第5章 哈爾浜八虎連編

エピソード60 旅の余韻

 麒麟会との戦いを終え、宿泊先のホテルに戻った。一晩徹夜で走り回っていたのだ、全員体力の消耗が激しかった。特に劉玲と戦った曹瑛と榊は傷を負っている。

「アラサーにはキツい」

 伊織がぼやく。同意を込めて曹瑛も孫景も榊も無言だった。


 伊織と曹瑛は宿泊している部屋に戻った。

 曹瑛は傷を負ったせいで温泉に入れないことが残念だとぼやき、部屋に備え付けの狭いシャワールームへ体を洗い流しにいった。


 伊織は温泉で手早く体を流して戻ってきた。曹瑛が縁側で上半身裸になり傷の手当てをしている。痛々しい裂創が何カ所にも刻まれている。主に劉玲との戦いで負った傷だ。


「ひえ、めちゃくちゃ痛そう」

 白い肌に赤い傷跡が生々しく走る。細身だが筋肉質のよく鍛えられた体だ。伊織はしなやかな曹瑛の動きを思い出す。一体どれほどの修練を積めば、あんな動作ができるのだろう。


 曹瑛は忌々しそうに傷口にシート状の保護材を張っている。

「いつも仕事でこんな痛い目に遭うの」

「俺の仕事は暗殺だ。相手に気付かれる前に決着はつく。おおっぴらに戦うのはよほどのヘマをしたときくらいだ」

 聞くんじゃなかった。伊織はあえてコメントを避けた。


「瑛さん、手伝うよ。これ貼ったらいいの」

 以前は消毒してガーゼを当て包帯でぐるぐる巻きしていたものだが、最近の手当の方法はずいぶん変わった。

 今は傷口を保湿、保護するシートを貼るのが主流のようだ。伊織が小学生の頃、工作の時間に彫刻刀で手を切ったことがある。すぐに病院送りになり、傷口を6針縫った。ガーゼ交換のときに傷にべったり付着して取るのが痛くて悶絶したのを思い出した。ガーゼは傷口からの浸出液が付着して、剥がすときに皮膚を痛める。


 大ぶりのシートで曹瑛の傷口を覆う。間近で見るナイフの切り傷は綺麗なものだった。

「見てるだけで痛い」

 伊織が情けない声を出す。

「お前は痛くないだろう」

 曹瑛は呆れている。腕に4カ所、腹に1カ所。横浜で黄に撃たれた傷もある。まさに満身創痍だ。


「伊織は怪我はないか」

「ロープで擦ったくらい」

 曹瑛はフンと鼻で笑い、布団に横になった。朝食の時間まで一時間ほど体力回復のために眠るという。伊織も浴衣のままふとんに大の字で寝転がった。


 ホテルは今日でチェックアウトすることになっている。朝食を済ませて榊たちとロビーで顔を合わせた。

「楽しい遠足だったな、それじゃ東京へ帰るか」

 孫景は帰りも運転をさせてもらえないらしい。榊がしっかりと車のキーを握っている。ホテルの外に出ると、どこまでも澄んだ青空が広がっている。雨に洗われて空気も清々しい。


「俺たちはもう少しここに残る」

 曹瑛が言う俺たちは伊織のことも含まれている。

「帰りはどうする」

 榊の言葉に伊織は電車かバスで帰る、と答えた。曹瑛はすたすたと歩き出している。


「榊さん、高谷くん、孫景さんまた近いうちに」

 伊織は三人に手を振った。また近いうちに、か。伊織は心の中で反芻した。

 今回の件で麒麟会は取引を拒絶した。日本の組織でその決定に逆らうものはないだろう。榊と高谷の目的は果たせた。

 だが、曹瑛は龍神の根幹を叩きにいくことを考えている。


 つまり、曹瑛は日本を離れる。

 伊織ははっとした。曹瑛との縁はこの先どうなるのだろう。前を行く曹瑛が遅いと言いたげに振り返った。伊織は遅れないように走った。

 河口湖畔の遊歩道を歩く。穏やかな風が湖面を滑り、頬を撫でた。雨が降ったせいか、風は心持ち涼しく感じた。遠く見える富士の山は青空に白い冠雪が映えて神々しい。景色を眺めながら、曹瑛と同じ歩調で歩く。


「劉さんはもう上海に帰ったかな」

「さあ」

 曹瑛は興味無さそうだ。湖が見渡せるベンチに腰掛け、曹瑛はマルボロに火を点けた。

「劉さんは強かった?」

「まあまあだ」

 曹瑛は三〇年以上ぶりに再会した兄といきなり殺し合いの喧嘩を繰り広げる羽目になった。なんという数奇な運命だろう。曹瑛もおそらくどこかの段階で劉玲が兄だと気が付いていたのではないか。


 幼子だった二人を誘拐した組織、そして首謀者の黄を憎む気持ちはいかほどだろうか。伊織は曹瑛の身の上に胸を痛めた。兄弟を引き合わせることができたが、また離ればなれになってしまった。こんな悲劇があっていいのか。伊織は唇を噛む。


「お兄さんともっと話をしたくないの」

 劉玲は上海に帰ると言っていた。伊織は言葉を選びながら尋ねる。

「兄は生きていた、それだけでいい」

 三〇年余りの月日が兄弟の心を引き離してしまった。

 再会できたところでもはや他人だな、と曹瑛は小さく笑う。実際にそんな感覚なのだろう。伊織は何も言えなくなった。どう接したらいいか曹瑛自身も思い悩むところがあるのだろう。


