第25話 拾い上げる手
「ありがとうございます。
折角貸していただいたにも関わらず大変恐縮ですが、これから妹達がタオルや替えの制服を持ってきてくれますので大丈夫です。
……それに、どのみち次の選択は着替える必要がありますし」
リゼは深々とシリウスに向かって頭を下げ、掛けてもらった上着をすぐに両手に取った。
「私のせいで濡れてしまいましたので、こちらは乾かして後日お返ししますね」
刹那、時が止まった。
何だこの空気は。
カサンドラは今までの人生でシリウスがこんなに「?」と言うマークを頭に浮かべてフリーズしている姿を初めて見た。
ゲームは基本的に静止している姿しか見えないけれど、実体を持って動くシリウスが見事に呆気に取られて動けない様子は中々にシュールである。
徹底的に誤解の余地なく辞退した彼女の内心はどうか分からないけれど、自分には勿体ないです、という遠慮に見せかける事には成功しているだろう。
並大抵の女子なら、普段のシリウスを知っているからこんな行動をされたら一瞬で絆されてしまいそうなものだけど。
恐ろしいことに、リゼの瞳は今まで見たどんな場面より冷静であった。
「そ、そうか……」
漸く絞り出したシリウスの声。
「だが次の選択講義が着替えとは妙なことをいう。
わざわざ着替えて講義に臨む者などいないだろう」
「私、今日は体術の訓練を選択してますので」
「――!?」
シリウスがこんなに二の句が継げない状態とは。
序盤の表情筋の仕事のしなささ加減は尋常ではなかったはずなのだが、こうして眺めていると割とわかりやすい。
彼の中では、絶対に座学の講義のどれかだと思っていたのだろう。
実際、カサンドラが修正を進めなければその通りに進んだはずだが。
幸いカサンドラのことを信用してくれている彼女たちは、自分のアドバイス通りに講義を選択し直した。
いきなり剣術というのも難しいので体力を上げるための体術は悪くない。
体力を上げることで疲労が溜まり辛くなり、後半にも効果が十分に生きてくる。
誰を狙うにしても、この値を先に上げておいて損はない。
本来運動嫌いの彼女には嫌で嫌で仕方のないことだろうが、リゼなりに考えた結果なのだろう。
「体術?」
聞き間違いか、と彼は眼鏡のブリッジを指先でクイッと上げる。
「申し上げました通り、私は運動神経が悪くて体力もありませんので。
苦手分野の克服を考えています」
「それは勿体ない――」
シリウスがリゼの考えを改めるよう進言しようとするのに被せるよう、彼女は妹たちの到着に気づいて手を振った。
「二人ともありがとう……
って、な、なんでジェイク様も!?」
急にリゼが狼狽しだすから何事かと思ったが、カサンドラの目にも彼の姿が見えて表情が凍りかけた。
ここは本来、人通りが少なく王子と会うにも絶好のスポットのはずなのに。
なんで今日はこんなに千客万来なの?
タオルと借りた制服を携え、リタとリナが駆け寄る。
その後に着いて悠然と歩いてくる赤髪の男子生徒を見つめた。
「なんだ、お前もいたのか。ちょうどよかった」
幼馴染の姿に気づいたジェイクは、そう軽い口調で話しかけた。
ここにシリウスがいるのもわけがわからないのに、何故ジェイクまで……
とカサンドラは、三つ子の様子を窺いつつも耳は彼らのやりとりを拾うのに忙しかった。
「お前を探してたらミランダに捕まりそうになったんだよ。
で、あいつらの進行方向と逆に逃げたらそこの三つ子に会ったもんだからさ、着いてきた」
そういうジェイクの視線の先には間違いなくリタがいるような気がする。
ああ、間違いなくリタがいるから同行したな、と推測できるのが色々と心に痛い。
さっきまでのやりとりを思い出すと一層。
ミランダ!
