第6章 龍神プラント編
エピソード76 待ち合わせまでの時間
ホテルを出発して中央大街を歩けば松花江に突き当たる。朝のスターリン公園はカップルや家族連れで賑わっている。今日も天気が良い。ややもやってはいるが、青空に白い雲がぽっかり浮かんでいる。
そののどかさにここが昨晩、八虎連の雇った暗殺者に襲撃された場所とは思えない。松花江を泳がされた2人が逆恨みして、また襲ってはこないだろうか。
「どうした」
きょろきょろと警戒しながら辺りを見回す伊織に曹瑛が声をかける。
「なんだかここであんなことがあったなんて、信じられないよ」
「今度襲ってきたら、川に落とすくらいでは済ませない」
曹瑛の言葉の重みに、彼を狙う八虎連の暗殺者の身がどうなるのかという別の不安が伊織の心によぎってしまった。
涼しい川風の吹き抜ける公園では小さな子供が声を上げて走り回り、カップルはベンチに座り肩を寄せ合っている。黒服の男達が鼻血を流しながらその辺にぶっ倒れていたんだよな、と伊織は昨晩の情景を思い出して身震いした。曹瑛は川沿いを歩いていく。
「川の向こうは太陽島がある」
「ハルビンの氷祭が開催される場所だよね」
「氷祭のない時期は公園として開放されている。何もないが、散策するにはいい時期だろう」
これから太陽島へ行こうという。ここまで歩いてきて、どうやって島へ行くのだろうと思っていたら、松花江を渡るロープウェー乗り場に着いた。
川にかかるロープウェーは珍しくて、伊織はゴンドラの行き先を目で追う。松花江の中に鉄塔が2本立っており、まっすぐに対岸へ伸びている。船もあるが、待ち時間が長そうなのでロープウェイで向かうという。
「すごい、川をロープウェイで渡ってる」
ガタンと揺れてゴンドラが動き出す。松花江の上をゴンドラがゆっくりと流れていく。
「わあ、結構高いね」
下を見れば松花江が流れている。かなりの高さがあるようだ。右側には鉄道の橋が見えた。鉄塔の真上に来た時に、ガクンと大きくゴンドラが揺れた。
「瑛さん、大丈夫・・・」
ではないようだった。腕組みをしたまま俯いた顔は口をへの字にしてぎゅっと目を閉じている。そんなに苦手なら船か、陸路をタクシーでも良かったのに、そう思ったが伊織は黙っておくことにした。
終点に着き、ゴンドラを下りると曹瑛はすぐさまタバコに火を点けた。ほんの数分だったが、狭いゴンドラの中で硬直していたのだろう。リラックスしている姿は爽やかですらあった。
ここはもう公園の敷地内のようだ。広大な芝生に背の高い木立が影を作り、その下でレジャーシートを広げた家族連れがのんびり過ごしている。石畳の通りには柳の並木が続いており、たくさんの人達が散策を楽しんでいた。
「いいところですね」
木漏れ日の中、曹瑛と肩を並べて歩く。花壇には色鮮やかな花が咲き、人口の滝や大きな池があった。園内は広いので電動カートで移動する人達もいる。歩いていると風は涼しいとはいえ、汗ばむ陽気だ。見れば、中央大街で売っていたのと同じ名前のアイスの売店があった。
「ちょっと汗かきましたね、休憩しませんか」
曹瑛もそれに賛成らしい。看板を見れば、味が何種類かあるようだ。
「えっと、これはチョコレート、コーヒー、草なんとか・・・あ、いちごかな」
伊織が簡体字を見て読み上げる。
「ほう、少しは単語が読めるようになったのか」
「簡体字はだいぶ見慣れてきたよ」
偉いな、と曹瑛が褒めてくれた。伊織は烏鵲堂で買った初級中国語の本で少しずつ勉強をしていたが、覚えた単語が街中で時々聞き取れるくらいで会話ができるにはまだまだだ。大学の第二言語は簡単だからという理由だけで中国語を選択したが、もっと真面目にやっておけば良かったと痛感している。しかし、中国が日本と同じ漢字文化圏というのはありがたかった。
「瑛さんは何にする?」
アイスを食べる前提で伊織が曹瑛に訊ねる。ラムレーズンがいいというので、売店で2つ買った。日が昇って気温が高くなってきたこともあり、アイス屋は繁盛している。中央大街の売り場と違い、個包装で渡された。木陰のベンチに座り、2人並んでアイスを食べる。
「これ濃厚で美味しい。ちゃんとラムレーズンの風味がする」
これだけいろんな味があるなら全種類制覇したくなる。曹瑛も悪くない、と言いながら食べている。木漏れ日が白い石畳にキラキラと反射して、伊織は眩しくて目を細めた。中年のおばさんの持ち込んだステレオから中華風の明るい音楽が流れてくる。人々の楽しそうな笑い声は途切れることはない。
「瑛さん」
「・・・なんだ」
「俺のこと気にかけてくれてありがとう」
「礼を言われるようなことは何もしていない」
「本当は1人で集中して今夜の作戦のことを考えたかったんじゃないの?それなのに気晴らしに散策に連れ出してくれた」
