第26話 エンカウント
放課後は頑張ろう!
そう心に決め、歴史講義を行う講義室に足を踏み入れる。
スッと後方の扉から中に一歩踏み入れたカサンドラは、今日一番の驚愕を味わうことになる。
えっ。
王子がいる!?
講義室の窓際、中段。
まさにキラキラと輝く存在が、光の粒子を纏って静かに座って待機している。
彼は厚い書物に目を通し、周囲の様子を一切シャットアウト中。
だが彼の周囲には、まるで誘蛾灯に引き寄せられる昆虫の如く周囲を陣取る高位貴族のご令嬢達の姿も。
カサンドラが動揺でその場に立ちすくんでいると、自分の姿をいち早く発見したデイジーがわざとらしく声を張り上げた。彼女とは約束通り同じ講義を選んでいる。
「まぁ、カサンドラ様もこちらにいらしたのですね!」
その瞬間、広い部屋中の全生徒の視線がこちらに一気に向けられた。
そして王子に近い席に座っていた令嬢達は、ひそひそと小声で話をした後若干不満げな表情でありながらも退いていく。
誰が命令したわけでもないのに、なんと統率の取れた行動なのだろう。
「カサンドラ様、王子のお隣が空いてらしてよ?」
さぁさぁどうぞ、とニコニコ笑顔のデイジー。
確かに王子の隣は空いている。
普段の授業そして講義では彼の周囲はシリウスやラルフ、ジェイクが陣取っているもので。
当然そんな中にずうずうしく割り込める生徒などこの国に存在するはずもなく、カサンドラが王子の傍の席に座るなどありえないはずだった。
が、今は王子の隣が綺麗に空席である。
まさかアーサー王子がこの講義を選んでいるとは予想外。
それぞれ得意分野が決まっていて、その方面の講義を選択する三人とは違い王子は本当に予測がつかないことだった。
周囲の視線には羨望や嫉妬、好奇心など諸々が入り乱れていて結構負担が大きい。
この状況でカサンドラが彼の隣に行かない方がおかしな話だ。
誰にも悟られないよう喉を鳴らす。
もしも彼に嫌な顔の一つでもされてしまえば立ち直れない。
座った瞬間、音もなく彼が席を立ったらどうしよう!
心臓はバクバクと全力を出し尽くしている状態なのに、表情だけは平然と余裕を持たせたものでいなければ。
「恐れ入ります、王子。お隣に座っても宜しいですか?」
すると彼は紙面から顔を上げ、カサンドラの顔を見つめる。
その綺麗な顔が博愛に満ちた微笑みを讃え「勿論、どうぞ」と難なく許可してくれた。
もう安堵するどころの話ではない。
張りつめていた緊張という名の風船から、フシューと空気が漏れていく。
「一人で居たいんだ」「少し困るよ」とかそんな感じでやんわり断られてしまったら明日からどんな顔をして教室に入ればいいのかわからない。
ここは午前中接するクラスメイトよりも、他のクラスや学年の生徒が多い場所。
王子と婚約者は不仲らしい、相手にされていないらしいなんて噂は一夜にして駆け巡るわ。
登校拒否一歩手前。怖い。
最悪の事態を回避できたカサンドラは、静かな所作で席に着く。
彼は長い講義机の一番端に座っていたが、その列には誰一人荷物を置いている者はいなかった。
カサンドラの存在で撤退済み、おかげで彼を退かす事無く隣に座ることが出来たのは幸いである。
鞄の中身を机の上に置こうと、カサンドラは無心の境地で準備を進めていく。
いや、本当にここで遭遇するとか想像していなかったし!
