エピソード85 大脱出

 ぶっ倒れている龍神の被験者5人をそのまま捨て置くわけにはいかず、大型台車で運び、小型トラックの荷台に載せた。

 無理矢理手伝わされた王陽凱と李遼はブツブツ言っているが、そのまま2人に荷台の見張りを任せる。孫景が小型トラックを運転して長いスロープを上り、一足先に地上に戻った。


 あとは董正康を探し出し、諸悪の根源である龍神の研究文書を奪い、抹消しなくてはならない。

 夜明けが近いのか、スロープの上は真っ暗な闇だ。夜明け前の空は一番暗いという。


「貴様ら、よくもすべてぶち壊してくれたな」

 見れば、董正康が立っている。皺の刻まれた顔は怒りで醜悪に歪み、写真で見た上品な佇まいの人物とはまるで別人のようだった。手元にには銀色のジュラルミンケースを持っている。あの中に龍神の基礎研究文書が入っているに違いない。3人の手下がこちらを自動小銃で狙っている。


「お前たちはここから出られない。このプラントとともに吹っ飛べ」

 董正康はスマホほどの大きさの端末を操作し、それを放り投げ足で踏み割った。工場内に響く警告音が大きくなる。プラント全体の時限爆破装置を作動させたのだ。


「まさか、この施設まるごと爆破する気やないやろな」

「ははは、この研究文書があれば、龍神を再び精製することができる。残念だったな、小僧ども!」

 勝ち誇った董正康が哄笑しながらジュラルミンケースを掲げた。その瞬間、爆発音が轟く。工場に隣接する栽培プラントに炎が回り、誘爆したようだ。董正康と手下が予想外の爆音に身を縮めた。

 その隙をついて曹瑛がスローイングナイフを放った。それは董正康の手を切り裂き、ジュラルミンケースは床に転がった。同時に榊の銃が3人の手下の腕を撃ち抜いた。


「ぐっ・・・貴様・・・」

 董正康が落としたジュラルミンケースを拾おうと慌てて手を伸ばしたところに、劉玲が足でそれを踏みつけ取り上げることができない。

「あんた、往生際悪いで」

 劉玲は董正康の顎を蹴り上げる。董正康は後ろに吹っ飛んで尻もちをついた。手下がその身体を抱え上げる。そのまま後ずさり、壁に向かって走り出した。


「なんや、どこ行くんや!?」

 手下の一人が配電盤のスイッチを操作する。地上へのスロープの出口の分厚いシャッターが閉まり始めた。そして董正康の目の前の壁に通路が現れた。

「クソ、俺たちを閉じ込めやがった」

 榊が叫ぶ。

「ここがお前らの墓場だ」

 董正康の笑い声が響く。地下から爆発音が響き、施設全体が揺れた。董正康を追うが、通路の先の非常用エレベーターの扉が無常にも完全に閉まる。


「逃げられた・・・」

 曹瑛が怒りに震えている。

「まあええ、あいつらのことは手を打ってある。それより俺らも逃げよ」

 爆発音が次第に近づいて、立っていられないほどの衝撃が断続的に襲う。制御盤を見れば、シャッターの開閉ボタンがあった。シャッターのスイッチは、非常時に工場内をエリアごとに分断できるようになっている。これで爆風をある程度防いで時間稼ぎができそうだった。

「出口のシャッターを開ける。お前たちは先に行け」

 曹瑛がボタンを押した。ここに留まる覚悟だ。


「嫌だ、瑛さんも一緒に逃げよう!」

 伊織が必死に曹瑛の腕をひく。

「地下から爆発が迫っている。早く逃げろ!」

「俺もここに残るよ!」

「駄目だ、行け!」

 曹瑛は今までに無いほど悲痛な叫び声を上げた。


「瑛さんッ!」


「行くんだ伊織、俺も後から追いつく」


 爆音の中に、穏やかな声が響いた。伊織は思わず息を呑んだ。曹瑛は呆然とする伊織の額に笑いながらデコピンを飛ばした。


「榊、伊織を頼む」

 曹瑛は真剣な顔で榊に向き直り、真っ直ぐにその目を見る。

「絶対に戻って来いよ」

 榊は立ち尽くす伊織の腕を取り、高谷と出口へ向け走り出した。シャッターが開き始め、眩しい朝日が差し込んでくる。シャッターをくぐり抜け、スロープを駆け上がる。


「榊さん、ありがとう。俺、走れるよ」

 伊織の目には涙が光っていた。榊は頷き、3人は地上へ向かって走る。背後でシャッターが閉まる音がした。伊織は歯を食いしばった。涙で前が見えない。それでも長いスロープをひたすら走った。


 爆音が鳴り響き、天井の崩落が始まった。工場内に仕掛けたC4爆弾もそのうち誘爆を起こすだろう。工場内の防火扉のシャッターはすべて下ろした。ここもやがて爆風に巻き込まれるだろうが、逃げる者にほんの少しだけ時間を稼ぐことができた。


 出口のシャッターも下ろした。スロープは走るには長い。地上にたどり着く前に爆風に巻き込まれる危険があったからだ。

「何でお前までここに残った」

 曹瑛がマルボロに火を点ける。そこにはジュラルミンケースを手にした劉玲が立っていた。

「可愛い弟をひとり、こんなところに残しておくわけにはいかんやろ」


 1本くれ、と劉玲がタバコを求めた。

「吸わないんじゃなかったのか」

「タバコは健康に悪い。でもまあええやろ、たまにはな」

 曹瑛がジッポで劉玲のくわえたタバコに火をつけてやる。赤い警告灯の下で紫煙が立ち上る。ジュラルミンケースを開けると、古い文書の束があった。曹瑛はタバコを投げ入れた。乾いた紙はたちまち燃え上がり、灰になった。