貴女の存在がこの場を大きく狂わせている事を反省してください!
大きな爆弾を可能な限り着火していくミランダ伯爵令嬢、見上げた青空で彼女が高笑いをする幻覚が見えた。
両手で頭を抱えたくなる衝動を抑え、カサンドラは誰にも気取られないよう溜息を落とした。
「私に用事?」
「昨日叔父貴が寮に来たのは知ってるだろ?」
「寮監が何やら言っていたな。
なんでもこの学園の生徒が暴漢に全治数か月の大怪我を負わせたとか。
暴漢相手とは言え……
よもやとは思ったが、やはりお前がやったのか」
シリウスの厳しい口調。
元々黙っていればそれだけで不機嫌だと思われるようなシリウスである。
そこに詰問口調が混じれば完全に叱責を受けたに等しい圧力を感じるのだ。
リタがリゼの背中を拭く手がピタッと止まる。
背中でもわかるぐらい、だらだらと汗を流し目に見えて動揺しているのが分かった。
昨日リタが飛び蹴りをした男が、逆に学園側にいちゃもんをつけてきたということか。
ジェイクの身内は基本軍人関係なので、治安関係に所属するお偉いさんと考えて間違っていないだろう。
流石に彼らの身内の所属先まで全て把握はしていない。
「アレは正当防衛で終わる話だ。
ただ、向こうがごちゃごちゃ言いがかりをつけてきやがってな。
生徒間に正確な情報を回すよう手配はしたが、これ以上阿保に絡まれるのも鬱陶しい。
意見書にサイン頼むわ。放課後、叔父貴んとこに渡しに行ってくる」
何? 副会長のサインが要る意見書って何!?
カサンドラは少し固まった。
「念のため確認する。先に手を出したのは相手側で間違いはないな?」
「当たり前だろ、なんで俺が何もしてない奴を殴る必要があるんだよ。
騒がなきゃ治療費せしめるだけで済んだだろうになぁ、度が過ぎる。
牢に突っ込んでくるわ。
――手続きにお前のサインがいるから、帰るまでに宜しく」
さらっととんでもないことを輝く笑顔で言い放つジェイク。
「ふむ……その方が面倒を元から断てるか」
昨日の話の流れ、そして今の話を総合すると……
リタが蹴り飛ばした重症の男性が治療院に担ぎ込まれて、それを学園側の生徒にやられたと騒ぎだした。
三つ子の素性など街で聞けばすぐにわかるだろう。それにジェイクの顔も名も、王都で知らない者はいないレベルだろうし。
男たちの訴えを受け事実確認のためにジェイクの身内のお偉いさんが学園にやってきたが、当然先に手を出してきたのは男たちの方だと報告。
だがいくらなんでも重症を負わせるまで行けば過剰防衛、多少の見舞金が出たのだろう。
それで事件が終わるはずだったが尚も煩く強請るような事を言い出した男たち。
学園の生徒がこんな大怪我をさせたんだと、己の素行を棚に上げ悪評を撒きかねない。
今後あることないこと騒がれる可能性を考慮し、正確な情報――生徒が大広場で暴漢に襲われかかった際、偶然居合わせたジェイクが返り討ちにした。……という話を広げるように動いていると理解した。
”俺が”殴った、と。
つまりリタを庇ってるわけだ。
全て事実なわけではないが、これが真実という体で行くとジェイクは決めたのだろう。話としては無理がない。
この正確な情報が一早くミランダの耳に入っていれば、リゼはあんな目に遭わなかったのだろうか? とふと考えたが、いや、どのみちジェイクと一緒に外から帰宅というピンポイント情報だけで彼女の中では
そのことばかりに拘泥して、噂の暴漢に遭ったのがリゼたちだった! ということまで思い至らなかった可能性の方が高そう。
うーん、と小さく唸るカサンドラ。この惨劇は回避できなかったのか…
まさか三つ子とジェイクを接触させるだけの話で、ここまでの事態が巻き起こるとは思わなかった。
それに加え、本当に申し訳ないことだがジェイクがここまで粛々と問題に対処できるような人間だと思ってなかった。
