エピソード59 繋がれた絆

「榊さん、大丈夫?」

 高谷が榊の傷を見て青ざめる。シャツが裂けて、血で汚れている。榊はそのうち止まるだろう、と気にしていない。曹瑛と劉玲の戦いに目をやった。

「あの関西弁、手強い奴だ。俺には蹴りの軌道が読めなかった」

 榊は憎らしげに言う。

「それに、似てるな。あのいけ好かない顔の感じが」

「曹瑛にだろ?」

 孫景が腕組しながら劉玲を眺めている。いけすかないと聞いたら曹瑛は怒りそうだが、言い得て妙だと伊織も思った。


 曹瑛は手になじんだ赤い柄巻のナイフ、M9バヨネット一本で劉玲に応戦している。劉玲は軍用サバイバルナイフと蹴りの2段構えで曹瑛を追い詰める。ナイフの攻撃は読みやすいが、それに加えて刃物を仕込んだ靴での蹴りを組み込んでくる。劉玲の動きはスピードがあり、隙がない。曹瑛の攻撃を受けてもバランスを崩すことなく、余裕の動きでかわしている。

「劉さんは瑛さんのお兄さんかもしれない」

 伊織がつぶやく。

「あいつの兄貴は黄維峰に殺されたと聞いているが・・・」

 兄弟かもしれないから、殺し合いの最中だが話し合いをしようというのは双方聞き入れないだろう。伊織は唇をかんだ。曹瑛がやや押されている。


「お前が八虎連の裏切り者の暗殺者か」

 劉玲がサバイバルナイフで曹瑛の胸元を狙う。曹瑛はM9バヨネットでそれを弾く。

「そうだ」

「なぜ、裏切る?」

「人生を取り戻す」

 劉玲は曹瑛のその言葉を聞いて、一瞬驚いた様子だった。

「組織子飼いの暗殺者が大それたことを考えたもんや」

「お前に何が分かる」

 曹瑛は劉玲の脇腹を狙い、ナイフを突き出す。劉玲が膝でそれをブロックし、別の足で大きな円を描くように蹴りを放った。曹瑛のコートが大きく切り裂かれた。伊織は正面にある祭壇の十字架に祈りたくなった。どちらも傷つかずに勝負を終えて欲しい。なぜ戦わなければならないのか。


「俺は九龍会から取引のお目付役で来たんや、お前に恨みはないけど、邪魔するなら始末せなあかんねん」

 劉玲はまた蹴りを放った。刃物での攻撃の軌道を読んでいた曹瑛の脇腹に膝が入った。物理攻撃だ。曹瑛は脇腹を押さえ、よろめく。その隙を狙い、劉玲がサバイバルナイフで突きを繰り出す。曹瑛はギリギリのところで致命傷を避けているが、ナイフの切っ先は服を、皮膚を裂いていく。間合いを取った曹瑛の足元に血が滴った。呼吸も荒い。


「瑛さんが殺されちゃう、どうしよう」

 伊織が悲痛な叫びを上げる。中華鍋はダンスホールへ置いてきてしまった。曹瑛は血に染まるコートを脱ぎ、机に投げた。

「ええ目や。刺し違えたるという覚悟が見える」

 劉玲は楽しそうに笑った。曹瑛は無言で構えを取る。この一撃に賭けるつもりだ。曹瑛と劉玲、互いの目を見据えて呼吸を止めた。窓の外で稲妻が光った。ステンドグラスが激しい光に輝く。二人は同時に踏み込んだ。


「瑛さん!」

 伊織が叫ぶ。祭壇の中央で、曹瑛と劉玲は動きを止めていた。曹瑛のナイフは劉玲の首筋にピタリとつけられ、静止している。薄皮だけ切って血がすうっと流れ出した。劉玲のナイフは曹瑛の腹の前で止まっていた。二人ともそのまま睨みを利かせている。

「もうやめよう」

 伊織が曹瑛に駆け寄った。劉玲にナイフを当てている腕にすがる。曹瑛は大人しくそのままナイフを下ろした。劉玲も後方に引き下がる。


「俺の負けや」

 劉玲が肩をすくめた。伊織はそれが何故か分からない。不思議そうな顔をしている。

「これや、こいつのせいやな」

 劉玲が床に落ちていたものを拾い上げた。それは健康祈願と書かれたお守りだった。曹瑛に投げて返す。

「あ、それ浅草で俺が買ったお守り」

 曹瑛はバツが悪そうにお守りをポケットにしまった。曹瑛がコートを脱いだときに知らずポケットから落ちたのだった。最後の一撃と踏み込もうとしたとき、それに気づいて曹瑛がほんの一瞬踏みとどまった。その動きのズレが劉玲には想定外で、攻撃のタイミングを逃した。結果、曹瑛のナイフが劉玲の喉元に当てられた方が早かったのだ。曹瑛は劉玲の喉を切り裂くことはしなかった。劉玲も脇腹を刺すナイフを止めた。


