エピソード84 逆恨みの男
曹瑛は足元に突き立ったナイフを抜き、前方にいる男に投げ返した。同時に、何が起きているのか分からず身動きの取れない伊織をかばう。男は飛んでくるナイフを手にした刀身30センチの短刀で弾き飛ばした。
「久しぶりだな、曹瑛」
目の前に立つ男は30台半ばといったところだろうか、癖のある髪を乱雑にまとめて後ろでひとつくくりにしている。切れ長のくっきりした目元は自信に満ちた印象を与える。袖と裾に派手な刺繍が入った長羽織に白シャツ、黒のボトム。いろんな意味でヤバそうな奴が来た、と伊織は青ざめた。
「・・・お前は誰だ」
「なんだと・・・!!」
曹瑛の言葉に男は憤慨している。曹瑛は完全に素で、本気で相手の男には見覚えがないらしい。
「知り合いじゃないの?思い出してよ瑛さん」
伊織が控えめに曹瑛に耳打ちする。
「全然覚えが無い」
「俺の名は李遼。5年前の長春だ。雪の降る寒い日だった。俺がガードを務めていた組織の幹部をお前は易々と始末した」
男は淡々と語り始めた。
「そのせいで、俺のガードとしての評価は地に落ちた。以来、ケチな用心棒として生きていく羽目になった・・・今、ここでお前を殺して汚名を雪ぐ」
男は短刀を曹瑛に向けて突き出した。曹瑛は無言だ。
「長春の仕事は思い出した」
「貴様、俺のことを・・・」
「お前のことは知らない、そこにいたのか」
男は怒りで顔を真っ赤に染め、頭をかかえてのけぞっている。一方的に恨みに思っていたが、曹瑛には彼がいたことすら認識が無いらしい。中国語で会話しているので詳しい話は分からないが、伊織は目の前の男が心なしか哀れに思えた。
「貴様、許さん!」
男が攻撃態勢に入る。曹瑛は伊織の手を引き、柱の陰に身を隠した。
「伊織、ここで隠れていろ」
「瑛さん、あいつと戦うんだね」
「面倒だが、邪魔するなら仕方がない」
曹瑛は赤い柄巻の愛用のナイフ、バヨネットを背中から抜き取る。
「劉玲さん、孫景さん、気をつけて。逃げ出した董が強化版龍神の検体のロックを外したみたい」
不意に、高谷の声がイヤホンから響く。検体とは研究施設のガラスの向こうにいた臨床実験の男たちのことだ。
「高谷、小笠原の研究成果のデータはあるか」
曹瑛が会話に割り込んで訊ねる。
「・・・そうですね、まだ人間への臨床実験は行われていないようですが、理論上は効果があると・・・ああ、日本語で良かったこれ・・・えっと、神経中枢に作用して龍神の毒性を中和する効果があって」
「注射器で試薬を静脈に流し込む」
榊が端的に結論を伝えた。柱の裏側にスローイングナイフが突き立つ。李遼がこちらに迫っている。
「研究エリアだが、今は手が離せない」
曹瑛は小笠原のいた研究ブースの位置を手短に榊に伝え、通信を切った。
曹瑛は柱から飛び出した。李遼のスローイングナイフが曹瑛を狙って飛ぶ。曹瑛は床に転がりながら攻撃を避ける。起き上がりざまに、白衣を脱ぎ捨て黒いスーツ姿になる。
「やっと本気になったか」
それを見て李遼がニヤリと笑う。本気を出した訳ではない曹瑛は無言だ。心底面倒くさいと思っているが、このときばかりは無表情が役に立っていた。董も逃げ出したというし、早く片付けて仲間と合流したい。
曹瑛は机を飛び越え、李遼の前に降り立った。その顔をじっと見つめる。やはり覚えが無かった。李遼は曹瑛を睨み付けている。
「5年越しの復讐だ、俺の屈辱をお前も味わうといい」
李遼が短刀で斬りかかる。曹瑛はバヨネットで応戦し、火花が散る。長年恨みを抱き続けた相手との対戦に、李遼は興奮で紅潮している。李遼は力任せに短刀を振りかぶる。曹瑛はそれを受けながらじりじりと後退していく。
「どうした、お前の力はそんなものか」
曹瑛の背に柱が当たった。李遼の短刀が大ぶりに薙ぎ払われる。曹瑛は身をかがめてそれを避け、李遼の足を蹴る。李遼はバランスを崩し転倒するが、すぐに受け身を取り立ち上がった。見れば、曹瑛の姿はない。薄闇の中、点滅する赤い光が不気味に周囲を照らしている。