脳筋っていうイメージが強すぎたけど、れっきとしたお偉いさんの息子で将来有望株だったのである。
実際の人物として敷衍すると、イメージが結構変わるなと思うカサンドラ。
実際学園のイメージにも関わる、あまり騒がれたら世間体も悪いし。
が、その男たちも世間知らずではないか。どこの生徒に向かって喧嘩を売っているのか考えたら、愚かが過ぎる。
ただの金持ち学校ではないのだ。
結果的にキレたジェイクが、一切の面倒を疎んじて男たちを暴行容疑で牢屋入りさせることにした。
彼らがやったことはリナに声を掛け、腕をつかんだことだ。
それが……飛び蹴りを食らって全治数か月の重傷を負わされるわ、挙句の果てに牢屋入りか……
身から出た錆とは言え、錆が多すぎて大変なことになってしまったようだ。
太っ腹にも治療費をポンと出すと言われ、騒げばもっと強請れると目が眩んだのだろう。
人間、欲をかくとろくなことにならない。
それにしても……
飄々とそんな物騒なことを言うジェイクを見て、思うのだ。
この人は本当敵に回しては駄目だ。
カサンドラは真剣な面持ちで強く頷いた。権力って怖い。
こんな人がバックについてる主人公に嫌がらせなんかした暁には、比喩抜きで両翼師団から命を狙われかねない。
「了解はしてもいいが、ジェイク。
素人相手に何をやっている、手加減しろといつも言われているだろう」
ただでさえ、現在シリウスの機嫌は低空飛行だ。
呆れ、口調にも棘が混じっている。
「す、すみません! 申し訳ないです、私があの時……」
完全に声が上擦り、リタは何度も何度も頭を下げる。
普段元気が取り得の彼女も、ここまでジェイクに面倒をかけたことがショックだったのだろう、半分泣きそうだ。
彼女達にとっては、昨日の話はジェイクと会ってなんやかんやあったけれど、最終的にリゼがジェイクと一緒に帰れてよかったね、というところで終わっていたのだ。
まさかリタのやらかしたことを全部ジェイクが肩代わりして処理してくれていたなんて、夢にも思わなかったはずだから。
「気にするな、俺も珍しいもの見れたからな」
ハハハ、と可笑しそうに笑うジェイク。
わざわざリタを庇わなくても、女性の蹴りで肋骨粉砕なんて言われただけでは誰も信じないかもしれない。
比較的華奢な少女なのだから。
とりあえずこの件をこれ以上掘り下げられるのも双方都合が悪い。
ゆえに、カサンドラはたちまち濡れた箇所を上から抑えるようにして拭き、医務室から借りた上着を羽織るリゼに声を掛けることにした。
「リゼさん、大丈夫ですか?」
「はい、髪もすぐ乾くでしょうし。
さっきも言いましたけど、どのみちこれから着替えるんです。
着替えの部屋まで水に浸かってたのがバレなければそれで」
傍に寄って彼女の姿を見ると、ふわふわの栗毛はもう水滴は見当たらない。
リナの手によって丁寧に拭かれた髪、幸いにも濡れた箇所が上半身だけだったのでブレザーを羽織れば誤魔化せる。
「そういや、何でお前濡れてんの?」
ひょいっとカサンドラの背後から、ジェイクの声が飛んでくる。
その瞬間、リゼの表情が何とも言えない――喜べばいいのか逃げ出せばいいのか、それとも恥ずかしく思えばいいのかよくわからない。
様々な感情の混在を必死で取り繕い平然といようと口を引き締める姿に、大変申し訳ないが吹き出しそうになった。
「つ、躓いてしまって……
噴水に、頭ごとそのまま」
「マジで!? お前割と抜けてるな!」
ジェイクは遠慮というかデリカシーの欠片もなく、大笑いだ。
ああ、本当にあの日リタの前に通りかかったのがジェイクでなくてよかったわ……と思っていることなど、彼は知らない。
「こんなとこに顔突っ込んだ奴、お前が初めてじゃないか?」
貴方が原因ですけどね?