「お守りを踏んだらバチがあたるからな」

 伊織は曹瑛がお守りを持っていてくれたことが嬉しかった。

「御利益があったんだよ」

 教会の中でお守りの効力があったというのも滑稽だが、おかげで助かった。孫景も榊も、高谷も安堵している。しかし、劉玲を倒したわけではない。このまま引き下がってくれるのか。


「黄は八虎連の中でも単独で動いていたんや、俺の役目はそれを裏で監視することや。黄の身柄は俺が引き取る。あいつの処分は九龍会の裁きに任せてくれ」

 劉玲は疲れた、といって机に腰を下ろした。鳳凰会や麒麟会へ龍神の取引を組織にも秘密で持ちかけ、金を横領するつもりだったらしい。黄には九龍会から厳しい裁きが下されるだろう。

「龍神は俺が引き上げる」

 劉玲の言葉に、曹瑛と榊、高谷が声を揃えて反対した。

「ああもう、みんなでうるさいわ、俺かて組織の言うとおりに動かんかったら後から目つけられんねんで」

「龍神を転売するんですか?」

 伊織がこわごわ尋ねる。

「知らん。組織が持ち帰れというとる」

「劉さん、お願いします」

 伊織が頭を下げた。劉玲はそれを見てはあっと大きなため息をついた。

「わかった、伊織くんには恩があるからな、もう敵わんで」

「ありがとう、劉さん」


「伊織ってすごいな・・・」

 チャペルの前で榊が龍神の箱に油をまきながら呟く。孫景が吸っていたタバコを飛ばした。木箱が焦げ初め、だんだんと火がつき、炎となって燃え上がった。高谷も榊の傍らでその炎を見上げている。これで日本に龍神が入ってくることは阻止できた。高谷の頭を榊はそっと撫でた。

「九龍会の幹部に恩を売ったんだからな。天然っていうのか、こういうの」

 孫景は吸い足りなかったらしく、またタバコに火を点けた。空を見上げると、厚い雲の隙間から星が輝いている。激しかった雨は嘘のように止み、遠く東の空が紫色に染まっている。日の出が近い。


 劉玲はコートのポケットに手を突っ込んで暗い湖を眺めている。これで良かったのだろうか。龍神を持ち帰る事は課せられた指令のひとつだった。背後から草を踏む音が聞こえ、振り返った。伊織が曹瑛を引っ張るようにして連れている。曹瑛はあからさまに嫌そうな顔をしている。


「劉さん」

「どうした伊織くん、そっちの無愛想なんは友達なんか?」

 劉玲は力なく笑う。

「そう。曹瑛さん」

「仲直りでもせえということか?」

「劉さんは弟さんと離ればなれになったって言ってましたよね」

「・・・」

「出身はハルビンですか」

「そうや」

「瑛さんもハルビンなんですよ。それで、お兄さんを悪いおっさんに殺されたって」

「黄維峰や。俺と小さい弟をさらって、俺は弟を守ろうと必死やったけどあいつに斬られた」


 曹瑛が顔を上げる。

「額にな、うっすらその時の跡が残ってるんや」

 劉玲は湖を渡る風に乱れた髪をかき上げた。眉間にうっすらと刀傷が残っている。曹瑛はその様子を無言で見つめている。

「劉玲さんは昔からその名前なんですか?」

「源氏名みたいなもんや、本名はもう忘れた」

 曹瑛が中国語で何か呟いた。

「・・・なんや懐かしい名前やな、そしたらお前の名前は・・・」


 朝日が昇り始めた。雨上がりの太陽の光が湖を照らし、湖面はキラキラと水晶のかけらのように輝き始めた。伊織はそっとその場を離れた。劉玲と曹瑛、二人並んで無言だった。ただ風に揺れて光を放つ湖面を眺めている。

「良かった、元気そうや」

「・・・あんたも」

「弟が生きてたら、伊織くんみたいやと思ってた」

「フン、冗談きつい」

「こんな根暗に育ってるとはな」

「もう一度勝負するか?」

 曹瑛の顔にはぎこちない笑みが浮かんでいた。


 伊織がチャペルの前に戻ると、龍神はすっかり灰になっていた。榊がタバコの吸い殻を落とし、靴底で踏みにじる。

「あの二人兄弟だったのか」

 榊が湖に立つ二人を眺めながら言う。こうしてみると、確かに背格好も似ている。

「育ちが違うと性格が違ってくるもんだな」

 孫景が妙に納得したように呟く。

「瑛さんはお兄さんが死んだと思ってましたからね。ずっとそれで悩んできたんですよ。そりゃ無愛想で根暗にもなりますって」

「誰が無愛想で根暗だって?」

 振り向けば曹瑛が無表情で立っていた。謝る伊織の頬をつねる。

「いてて、・・・劉さんは?」

「黄を上海に連れて帰るらしい」

「せっかく再会できたのにそれでいいの?」

「連絡を取りたいならお前が奴の携帯を知っているだろう」

「あ、そうか」


「さあ、とりあえずホテルに帰るか。そこの二人は傷の手当てもしないとな」

 孫景が車のキーを指に引っかけてくるくる回している。榊がそれを奪い取った。

「俺が運転しよう」

「それがいい」

 孫景が何か言おうとしたが、曹瑛がそれを遮った。

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