「人生、取り戻せたか?」

「ああ、そうだな」

 曹瑛は目を閉じた。口元には笑みが浮かんでいる。

「兄貴、ありがとう」

 一際大きな爆音が響き、天井から巨大なコンクリートの塊が落ちてきた。壁にも亀裂が入り、地鳴りのような揺れが何度も床を突き上げる。轟音を上げながらプラントが崩壊していく。


 朝露の光る麦畑に伊織と榊、高谷は息を切らしながら倒れ込んだ。後ろを振り返ると大きな爆発音が立て続けに響き、大地を揺るがした。

 瞬間、出てきたばかりのスロープから爆風とがれきが吹き出した。もう数秒でも遅ければ、がれきとともに吹き飛ばされていたに違いない。

 伊織はスロープの出口を呆然と見つめ続けた。もうもうと立ち上る煙が消え、そこにはがれきが積み上がるのみだ。人影はない。


「瑛さん・・・それに劉玲さんも・・・」

 涙がこぼれ落ちた。伊織は声を殺して泣いた。高谷も伊織の背をさすりながら涙を流している。榊は立ち上がった。爆音にさらされて耳鳴りが続いている。

 麦畑の向こうを見れば、黒塗りの高級車が何台も停まり、黒服の男たちが集まっている。孫景が麦畑を横切ってこちらにやってきた。


「逃げ出した董正康は劉玲の部下の九龍会が捕縛した。八虎連の本部に引き渡すらしいから、それなりの処分が下されるだろう。・・・ここでくたばってた方がマシだったかもな」

 孫景がうずくまっている伊織を見つけた。高谷はそのそばに寄り添っている。榊は口を引き結んで目を伏せている。曹瑛と劉玲の姿はない。それですべてを理解したようだ。


「そうか、あいつら・・・」

 プラントのあった場所は大きく陥没している。遠く、サイレンの音が聞こえてきた。

「お上に事情を聞かれるとまずい、行こう」

 光を浴びた雲が東へ流れていく。昇る朝日に麦畑は金色に輝き始めた。


 ホテルの部屋に戻り、鏡で顔を見た。涙とすすでぐちゃぐちゃだ。伊織はシャワーを浴び、服を着替えて窓際のソファに座った。ここで曹瑛は窓の外を眺めていた。窓の外は異国の喧噪の風景が広がっている。灰皿は綺麗に片付いているのにふと、タバコの匂いがした。


 曹瑛は荷物をきれいにまとめていた。持ち主を無くしたスーツケースがぽつねんと残った。チェックアウトのためにロビーに降りると、ホテルのスタッフが預かり物だと封筒を伊織に手渡した。


 それは真っ赤な封筒だった。金色の文字でおめでたい浮き彫りの装飾が施してある。中には万札の束と一筆箋が入っていた。流麗な文字で“万事如意 伊織へ、バイト料兼就職前祝い”と書いてあった。見覚えのある曹瑛の文字だ。紙幣は一度返したバイト料の倍の厚みがあった。


「瑛さん・・・これ、直接渡して欲しかったよ・・・」

 消え入る声で伊織は呟いた。危険な戦いと知り、もしものことがあっても伊織の手に渡るよう残してくれたのだ。

 就職祝いって、気が早い、伊織は鼻を啜りながら笑った。

 “お前ならできる、やりたいことを見つけて進め” 火鍋を食べながら曹瑛が言ってくれた言葉を思い出す。“万事如意”の文字にはその思いが込められていた。


 ハルビンの空港までは孫景が送ってくれた。孫景の無茶苦茶な運転を久々に味わった。高谷だけでなく、榊の顔も固まっていたのが印象的だった。曹瑛のスーツケースは孫景が預かってくれるという。

「元気でな」

「お前も、また日本へ来るんだろう」

「そのうちな」

 孫景と榊は拳をぶつけ合った。

「伊織、元気出せよ」

 孫景が伊織の肩をバシンと叩いた。明るく振る舞う孫景にも寂しさが滲んでいる。

「うん、ありがとう孫景さん」

「高谷も疲れをださないようにな」

「ありがとうございます、すごく良い経験になりました」

 高谷は丁寧に頭を下げた。


「曹瑛はみんなにすごく感謝してた、と思う」

「どうだろうな」

 孫景の言葉に榊は笑っている。その顔は憂いを含んでいるように見えた。国際線のゲートをくぐり、伊織はもう一度孫景に手を振った。出国審査を終え、待合ロビーで高谷と肩を並べて座る。


「伊織さん、写真送るね」

 高谷から伊織のスマホに写真が届く。それは聖ソフィア大聖堂で知らないうちに撮られた曹瑛と伊織のツーショットだった。写真の中の曹瑛は穏やかな笑みを浮かべている。

「これ、我ながら良い写真だと思うんだ」

「ありがとう、高谷くん」

 背後から頭をくしゃくしゃといじられた。伊織が顔を上げれば、榊が立っていた。

「泣きたいなら気が済むまで泣けよ」

 伊織はスマホを握りしめ、声を押し殺して泣いた。

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