カサンドラとリナとリタは、彼の全く悪気なく爆笑する姿に総突っ込みを入れていた。
「……ん? あの赤いの、お前のじゃないか?」
噴水を眺めていたジェイクが目を細めるのを見て、続いて気づく。
先ほども見かけたが、噴水の中央に吸い寄せられ思うままもみくちゃにされる赤いリボンがそこにある。
「あ、本当ですね」
無意識にリゼは頭に手を添えたが、彼女達三つ子の識別機と化していたリボンは今そこには無かった。
あれをとりにいくとしたら中に入らなければいけない、流石にそこまでは――
とカサンドラも苦笑する。
が、ジェイクは何の躊躇いもなく靴を脱ぐ。
鼻歌交じりにひょいひょいと、精悍な体には似合わない俊敏な動作で水の中に入っていった。
はぁ?
ざぶざぶと音を立てて歩く彼は、水流に翻弄される赤いリボンが一番手前に押し戻される瞬間、ひょいっと掴み上げた。
再び戻ってきた彼は、噴水の縁に座る彼は濡れたそれをリゼに「ほら」と差し出す。
「あ、ありがとう……ございます……」
俯いてお礼を言うリゼの隣から、これをお使いくださいとリナが大きめのタオルを渡した。
彼の膝から下は完全にずぶ濡れである。
「お前、急に何をしているんだ」
「この後どうせ着替えるしな。
それがないと、他の奴らは区別難しいんじゃないか?」
先週、三つ子を指して『どれも同じ』とか言っていた人が宣うセリフですか?
喉まで突っ込みかかったが、ここは沈黙が金だ。
「だからと言って」
ジェイクの能天気な物言いに、シリウスはやはり顔を顰める。
「――…あ、あの! 私、準備に時間かかりそうなので……
皆様方申し訳ありません、お先に失礼します!」
耳の裏まで真っ赤になったリゼは、もはや色々と臨界点を突破してしまったようで――そのまま中庭から走り去ってしまった。
何だ? ときょとんとしながら自身の足元を乱雑に拭くジェイクと。
かなり仏頂面で、不機嫌オーラを隠さずジェイクを怖い顔で睨んでいるシリウスと。
皆、色々大変である。
一刻も早くここから去りたいと切に願う、いっそリゼを気遣って追いかければよかった。
「でも残念だな、剣術選んだなら一緒に行けたのに」
他意もなくそんな事をリタに言うジェイク。
権力とは別のベクトルで恐ろしい男だな、と苦々しくも思う。
あんなことを素面で――もしもアーサー王子にしてもらったらそれだけで一日どころか一週間以上頭がお花畑のままでいられる自信がある。
今頃リゼが再起不能になっていなければいいのだが……
講義の一回スキップは割と厳しい。頑張れリゼ。
さて、と心を落ち着ける。
ここまでリゼの状態にかかりっきりになってしまったけれど。
そもそも途中からカサンドラは半分以上空気と化していた。というか敢えて空気でいたかったので気配を消していた。
主人公と攻略対象のやりとりに嘴を挟んで被害の余波を食らうのは、怖い。
そもそもジェイクもシリウスもカサンドラの存在に気付いているのかさえ、定かではないわけで。
ここまで視界に入ってないと、いっそ笑えてくる。
それはそれで好都合。
このとんでもない濃密な昼休みを終え、選択講義が終わったら……
今度こそ、王子に会えるのだ!
他人事ではない、己の勝負所にカサンドラは人知れず武者震いを感じていた。
目指せ、王子との雰囲気重視の仲良し会話!!
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