エピソード66 聖ソフィア大聖堂

 中央大街での待ち合わせまで時間がある。バスを使って聖ソフィア大聖堂へやってきた。ここはどの観光ガイドブックにも掲載されている有名スポットだ。バスを降りると緑色の玉ねぎ屋根が見えてきた。


「すごい、立派な教会だね」

 教会のある場所は広場になっていた。多くの観光客が記念写真を撮影している。レンガで組まれた壁面は近づいてみれば緻密な細工が施してあるのが分かる。窓枠の装飾の幾重にも連なるアーチが見事だ。緑のドーム状の屋根には金色の十字架が建てられている。広場で子供が追い立てた鳩が一斉に飛び立った。


「ここはロシア正教会の聖堂だった。20世紀初めに軍用教会として創られている。今は教会としての使用はないようだ、中に入るか」

「すごいね、瑛さん観光ガイドができるよ」

「そこの説明に書いてある」

「そっか…」


 教会の中は小さな美術館のようになっており、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」など西洋の宗教画や、かつての聖ソフィア大聖堂の様子を写した白黒写真などが飾られている。ドームの真下に立てば、明かり取りの窓から光が漏れて幻想的な雰囲気を醸し出している。

「すごいシャンデリアだ」

「ここはよく改修工事をしているからな、今日は入れたのは幸運だ」

「瑛さんも初めて?」

「そうだ」

 それを聞くと伊織は何だか嬉しくなった。伊織はため息をつきながらゆっくりと聖堂内を歩く。やや剥げかけた壁面にはアラベスク文様や彩色されたイコンが並ぶ。教会として使われていないというが、ダウンライトの中で神聖な空気が流れている。


「見学できて良かった」

 伊織は柱を背にして待つ曹瑛のもとに戻った。そろそろ待ち合わせ場所に行こうということで聖堂を出た。おーい、と声がして振り向けば高谷が手を振っていた。

「あ、高谷くん、榊さんも」

 榊と高谷、二人も観光に来ていたようだ。

「素敵な教会でしたね」

 高谷も建築が好きなようだ。スマホでたくさん写真を撮ったと言っている。

「そろそろ中央大街の店に行こうと思うがここから、歩いても10分ほどだろう?」

「そうだな」

 高谷は伊織と話に花が咲いているので、榊と曹瑛が微妙な距離感で並んで前を歩く。

「あんたの故郷はここから近いのか?」

「ここから車で2時間ほど、ド田舎の寒村だ。今はどうなっているか知らない」

 曹瑛は故郷を捨てたという口ぶりだ。親に捨てられ、組織にさらわれて良い思い出があるわけはない。できれば戻りたくもないだろう。

「ここはいい街だな、飯もうまいし、上海や東京ほど都会じゃない。時間の流れがゆるやかだ」


「この写真、いいでしょう」

 高谷がスマホの画面を伊織に見せる。そこには聖ソフィア大聖堂を背景に笑顔の伊織と曹瑛が写っていた。

「え、これいつの間に」

「さっきね、二人がこちらに気づく前に」

 伊織は写真を撮られるのが苦手で、いつも笑顔が引き攣ってしまう。高谷の写真は知らない間に隠し撮りされたので、そこには自然な笑顔の伊織が写っていた。

「曹瑛さんもこんな顔するんだ」

 高谷が興味深く画面を眺めている。画面の中の曹瑛は口元に笑みを浮かべていた。

「そういえば意識したことなかったけど、最近瑛さん笑うようになったんだよな。最初は能面みたいな顔してめちゃくちゃ怖かったんだよ」

 高谷が噴き出した。曹瑛が伊織を振り返って余計なことをいうなと睨みつけている。

「写真はまた送りますね」

「ありがとう」

 曹瑛とは東京でも観光をしたが、写真を撮っていない。写真を撮りたい素振りもなかったが、照れくさかったのだろうか、伊織はちょっと悪いことをしたと思った。


 中央大街のゲートの前にやってきた。もう夕方6時前、夕闇が落ちてきて通りはライトアップが始まっている。グリーンの鉄骨のゲートはホテルから見えていたものだ。中央大街と金色の文字がディスプレイされている。若い観光客が多く、写真を撮ったり食べ歩きしたり楽しんでいる。