本番は放課後だと意気込んでおり、いきなり不意打ちを急所に食らって息も絶え絶え。
彼については様々な意味で失敗できないので、傍にいられて嬉しいという感情よりも緊張が勝るのだ。嬉しい、けど。
外見が好みから始まったけれど、彼の優しい眼差しや声音。何より彼の傍にいると感じる静かで柔らかい空気が好きだ。
いくら悪人が善人面を装っても、纏う雰囲気まで清廉でいることが出来るだろうか。もしも王子が悪事に手を染めているなら、真面目に真夏の夜のホラーより怖い。
チラ、と横に視線を遣る。
窓から射す昼過ぎの眩しい陽光に負けない、綺麗な金の髪。
知性と穏やかさに満ちた、読書を続ける彼の蒼い瞳。
長い睫毛、横からでもわかる均整のとれた顔立ち。
他人を拒絶するような冷たさはなく、孤高の存在でありながらも慕われる存在。
完璧すぎない……?
ジェイクがあんな風に王子を評したのも分かる、この瑕一つない珠のような王子である。
食事の時も彼の斜向かいで盗み見しているけれど、真横にアーサー王子が!
そう思うと指先が震える。
「あっ……」
カサンドラは、そこで痛恨のミスを犯してしまった。
鞄の中に入れたままにしていた王子の手紙――昨日必死で文面を考え何十枚も紙を無駄にした苦労の結晶が。ジェイクとラルフのせいで今朝忍ばせることが出来なかったソレが!
ふわっと、それはもう綺麗に机から滑り落ちてしまったのだ。
しかも窓側の通路に!
王子の、足元!
どうする。気づかないふりをするか? 何もなかったで押し通せるか?
何故講義前からここまで頭をフル稼働しなければいけないのか。
己の震える指先をキッと睨み据えるが、やらかしてしまった以上どうしようもない。
落としたことに気づかなかった体で、帰りに王子が立ち去った後速やかに回収しよう。
誰も気づかないでくれ――
「これは、手紙?」
ですよね、自分の足元に真新しい感じの手紙が落ちていたら読書中の王子は気づきますよね!
心の中で滂沱するカサンドラの事情など知らない王子は、身を屈め手を伸ばして薄桃色の封書を手に取った。
「カサンドラ嬢、この手紙は私宛と書いてあるようだけれど。
……このままもらってもいいのかな?」
「え、ええ。勿論ですわ。
お渡しするはずが指が滑ってしまいましたの。大変申し訳ありませんでした、ご容赦ください」
王子の気遣いに感謝するカサンドラ。だが周囲の生徒たちがヒソヒソと怪訝そうに雑談を始めるではないか。
『手紙って、どうして婚約者のカサンドラ様が?』
『わざわざ何なのかしら? 文通?』
『日頃顔を合わせてるのに、何で?』
などなど。
王子の行動は一挙手一投足、須らく人目があるものだと感心する。
が、それに巻き込まれる方としてはたまったものではない。
ヒソヒソ声が近くの席を中心に教室全体まで波及しようとしていく。
早く講師が来ないかと助けを求めたが、生憎あと数分は待機の時間だろう。
文通は遠距離恋愛の際にはメジャーな連絡方法であるけれど、毎日のように学園で話をしているのに何で? と不思議に思う生徒の気持ちは分かる。
話したいことがあったら、普通に話せばいいじゃない?
と、令嬢たちも怪訝顔。
「王子にお会いできない二日間が長く感じられ、ついこの想いを文字に起こしてしまいましたの。
お見苦しい文章で恥じ入るばかりですが、どうか受け取って下さいませ」
胸元に右手を置きキリッとした表情で、止む無くカサンドラは言葉にする他なかった。
こんなこっ恥ずかしい事を、多くの生徒が聞き耳を立てている中で宣言しなければいけないとは。
なんという辱め……!
王子は薄桃色の封書と、カサンドラの表情を静かに見比べる。
あまりまじまじと確認しないで頂きたい、羞恥心で心が死ぬ。お願いだからそれを早くしまってください…!
しかも内容は恋文などと口が裂けても言えないような簡素な文章なのだ。
万が一にもこの場で開けて読むなど突飛な行動に出られたらと思うと肝が冷える。
そんな事態になればカサンドラは恥ずかしさのあまり気絶して、医務室に運ばれることになりかねない。
「ありがとうカサンドラ嬢。
またこうして手紙をもらえて嬉しいよ」
彼はにっこりと微笑んで、それを自身の鞄に入れる。
良かった、延命した…
王子も内情はどうあれ、公的に認められた婚約者に公衆の面前で恥をかかせるような男ではなかった。
優しい、紳士!
