エピローグ

 気持ちの良い午後の日差しが木々の隙間から降り注ぎ、きらきらと揺れている。青い芝生で遊ぶ小さな子供たち、追いかける若い母親、おどけてしゃべりながら遊歩道を歩いて行く学生たち。

 公園のベンチにひとり座っている宮野伊織は、その様子を微笑ましく眺めている。今年最初の蝉時雨が聞こえてきた。

 もう夏が近い。伊織は伸びをして立ち上がった。


 曹瑛と過ごした時間を今も思い出す。最初は観光案内のバイトと言われて、会ってみれば無口で無愛想、一体何者だと警戒していた。実際、裏社会に生きるプロの暗殺者と知ったときには逃げ出そうと思った。

 でも、一緒に飯を食べるのが楽しかった。お茶も教えてもらった。なんだかほっとけなくて、気が付けば裏社会の悪い奴らと戦う羽目になり、ついには中国までついて行くことになった。一生のうちにこんなスリルを味わうことはもう無いだろう。彼はもういない。


 文化の違いを知ることは面白い。曹瑛は日本文化に興味を持ってくれたし、無愛想なりにそれを楽しんでいたように思う。また、彼の教えてくれる中国文化に感銘を受けることも多かった。

 ハルビンから帰って、伊織は就職先を本気で探し始めた。たまたま見つけたのは、日本と中国の文化交流雑誌を出している小さな出版社だった。面接で曹瑛と過ごした日々の思い出を胸に文化交流にかける熱意を語ったところ、即採用された。


 小さな出版社なので記事の企画や取材、写真撮影、執筆までなんでもこなす必要がある。広告代理店のノウハウも生かしながら、自分の好きなこともできるやりがいのある職場だった。

 しばらく触っていなかった一眼レフも引っ張り出した。スタッフには中国人も多いので、語学の勉強にもなる。伊織はあれからも中国語の勉強を続けていた。8月発行の本は伊織が書いた記事も掲載される予定だ。


 今日は午後休みを取っている。懐かしくなって、池袋の烏鵲堂へ立ち寄ってみた。日本に帰国して何度か立ち寄ったが、しばらく仕事が忙しくて足が遠のいていた。

 路地へ入ると、そこはカードゲームの専門店に変わっていた。思わず店の前で立ち尽くした。店内に入り、店員にここにあった本屋がどこに移転したのか訊ねてみた。しかし、バイトの店員は何も知らないようだった。曹瑛に関するいろいろな物事が薄れていく気がして、また寂しさが蘇ってきた。


 夕方、新宿駅前に出かけた。焼き肉屋で待ち合わせをしている。

「榊さん、久しぶりですね。高谷くんも元気そうだね」

「久しぶりだな、元気にやってるか」

 元ヤクザの榊とその弟の高谷とはあれから時々会っている。というか、榊に強引に呼び出されるという方が正しい。彼なりに気を遣ってくれているのだろう、いつも良い店で彼のおごりなので伊織は逆に気を遣ってしまうのだが。


「伊織さんも元気そうで良かった」

 榊はヤクザには戻らず、実業家として活躍しているらしい。普段はオーダーメイドのスーツ姿で長い前髪を後ろに流しているが、今は前髪を下ろし、カジュアルな服装でまるで印象が違う。いつも榊と待ち合わせするときは、どこにいるのか目を凝らして探してしまうほどだ。

 高谷も就職活動や論文の準備でヒマなしだと言っていた。艶やかな前髪を時々手ぐしでかきあげる仕草はアイドル顔負けだ。


 肉を焼きながら近況を語り合うが、気が付けば曹瑛や劉玲の話になっていく。

「そういえば、ハルビンの老舗の水餃子は美味かったが、曹瑛が作ったやつの方が美味かったな」

 榊がぽつりと言う。

「それ、瑛さんが聞いたら喜ぶよ」

「奴が喜ぶか・・・どんな顔かとても想像できないな」

 確かにそうだ、そう考えるとおかしくて笑ってしまう。ひとしきり食べて、飲んで、笑った。またそのうち会おう、と別れる。彼らはそのままバーGOLD-HEARTへ行って飲み直しをするのだろう。


 部屋に戻り、郵便受けに入っていたものを確認する。近所にできたマッサージ店のチラシ、水漏れ修理のシール、ピンクチラシはすぐにゴミ箱に捨てた。

 そしてはがきが一枚。きれいな絵はがきで、緑色のタマネギ型のドームのついた教会の水彩画だった。この教会には見覚えがあった。ハルビンの聖ソフィア大聖堂だ。伊織の胸がドキンと高鳴った。

 震える指ではがきを裏返す。そこには流麗な文字で伊織の住所と名前、そして“ブックカフェ烏鵲堂オープンのお知らせ”と書いてある。場所は神保町、土曜日の10時開店。明日だ。その文字には見覚えがあった。


 翌朝、そわそわして眠れなかった割に早くに目が覚めた。顔を洗い、服を着替えた。ゆっくりと朝食を食べたがまだ8時だ。しかし、開店ちょうどに行ったら忙しくしているかもしれない。