 石畳の通りは歩行者天国になっており、両脇には古い欧風建物が並ぶ。そこに派手な中国語のネオンサインが輝いて独特の景観だ。建物も派手にライトアップされ、どちらを向いても飽きない。

「すごい眺めだね」

 高谷も気に入ったアングルで写真を撮りながら歩いている。通りを入って5分ほど歩いたところに待ち合わせの店があった。


「この店だな」

 榊が孫景から送られてきたメッセージを確認する。瀟洒な店構えの老舗のロシア料理レストランだ。途中の雑貨屋でもロシアの土産物をたくさん売っていた。ロシアとは領土が隣接していることもあり、関わりも深いのだろう。時折、金髪で肌が白く、鼻筋が通った人たちとすれ違った。ロシアからの観光客も多いのかもしれない。

「みんな集まってるな」

背後から孫景と劉玲が現れた。二人はどこかで1杯ひっかけてきたようだ。機嫌良くにこにこしている。孫景は内心劉玲を警戒しているようだったが、すっかり打ち解けたように見える。


 店内に入ると曹瑛が予約を入れてくれていたらしく、すぐに席に案内された。2階へ通されて、内装の派手さに伊織は驚いた。白い天井には豪華なシャンデリアが吊るされ、金色の唐草文様が張り巡らされている。赤いビロードのカーテンに柱も金色。洋風なのだが、どこか中華テイストなのだ。中国という国はとにかく派手ではっきりしたものが好きなんだと伊織は呆けながら思った。曹瑛が地味めなので忘れていた感覚だ。


 この店は人気店のようで注文を決めるまでにどんどん客が入ってきて、店内は一気ににぎやかになる。伊織は曹瑛に注文を委ねた。間違いはないからだ。榊もビールが飲めたらいいという。高谷はワインを注文した。孫景も来たものを食べるということで曹瑛と劉玲で適当に注文をまとめた。

「老舗のロシア料理のレストランだ、この近辺は観光地だから結構ぼったくりが多いが、この店は比較的味も良いし良心的だ」

 

 曹瑛の言葉通り、料理はボリュームが多く、どれも味付けがしっかりして美味かった。野菜サラダにボルシチ、エビやラム肉の壺煮、鮭のフライ。パンが有名らしく、男6人のグループということもあって焼きたてを籠に山盛り持ってきてくれた。ハルビンビールはアルコール度数低めで日本のビールより味が薄く感じるが脂っこい料理にはよく合う。

「瑛さんはやめた方が」

 伊織は榊に一杯だけもらってビールを飲んでいたが、曹瑛も手を出そうとしたので必死で止めた。日本でもコップ1杯のビールでありえないほど酔っ払ったので、飲ませない方がいいだろう。昼間のように八虎連に襲われたらあの状態では小学生にも勝てそうにない。兄の劉玲は平気で飲んでいる。兄弟でも違うもんだなとしみじみ思った。


「今日、八虎連の連中を何人か締め上げにいったんだが、良い情報が得られなくてな」

「下っ端のチンピラに喧嘩ふっかけても何もええことないわ」

 孫景と劉玲は暇つぶしに適当に暴れてきたらしい。こちらも八虎連に襲われたのは何か因業ではないかと思ってしまう。

「黄維峰の組織を当たらんといかんわ、それがどこかわからん」

 劉玲は頭を抱える。

「俺は黄の組織のファイルを持っている」

「はあ?」

 曹瑛の声に劉玲と孫景が頓狂な声を上げた。なんで早く言わないだの、隠してたのかだの文句をまくしたてている。

「ま、まあ二人とも、これから打ち合わせしよう」

 伊織はフォローに入る。手がかりもなく殴り込みに行くとは脳筋か、と内心呆れた。

「まさかお前らがそんなに気が早いバカとは思わなかった」

 バカを強調して曹瑛がぼやいた。気分を害したらしく、タバコに火を点ける。そういう曹瑛も売られた喧嘩だがきっちりのしをつけて返している。伊織が曹瑛をちらりと見るとにらみ返されたので余計なことは言わないようにした。