『まぁ、恋文ですって?』
『意外ですわ、カサンドラ様はそのような事をされる方には…』
『見かけと違って乙女な方ですのね』
『謙虚な上になんて初々しい』
『めっちゃ健気じゃね? 王子良いな~』
ヒソヒソヒソヒソ。
止めてくれ!
せめて自分に聞こえないようにして欲しい!
悪役令嬢という立場を任されて生まれた人物に転生した。
可愛げなんて元々なかったし、気が強い女性だと多くの人間に印象付けるカサンドラ。
こんな生ぬるい――そう、まるで温かい木漏れ日に包まれるような雰囲気は初めてのことである。
もはやどう反応すればいいのか分からず俯くが、碧の目はぐるぐる回りそうだったし。
平静になればなろうとするほど、一層顔が真っ赤になるし。
再起不能に陥りかけたリゼのことをもう何も言えやしない。
一人沈黙して耐えている少女のそんな様子を見た周囲の生徒は、意外にも温かくほのぼのとした感情に満ちていた。
これが婚約者のいない令嬢と同じくいいところのお坊ちゃんとのやりとりなら嫉妬の炎が巻き散ったかもしれない。
だが真実を一旦棚に上げるなら、王子とカサンドラは全生徒が認める公認の仲である。
第三者の介入など本来あり得ない、そんな二人のやりとり。
カサンドラに対し烈しく嫉妬する女生徒でさえときめいて羨望の視線にとって替えてしまう。
年頃のお嬢さんは自他に関わらず恋愛の話が大好きだ。
目の前に、こんなやりとりをするロイヤルカップルがいれば恋愛譚を垣間見ている気持ちになるのもおかしくはない。要するに毒気が抜かれるという状況か。
それゆえにこの光景は日頃殺伐とした毎日を送る生徒たちに一筋の光と映り、清涼剤のような効果を齎したのだ。
――……実はこの学園内で最も王子と他人に近い女生徒、それが
自身に想う人がいる女生徒は自分も手紙を書いてみようと人知れず決意したり。
自分もそんな手紙が欲しいなーと羨ましがる男子生徒が手紙をもらって感激して一気に仲が進展したり。
婚約者や恋人がいる生徒も、カサンドラ程の立場でも恋文を贈るのかと言う衝撃を受け真似をする――結果的に絆が深まるなど。
当のカサンドラ本人は失態を誤魔化せた安堵感でそれ以外考えられない状況。そんな事態が生じるなど、ついぞ想像できるわけもなく。
この後しばらく学園内に空前のお手紙ブームが巻き起こったのを、不思議に思うだけだった。
直接的な被害を被ったのは言わずもがなの御三家御曹司、彼らの元に絶え間なく手紙が届き、その数に彼らは顔を覆うことになる。
急に始まった手紙の押し付け合戦がカサンドラのせいと知られた際、シリウスに『迷惑行為を推奨しないでもらいたい!』と強烈な叱責をいただく流れになるのだが。
何と言う理不尽。
とりあえず今は、平和の象徴に過ぎないやりとりだった。
講義開始の鐘の音と共に、ひょろっとした教師が重たい本を抱えて講義室に入る。
「……な、なんだか変な空気だな……?」
春の陽気に染まった桜色の空気が室内を覆っていた。
恥ずかしくて消えてしまいたい……。
※
まさか王子が歴史の講義を選択したとは、横に座っている今も信じられない。
この学園に入って初めて王子と肩を並べて学習できるなど、なんて運の良い話だろう。
あまりジロジロ見るのも失礼なので彼の横顔をたまにチラチラ伺う程度に留める。
選択講義に関しては、各々の教養を深めることを目的に行われるものらしい。
この学園に入学できる程度の学力と、基礎授業についていける生徒を対象に開かれていた。基礎科目が出来ない生徒は補習のため別行動なので除く。
多くの場合一つの講義で完結した内容を聞くことになる。
様々な分野での第一人者が講釈を行い、講師のやり方はさまざまであるが、一週間全く同じ講義内容で開かれるのが常らしい。