 伊織は逸る心を落ち着かせて考えた。そして立ち上がった。靴を履いて部屋を飛び出した。鍵を忘れてすぐに走って帰った。はがきを手に電車に飛び乗り、神保町を目指す。

 駅からのシンプルな地図が書かれている。書店街の一角にあるはずだ。歩く速度がだんだん早くなり、走り出していた。何を期待しているのか、はっきりと分かっている。でも、もし、違ったらどうしよう。そんな不安が頭をよぎる。


 気が付けば烏鵲堂の前に立っていた。池袋にあった看板に追記してブックカフェと書いてある。店の前には開店祝いの豪華な花が並んでいる。店内を覗き込むと、一階には書棚が並び、二階がカフェになっているようだった。古い店舗跡をそのまま利用しているようだが、リノベーションしてアンティーク調にアレンジしてあり、古くさいという印象はなくセンスの良さを感じた。


 はたと気が付き、開店祝いの花に書いてある名前を見る。

―榊エンタープライズ

―上海九龍集団

 伊織は目を丸くした。後ろから肩を叩かれ、振り返る。そこには孫景が立っていた。大きな蘭の鉢植えを持っている。

「よう、伊織も来たのか」

 孫景は店頭に勝手に花を置いた。そのまま開店前の店に入っていく。伊織はあっけにとられて立ち尽くす。


「良いお店ですね」

 いつの間にか横に高谷が立っている。

「悪くない」

 その後ろにはスーツ姿の榊もいた。黒のピンストライプのスーツ、グレーのシャツに青いネクタイで髪を軽く後ろに流した姿はカタギには見えなかった。ご丁寧に縁なしの眼鏡を掛けているのが何故か余計に怖い。今日は仕事モードだからな、と言いながら店に入っていく。高谷も後に続いた。

 おいてけぼりを食らった伊織も思い切って扉に手をかける。


「久しぶりやな、伊織くん」

 その関西弁に卒倒しそうになった。振り向けば、飄々とした笑顔で劉玲が立っていた。

「え、え、え、何で・・・劉玲さん!?ハルビンで爆発に巻き込まれて死んだんじゃ・・・!?」

 伊織は目眩を覚えた。

「なんや、伊織くんは今まで知らんかったんか?あそこから奇跡の大脱出!話聞かせてあげたいわ」

「それって、まさか・・・」

「まあ、いこ!」

 劉玲に押されて烏鵲堂に押し込まれた。入ってすぐに2階のカフェに上がる吹き抜けの階段、店内にはぎっしりと本が詰め込まれた本棚、店の奥には茶葉や茶器をディスプレイした棚、試飲コーナーがあった。そこに皆が集まっている。シックな黒い長袍に身を包んだ細身で長身の男が振り返る。


「久しぶりだな、伊織」

 ぎこちなく微笑むその顔を見た瞬間、伊織の目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。

「瑛さん・・・!」

 はがきを手にしたときから心のどこかで期待していた、曹瑛の姿だった。涙が止らない伊織をみんなが慰める。

「生きてたんだね」

「まあ、いろいろあった」

 曹瑛は気まずそうに頭をかいている。

「良かった・・・瑛さんが死んだって・・・思って・・・」

 涙と鼻水が止まらなかった。隣で孫景がもらい泣きしている。


「曹瑛、お前なんで伊織に教えなかったんだ」

「伊織には一番に教えろよ、こんなに泣いて可哀想だろ」

「伊織くんを泣かすなよ」

 榊に孫景、劉玲と口々に責められて面倒くさそうな顔をする曹瑛の頬を劉玲がつねる。高谷が伊織にはんかちを渡している。

「夢を叶えるまで、伊織には黙っておこうと思った」

「・・・え」

「カフェのある本屋、お前が話してくれただろう」

「そう、そうだよ、瑛さん夢が叶ったんだね」

 伊織はまた号泣し始めた。


 ハルビンの龍神プラントで、工場内に残った劉玲と曹瑛は崩落した壁の向こうに隠し通路を見つけ、間一髪で地上に脱出することができたという。さすがに怪我もして養生しており、頃合いを見計らって孫景には連絡した。そこから榊へ、それが2ヶ月前。知らないのは伊織だけだった。

 曹瑛がどうしても店をオープンするまで黙っていて欲しいと願ったためだった。ちょうど、池袋にあった烏鵲堂の主人が店を畳むというので看板を譲り受けた。店の改装は榊の企画会社で総合プロデュース、調度品は劉玲が手配したという。


「瑛さん、俺もやりたいこと見つけたんだ。またいろいろ話すよ」

「茶でも飲んでいくか」

「そうする・・・でも、瑛さんはカフェ担当?本屋さんはどうするの?」

 振り向けば、高谷がエプロンをつけて手を降っている。

「俺、臨時バイトなんだ」

「瑛さん、俺も手伝うよ」

 伊織の言葉に曹瑛は少し考えている。開店間近の店の前にはお客さんがすでに並んでいる。今日は忙しくなりそうだ。

「・・・カフェを頼む」

「わかった」

 伊織はにっこり笑う。人生を取り戻す、それがこんな形になるとは思ってもみなかった。曹瑛は伊織につられて思わず微笑んだ。

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