「組織の金の流れと管理している土地が分かればヒントになるかもしれないな」

 榊の意見に皆が同意した。明日、組織の本部を調べて出入金や土地台帳を探すことにする。電子管理か紙台帳かわからないが、IT系のきわどい作業は高谷に任せられる。


 腹十二分に食べた面々は店の外に出た。

「伊織くんは聖ソフィア大聖堂は行ったか?」

 酒に酔った劉玲が伊織に肩を組む。吐く息が酒臭い。

「ここに来る前に見学してきましたよ」

「ほな、ライトアップ見にいこ!」

 そういえば、先ほどはまだ日が高かったのでライトアップはされていなかった。観光ガイドブックでもライトアップが見ごたえありと書いてあった気がする。

「じゃあ行こうかな」

 お腹がいっぱいで寝つきが悪い気がした。伊織は劉玲の誘いに乗り、歩き出す。振り返ると結局曹瑛や榊たちも一緒についてきていた。


「わあ、夜も素敵ですね」

 夜の聖ソフィア大聖堂は柔らかなオレンジ色の光に照らされ、幻想的に浮かび上がっている。周囲のレトロな街頭も明かりが灯っておりなかなかロマンチックな雰囲気だ。地元の人たちも散歩しながら景観を楽しんでいる。

「な~ライトアップ、ええやろ?」

 劉玲が伊織に絡んでおり、それを見た曹瑛は苦々しい顔をしている。周辺のゴシック風の建物に携帯電話会社の大きなネオンがついているのが面白い。

「俺、ハルビン好きになりました。街の様子が面白くて、ご飯も美味しいし」

「せやろ~。ここにおる間は俺が美味しい店に連れていったる」

 劉玲は嬉しそうだ。伊織は酔っ払いを適当にあしらいながら大聖堂の周辺を散策する。広場の端にモダンアート風の鉄骨で作られた回廊と時計塔があった。高谷も興味をそそられたらしく、伊織の側に立つ。


「これ、教会にも見えるね」

「この鉄骨のデザイン、街中でも見かけましたよ。面白いですよね」

 高谷も日中は街中を散策してきたようだ。不意に、背後から首を締め上げられた。太い腕が視界に入り、声を上げようとすると首筋にサバイバルナイフを突きつけられている。

「伊織さん…!」

 高谷も同様に、背後から首筋をナイフで狙われていた。背後で中国語が聞こえる。男たちは何人かのグループのようだ。異変に気づいた曹瑛が目の前に立ちはだかる。吸っていたタバコを地面に落とし、つま先で踏みにじった。その目は怒りに暗く沈んでいる。伊織は曹瑛の発する殺気に鳥肌が立った。男たちもたじろいでいるが人質と、頭数がいるおかげで威勢を保っている。榊と孫景、劉玲も横に並んだ。


「その子らを離せ」

 孫景が中国語で叫ぶ。男たちは10人はいるだろうか、曹瑛は昼間のした男3人がそこに交じっていることに気が付いた。静かに拳を握りしめる。伊織の前だから殺しはしなかった。せめて腕の骨でもへし折ってやれば、と唇を噛んだ。

「昼間の礼だ」

 ツーブロックが笑っている。

「誰や、知らへんぞあいつらなんか」

 劉玲は昼間締め上げたチンピラの顔を探しているらしい。曹瑛は無言で一歩前に出る。

「近づいたらこいつらを刺す」

 伊織は何となく単語の端々でアクション映画のような状況に陥っていることは分かった。捕まったヒロインは自分だ。情けなさで泣きたくなる。結局足を引っ張っているじゃないか。


「そうだ、そのまま動くなよ。サンドバッグにしてやる」

 伊織と高谷を捉えた男はそのままに、残りの男たちが曹瑛たちに近づいていく。八虎連の暗殺者と元武闘派ヤクザ、九龍会幹部、血の気にはやる裏社会のブローカー、相手が悪いだろう。しかし、自分たちが捕まっていては彼らもうかつに手出しができない。

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