伊織はそれが嬉しかった、しかし曹瑛の時間を無駄にしていることを気にしていた。
「龍神のプラントに乗り込む作戦を決めたけど・・・正直怖い。みんなで無事に帰って来れるのかなって考えてたら不安になって、落ち込んでた」
伊織の言葉を曹瑛は黙って聞いている。
「それに、俺は何ができるのかなって」
「俺も怖い」
「瑛さんでも怖いことあるの?」
「俺だって人間だ」
曹瑛は伊織の鼻先を指で弾いた。
「だが、今は頼れる仲間がいる。伊織が繋いだ縁だ」
「えっそんなの照れる・・・」
伊織ははにかみながら頭をかいた。寝癖はまだ直っていないようだった。
「それにお前は機転が利く。フライパンを持たせたら無敵だしな」
曹瑛は笑いながら言うと、立ち上がった。
「ちょっと、瑛さんまでそんなこと言う?」
伊織の憤慨をよそに、この先で野鳥が見られるといって歩き出す。伊織は曹瑛の背を追った。
遊歩道沿いの大きな池に白鳥やアヒルが放し飼いにされていた。伊織は真っ黒い白鳥を見つけて珍しささに大喜びしている。
「白鳥ではない、黒鳥だな」
「そういえばそうだね」
伊織はよほど珍しかったのか、黒鳥が水草をついばむ様子をしばらく眺めていた。広い園内を散策して、再びロープウェー乗り場に戻ってきた。園内では食事をする場所はないので、中央大街まで戻ることにする。ゴンドラではまた曹瑛は腕組みをしたまま無言だった。鉄塔のてっぺんでゴンドラが大きく揺れると曹瑛が舌打ちをした。今の曹瑛には小学生でも勝てそうだと伊織は密かに思った。
曹瑛に連れられて中央大街から一本裏道へ入った中国家庭料理の店に入った。午後1時をまわっており、やや遅めの昼食だ。席はよく埋まっていたが、ちょうど片付けが済んだ2人席へすぐに案内してもらえた。
「この店は羊串が美味い」
曹瑛のオススメで羊串を10本、砂肝とキュウリの和え物、アサリの中華炒め、インゲン入りの麻婆茄子に餃子を注文した。羊串は焼きたてがすぐ出てきた。
「これスパイシーで美味しい!」
肉に振りかけられた独特な香りの香辛料が旨味を引き立てる。羊肉の独特の香りも良い。肉は小ぶりなので1人5本をペロリと平らげた。これは確かに街中で売っていたら、買い食いしたくなってしまう。砂肝はコリコリと歯ごたえがあり、キュウリと和えたシンプルな料理だがごま油の香ばしい味がやみつきになる。
「砂肝とキュウリか、これ意外と簡単に作れそうだなあ」
「レパートリーが増えるな」
アサリはオイスターソースで味付けしてあり身がプリプリ。インゲン入りの麻婆茄子は思わず白ご飯を注文したくなったが、水餃子もあるので我慢した。
「はあ、よく食べたあ」
温かい烏龍茶を飲みながらほっと一息つく。結構な品数だったが、2人で綺麗に食べきってしまった。
「瑛さんはどんな本屋さんをしたい?」
「何も考えていない」
伊織は曹瑛が引退した後のことをあれこれを考えている。曹瑛にしてみれば、本でも読んでのんびり過ごすイコール本屋にでもなる、という短絡的なその場の思いつきだった。
「最近はカフェを併設しているところもあるよ。そういえば、黒龍書店もおしゃれだったね」
一階は本屋、二階をカフェにして、と伊織は好き勝手な妄想をしている。
「うん、カフェ併設がいい。瑛さんのお茶美味しいし、それに店長がカッコいいって話題になる」
「なんでそうなる」
たわいない会話はホテルに戻るまで続いた。曹瑛は部屋で一度シャワーを浴びて着替えるという。曹瑛の後に伊織も汗を流すことにした。頭を拭いて、髪がはねないようしっかりドライヤーをあてた。部屋を覗き込むと、曹瑛は身支度を調えていた。
身体のラインに合った黒のシングルスーツに、レギュラーカラーのドレスシャツはマットな黒、ネクタイは深みのあるワインレッドでアクセントを添えている。
闇に紛れるその姿に伊織は息を呑んだ。今の曹瑛はプロの暗殺者の顔だ。バスルームと寝室を隔てる高い壁がある。住む世界が違う、そう感じた。初めて会ったときの得体の知れない威圧感を思い出した。
曹瑛は窓際のソファに座って足を組み、タバコを吸い始めた。
「あのう、瑛さん」
精神統一しているかもしれないが、聞いておきたかった。
「なんだ」
「俺何着ていけばいい?」
「今夜は冷えるらしい、少し厚手の服がいいんじゃないか」
曹瑛は至って真面目な顔で答える。
「いや、そういうことじゃなくて、潜入ミッションでしょ、どうしよう俺黒い服持ってないよ」
「黒でも白でも見つかれば終わりだ」
じゃあ何で自分は白いスーツじゃないんだよと伊織は心の中で突っ込んだ。結局、グレーのジャケットにストライプシャツ、ジーンズにスニーカーという普段通りのいでだちとなった。
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