「どこに隠れた!?」
李遼は動揺し辺りを見回す。全く気配がない。背後でガラスの割れる音がして、反射的にスローイングナイフを投げた。実験用の試験管が床に落ちてガラスが散乱している。
「俺が怖いのか!?」
そう言ってみるが、姿の見えない曹瑛を恐れているのは自分だった。李遼は壁を背にして曹瑛の気配を探る。不意に風切り音がして、壁にスローイングナイフが刺さる。その切っ先は李遼の頬を掠め、皮を裂いた。
李遼は反射的に羽織りに仕込んだスローイングナイフを投げた。だが、手応えはない。温かいものが頬を流れる。李遼はその血を拭った指先を舐めた。
身を低くして、机の隙間を移動する。ナイフが飛んで来たのは前方だった。その方向に曹瑛がいるはずだ。爆発の衝撃であちこちでガラスが割れる音がする。机から顔を上げて様子を伺おうとした瞬間、目の前にナイフが突き立った。慌てて顔を下げる。
曹瑛はこちらの位置を把握している。しかし、自分は曹瑛がどこにいるかわからない。李遼は息を呑んだ。闇の中で命を狙われる恐怖に額から汗が流れ落ちる。
そうだ、曹瑛には連れがいた。どう見ても無害そうな、何もできない男だった。李遼は床を這いながら男が隠れているはずの柱に近づいた。白衣の裾が見えた。やむを得ないが、奴を人質に取ろう。李遼が柱に回り込むと、白衣だけがナイフで柱に縫い付けられ、誰もいなかった。
背後から伸びたナイフが首筋に突きつけられている。バヨネットの黒い刀身が見えた。
「もうやめておけ、お前には無理だ」
背後から曹瑛の低い声が耳に響く。役者が違いすぎた。おそらく、最初の打ち合いで曹瑛は心臓をひと突きにできたのだろう。李遼はため息をついて脱力した。
「殺せ・・・殺せばいい」
曹瑛はナイフを下ろし、李遼を解放した。
「ひと思いに殺してくれ」
李遼が床にあぐらをかいて叫ぶ。伊織が顔を出した。李遼は自暴自棄になっているようだ。
「瑛さん、この人どうするの」
曹瑛は伊織が更衣室から取ってきたコートを羽織った。
「殺せばいいだろう!やれよ!」
「俺はお前に何の恨みもない」
その言葉は自分には全く関心が無いと言われていることでもあり、李遼はうなだれた。5年間、惨めな思いをして曹瑛に対する恨みだけを胸に生きてきた。ナイフの腕も磨いた。しかし、全く叶わなかった。情けなくて涙がにじんだ。
「あのう、一緒に逃げませんか。ここは危ないですから」
伊織は通じないと思いながらも座ったまま動こうとしない李遼に話かける。李遼が顔を上げた。
「日本人なのか?」
中国語で訊ねられた。
「はい、そうです」
李遼の顔が明るくなる。勢いよく立ち上がって伊織の両肩を掴んだ。それまで腕組みをして見ていた曹瑛が警戒してバヨネットを構える。
「俺は日本の戦国武将が好きなんだよ」
李遼は曹瑛の顔をチラチラ見ている。どうやら翻訳しろと言っているらしい。曹瑛は大きくため息をついて棒読みした。
「そ、そうなんですか・・・」
伊織は李遼の勢いに押されている。
「ノブナガ、シンゲン、ユキムラ・・・」
「は、はあ」
「日本の城を見てみたい。日本には一度行ってみたいと思っていたんだ」
「そうですか、それなら尚更ここから逃げましょう」
伊織の説得に、李遼は大きく頷いた。
「行くぞ」
曹瑛が走り出す。伊織もそれを追う。さきほどまで落ち込んでいた李遼が名前は何だ、どこに住んでいるのかと伊織を質問攻めにしている。初対面の相手に対する簡単な中国語なので伊織も頑張って応じていたが、曹瑛が伊織の手を引いた。
「後からにしろ」
曹瑛は不機嫌そうだった。工場エリアで劉玲や孫景、榊、高谷と合流した。皆無事のようで伊織は安堵した。李遼は榊の姿を見つけ、日本のヤクザだと物珍しそうにしている。榊に誰だこいつは、と聞かれたので伊織は「曹瑛の知り合いで、日本の戦国武将が好きな人だ」と答えておいた。
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