もしも続きを聞きたければ来週も選択して拝聴することになるが、週の後半は「飽きるから」と別の趣向を凝らした講義をする講師もいるので変化に富む。
生徒たちは講義スケジュールや内容を確認しながらワイワイ一週間の選択を埋めていくのだ。
選択講義は通常授業とは違う教養を高める自己研鑽分野なので、この講義で何を選んだかは直接学園内の成績には関係がない。
そのため選択講座を受けるのが面倒だと言ってサボタージュを敢行する生徒もいるが、お勧めしない。
向上心もない上最低限の決められた規則に逆らう生徒はチェックされ、厳しい評価を受けることになる。両親や後見人の元に厳重注意の警告文が届いてしまい、大目玉を食らう顛末が待っているだろうから。
カサンドラが自分で選択講義の二時間をフルで受けたのは当然初めてのことだ。
流石、その道の専門家。
彼の噛み砕いた歴史の説明は中々興味深く、参考資料を眺める頻度も多かった。
ゲーム内ならアイコンの選択一つで、経過も一瞬。
それがこんな重みを持っているのだなと体験している状況である。
多くの生徒の成績に直接関係がない選択講義は、全て主人公のためにあると言ってもいいだろう。彼女たちがスケジュールで選んだ関係パラメータは多少の誤差を以て増減し、その数値の蓄積がイベントやフラグの参照値になるのだ。
なお、学習系スケジュールは算術、歴史、政治の三種が付属パラメータとして存在する。
どれかの学習系の予定をこなせば科目と比例し知力も上昇する。大事なのはこの知力。
ED分岐やイベントフラグで参照されるのも知力の値なのだ。シリウスルート攻略中、日付強制イベントにて知力が足りずに『ちょっとお待ちになって!』とカサンドラのちょっと待ったコールを受け、それで何度もフラグが折れたことを思い出してしまった……
算術や歴史、政治などの個別値を参照するイベントは数える程度にちょこっとあるくらいか。
扱いは凡そフレーバーと考えて問題ない、会話の際に相手に感心されたりちょっとした追加文章が挿入される程度の扱いである。
でも褒められたら結構嬉しいので、ついガツガツ数値を上げたくなる。
まぁ、学期末の試験はその三種それぞれの数値に応じた点数で導き出されるので、名声の値を上げたいなら満遍なくが基本。
算術の数値でシリウスに勝つと愉快なイベントがあるのだが、それが本当に難しくて難儀した。何せ発生条件がリゼ以外の主人公選択時だから。
まぁ、そういう特典もあるので特定科目ガン上げという育成も結構面白い。
講義で起こるイベントを回収するために同じスケジュールを全力連打することはあれど、そこまで教科ごとの差異というかウエイトは大きくない。大事なのはあくまでそれらを総合した知力だから。
パラメータ画面にずらっと数値が並ぶと訳が分からなくなりがちだが、要点さえ押さえればいいのだ。
生憎この世界に転生した自分には数値が見えず、記憶と感触を頼りに手探りで予定を決めるしかないという縛りプレイ状態である。かなり辛い。
現実を生きている自分達に、数値によって管理された現象がどこまで影響を受けるのか? それはまだわからないのだけれど。
ただ数値の上がり下がりに頭を悩ませるのではなくて、現実に講釈を聴けて興味深く頷ける時間はとても貴重だと身に染みる。
時間が進むにつれ、放課後がヒタヒタと近づいてきて心ばかりが
進行の最後の方はもう頭に入って来なかった。
アーサーがこちらの視線に気づいて、にこっと微笑む。
それだけで心臓が煩くて、耳の端が熱い。
顔の赤みよ、早く引いてくれ。
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