「何故お前が落ち込むんだ」

 曹瑛が伊織を小突いた。

「長い間離ればなれになっていた家族にせっかく会えたのに、切ないよ」

「あいつは九龍会の人間だ、そのうちまた会うことになるだろう」

 曹瑛の吐き出した白い煙は青空に吸い込まれてゆく。


 神社や資料館を見学し、湖畔周遊バスで河口湖駅へ戻った。駅の案内板を見れば、新宿まで高速バスが出ているようだ。時間にゆとりがあるので、昼飯を食べに行くことにした。曹瑛は山梨の名物ほうとうを食べたいという。


 駅の近くに老舗があるというので、タクシーで向かった。店の駐車場に見覚えのある黒いバンが停まっている。

「おっ、お前達も来たのか」

「偶然ですね。孫景さん、ここでお昼ですか」

 ネットの口コミサイトで評価が良い店を調べて立ち寄ったらしい。榊の要望で酒蔵見学と日本酒を買い込んでの帰りだという。三人もそれなりに観光を楽しんでいたようだ。

 水車が回転し錦鯉の泳ぐ池のある庭を横切って、渋茶色のれんをくぐる。 

 座敷に通され、男五人掘りごたつに座った。曹瑛はモダンな和風の店内をもの珍しそうに見回している。そして、隣のテーブルの男に、切れ長の目を思い切り見開く。


「劉さん」

 伊織も意外な男の姿に驚いて声を上げる。

「お、あんたらも来たんか」

 隣のテーブルには劉玲がひとり座っていた。パーカーにジーンズ、自然に下ろした前髪で昨夜の裏社会の男の姿とは印象が全く違う。気さくな関西弁の兄ちゃんだ。


 曹瑛と榊、孫景は警戒して心なしか顔がこわばっている。まだマフィア幹部である劉玲を信用していない。

「ほうとうならこの店やと聞いたんや」

 劉玲はその空気を気に留めることなく、にこやかに微笑む。


「劉さんも一緒に食べましょう」

 伊織が劉玲を誘う。曹瑛が余計なことを言うなと伊織の腕をがちっと掴んだ。振り向けば曹瑛の最大級に不機嫌な顔がある。伊織は苦笑いで返す。

「ほんまか、おおきに伊織くん。やっぱり飯はおおぜいで食べるのがええ。ほな邪魔するで」

 劉玲はひょいっと席を移り、伊織の横に座った。


「どれが美味いんやろ」

「オススメはこのかぼちゃのほうとうですね」

 伊織と劉玲が頭を付き合わせてメニューを眺めている。すっかり打ち解けて楽しげに会話する姿に、伊織のキャラクターだからこそと孫景は心底感心する。

 昨日まで刀を振り回していた中国マフィア幹部と仲良くできるのは、怖い物知らずかただの天然か。伊織は店員を呼んで注文を伝えた。


「こちらは孫景さん、運び屋なんだって。その隣は元極道の榊さん、高谷くんは弟さんでパソコンが得意なんだ」

 伊織の大雑把な紹介に劉玲は笑顔でうんうんと頷く。

「孫景はん、個人営業の闇ブローカーやな。聞いたことあるで。榊はんは手強かったな、うちの組織に欲しいわ。高谷くんはあれか、防犯カメラいじってたのは君やな。あれは痛快やったわ」

 劉玲は愉快そうだ。


「劉玲さんは日本に取引の見張りに来たんですよね」

 伊織がカジュアルに尋ねる。

「龍神は恐ろしい毒や。あれだけはあかん。気分良うラリって終わるだけやない。本当に人間を壊してしまう。黄は密かに製法を入手し、量産して販路を確保しようとしていた。その利益は計り知れん。九龍会をも脅かす可能性がある。せやから黄を捕まえに来たんや」


 のんびりと昭和歌謡の流れる店内で、テーブルの空気が凍った。

「俺も個人的には黄に恨みがあるがな。ガキの頃あいつに掠われよって。ほんまめちゃくちゃキツかったわ。あいつはろくでなしや。今回の件で終わりやな。まあ、貧乏な家より飯は腹一杯食えたし、勉強もさせてもろたけどな」

 軽快な関西弁で言われると珍妙だが、劉玲も誘拐されてからひとかたならぬ苦労をしてきたようだ。


「劉玲さんはどこで育ったの」

「俺はハルビンを離れて北京近郊に送られた。そこの、曹瑛とは別の場所や。それから仕事を任されるようになって、上海九龍会に入った」

「どんな仕事をしているんですか」

 それ聞くなよ伊織、という空気が漂ってきたが、劉玲のことは気になっているようなので誰も表だってツッコミを入れない。


「主に組織の資金集めやな。不動産やら美術品やら、裏カジノ、まあいろいろや。榊はんの仕事と同じやろ。俺は毒はやらん。実働も苦手や。昨日は久々にええ汗かいたわ」

 劉玲と死闘を繰り広げた曹瑛は仏頂面で兄を横目で見やる。


「関西弁が上手いですよね」

「俺な、20代の頃、仕事で神戸に住んでたんや。大阪にも行き来があってな。そこで日本語を学んだらこないなってしもて」

 劉玲は頭をかく。伊織は思わず笑った。

「伊織くん笑い事やないで、喋ると面白がられることが多いねん。俺の日本語おかしいんか」


 店員があつあつの湯気が立ち上るほうとうを持ってきた。

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