもなく、近くの町が保養スポットとして案内の看板を立てているのも納得である。


 山道を歩くと言っても、この山腹の台地の傍まで馬車で上がれるのだ。

 カサンドラは自前の馬車と護衛を引き連れてやってきたけれど、乗り合いの馬車を使えばすぐに着ける。

 登山と表現する険しさは無いから、ハイキングやピクニック程度の軽い気持ちで足を向けることができる滝の名所だ。


 もしも三つ子の誰かが後半戦でデートに行きたいと言い出したら、選択肢の一つとして是非お勧めしたい。心の中の攻略情報にこの場所を書き加えた。


「大丈夫ですよアレク、柵も二重です。

 乗り越える方が難しいでしょう」


「……。僕はあまり高いところが得意ではないんです」


「ではどうしてここに来ようと?」


 素朴な疑問とともに首を傾げると、アレクは拗ねたような顔で唇を尖らせた。


「この滝はとても景色が良いと有名ですから。

 今の季節は特に、風光明媚で」


 本当にそれだけが理由なのだろうか。

 アレクはカサンドラが想像するよりずっと賢い子供だ。

 だから自分の行く先くらい、ちゃんと把握して出かけるはずなのだけど……


 近くの台にバスケットを置くと、アレクが耳の傍で囁いた。


「姉上。

 ここなら、水の音が話し声を隠してくれます。

 誰にも話を聞かれることはありませんよ」


 ニコッと微笑む彼の言葉に息を飲む。

 慌てて周囲を見渡すが、確かに……


 滝を眺めて楽しそうに会話をしている人の数は十人を下らず、それに少し離れた場所には当然カサンドラ達の護衛も控えている。

 よっぽど大きな声で叫ばなければ、彼らはこちらの会話など聞き取ることはできないだろう。


 今自分達が眺めている優美な滝の水量が、水の勢いが、白い飛沫が……

 雑多な音さえ全て呑み込んでいく。


 隣にいる相手と会話を交わし合う、それだけでも意識して声を張らないとあの滝の勢いに攫われてしまいそうだった。


「誰にも……とは、一体どういうことなのです、アレク」


 すると彼は、いつも通りの仕草でやれやれと肩を竦め呆れた感情を隠さない。


「姉上、何か悩んでいるんでしょう?

 ――それこそ、誰にも言えないようなこと」


 父である侯爵にさえ、知られたくない『悩み』が。


 ニコニコ笑顔で核心を突かれ、取り繕うことも出来ず顔に動揺がにじみ出る。

 そんなことはないと否定しようとしても、彼は首を横に振った。


「昨日の姉上の様子は尋常ではありませんでした。

 貴女が情緒不安定なのはいつものことですが、昨日に限っては…何故かどうしても気になってしまって」


 いつも情緒不安定で悪かったな、でも色んなことが起こり過ぎて毎日心が忙しいのだと内心で必死に抵抗してみる。


「学園に入って姉上は変わられました。

 それは良いことだと思います、評判も上々のようですし。

 ただ……

 慣れない良い子を演じすぎて精神に異常を来し、そのせいでお疲れなのではありませんか?」


 口元に緩く握った拳をあてて、クスクスと笑うアレク。


 柄にもないことをしているから無理が来たのではないか、と。

 この義弟はカサンドラに問いただしているのか……?


 入学式の前日、前世の記憶を思い出した。

 カサンドラというこの世界の人間は、その前後で大きく人格が変わってしまった。それは事実。

 その時最も間近で変化の様を見届けたのが――このアレク。


 彼はあの日、カサンドラが記憶の箱の鍵を開けた瞬間傍にいた。

 同じ屋敷、家族だからその変化も顕著に把握でき、未だに不審に思っている……?


 いくらアレクが賢い子供でも、まさか今のカサンドラの真実に思い至ることは不可能だろう。

 それがすんなり受け入れられるような世界であれば、カサンドラだって最初から隠さなくても済んだわけだ。



  ――私、実は日本という国に住んでいたOLの生まれ変わりだったみたい。で、ここはゲームの中の世界なのよ!



 うん、無理。

 仮に言ったところで、一層不審がられるだけ。

 気が触れた、狂ってしまった。

 この世界に精神診断はないはずだが、支離滅裂なことばかり主張すれば理解できない存在として隔離される可能性も…!


 自分はこの世界にとって整合性のある人間だとアレクには信じてもらわなくてはいけない。

 女神さまや聖女が責任を以てカサンドラの真実を保証してくれるなら話は別だが。


 この世界の魔法でも説明がつかない現象を喚き立てたら――自分に不利だ。

 

「何て失礼な事を言いますの!?

 わたくしはそのようなことが原因で気が塞いでいたわけではありません!」


 だからアレクの失礼な探りの一手を否定するしかない。


 憤慨し、この件については自分は正常だと彼に知らしめなければいけないのだ。



「ではやはり深刻な悩みを抱えているんでしょう?

 あんなに憔悴するほど、姉上はお悩みだったんです。

 ここなら誰にも聞かれません、僕も侯爵には伝えるつもりはないです。

 頼りないかもしれませんが、僕に教えてくれませんか?」



 アレクの裏も見えない純粋な申し出がクリティカルな一撃となり心に突き刺さる。


 そうやって正面切って気遣われたら、今のカサンドラは洗いざらい全部話してしまいたくなるではないか。

 ただでさえ衝撃的な事実が発覚して狼狽えるばかりだというのに。




   ぎゅっと唇を噛み締める。



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