エピソード58 チャペルの死闘
「伊織、お前・・・!」
「ごめん!瑛さん」
伊織が曹瑛の言葉を遮って頭を下げた。黄の頭を中華鍋で背後からぶっ叩いたのだった。ホテルの厨房で使われることもないまま並べてあったのを拝借しておいたのだ。
「このおっさんが銃を出したから、瑛さん撃たれるかもしれないと思って・・・」
曹瑛の攻撃で血まみれの黄の頭を叩くのは気が引けたが、曹瑛の命が危ないと思い咄嗟に鍋を振り上げていた。
「それに、瑛さんがこの人を斬ってしまったら、上手く言えないんだけど・・・どこか遠くに行ってしまう気がして」
伊織が恐る恐る顔を上げた。曹瑛から幽鬼のような表情と、全身を纏っていた殺気は消えていた。その目にも色が戻ってきたように思えた。曹瑛は肩の力が抜けるのを感じた。黄の持っていた長刀をその場に放り出した。そのまま伊織の背を無言で抱いた。
「・・・ありがとな、伊織」
穏やかな声。思わぬ言葉に伊織は驚いた。伊織は曹瑛の背を軽く叩いた。
「うん、もう大丈夫だよ瑛さん」
黄の兄殺しの罪は生涯忘れることはできない、しかし長年ドス黒く渦巻いていた復讐の念はここで断ち切ることができたような気がする。このまま黄を殺していたらどうなっていただろうか?曹瑛は足下に転がる男を一瞥した。闇に堕ちることなく光の当たる場所に戻れた、もう大丈夫だと言われた気がした。
伊織は控え室にあったスカーフを持ってきて縛り、曹瑛の腕の傷を止血した。曹瑛は皮一枚切られただけという。スカーフは演劇で使っていたものなのか、派手なピンクのグラデーションのレース生地で、曹瑛はあからさまに不満げな表情を浮かべている。他に無かったのかと伊織に聞いたらこんなときに贅沢を言わないで、と逆に怒られた。
「ところでこのおじさん、死んでない・・・?」
伊織が心配そうに黄の顔をのぞき込む。肩が上下しているので生きてはいるようだ。さすがに殺人犯にはなりたくない。背後から襲いかかってしまったので、正当防衛という言い訳はできない。中華鍋を振り下ろすときは曹瑛を助けることに必死で、一切手加減しなかったのは黙っておこうと思う。
「このくらいで死ぬような奴じゃない」
曹瑛は吐き捨てるように言った。伊織は舞台袖から余ったロープを持ってきた。
「ホラー映画だと、怪物を殺したと思ってそのままにしとおくと、実は生きてて絶対にラストシーンで襲いかかってくるんですよ」
伊織が真面目な顔で言う。何を言っているのかよく分からなかったが、どうやら黄を簀巻きにするのを手伝えということらしい。
「ロープで縛っておけば止血になりますかね・・・」
「そうだな、しっかり縛っておけ」
伊織には曹瑛の言うことが本気か冗談か分からなかった。
「チャペルに取引用の龍神が運び込まれているらしいんです」
それを処分しなければ。
「行くぞ」
曹瑛と伊織はダンスホールを出た。大階段を駆け下り、エントランスを出る。外は横殴りの雨が降っている。ドアを開けた途端、雷鳴がとどろき、伊織はビクッと肩をふるわせた。
「うわ、すごい雨だ」
チャペルまで50メートルほどだったか。これでは濡れ鼠になってしまうが仕方ない。伊織は助走をつけて走りだそうとした瞬間、腕をつかまれ引き戻された。
「えっ、何?」
驚いて曹瑛を見上げる。曹瑛は手にホテルに備え付けの黒い傘を持っていた。
「気休めにはなるだろう」
傘を差し、曹瑛と伊織は二人三脚でチャペルへ向けて走る。そもそもの身体能力が違うのとコンパスの差もあり、曹瑛は足が速い。伊織は腕を引っ張られながらついていく。途中に走り抜けたイングリッシュガーデンは長く手入れをしていないため蔦が茂り、花壇は荒れ放題で不気味な様相だった。苔に覆われた水瓶を持つ女性の大理石の彫刻が淀んだ池の真ん中に立っている。
チャペルに到着し、観音開きのオーク材の扉を開けた。礼拝堂の真ん中で男が2人、ステンドグラスを背に刃物を持って睨み合っている。1人は榊、もう一人は劉玲だった。
「うそ、劉さん・・・!」
伊織が驚いて目を見張った。曹瑛はあらかた予想をしていた、劉玲とはおそらくこの取引で会えるだろうと。劉玲は前髪は軽く流したオールバックにライトグレーの薄手のトレンチコート、黒のスリーピーススーツ、紺色のタイを絞めている。伊織と出会ったときのカジュアルな服装とはイメージが違い、見たときは誰か分からなかった。昼間は愛想良くニコニコしている顔の印象が強かったが、今は殺気を放ち剣呑な眼差しで榊を捉えている。思わず曹瑛の顔を見た。こういうコワイ顔だとやはり余計に似ている、そう思ったが伊織は黙っておくことにした。孫景と高谷が礼拝堂の脇で控えていた。二人に合流する。
「どうなっている?」
曹瑛が孫景に尋ねた。
「ここに取引用の龍神がある。処分しようと突入したら、あの男がここで張っていたというわけだ。簡単にはいかないらしい」
「やはり、あの九龍会の男か」
「そうだな、なかなか腕が立つぞ」
劉玲は刃渡り60㎝の刀を手にしている。榊がドスで上方から斬りかかる。劉玲はそれを刃で受ける。力での押し合いは榊の方に分がありそうだ。劉玲の刀は弾かれ、榊はその隙をついてドスを横一文字に薙いだ。劉玲のスーツが切り裂かれた。劉玲が一歩退いたことで、肉には達していないようだ。
「なかなかやるやないか、兄ちゃん」
スーツの裂け目を弄びながら劉玲が楽しそうに笑っている。真剣勝負の場に軽妙な関西弁が違和感満載だ。
「お前が邪魔をしなければ怪我をすることもない」
榊はドスを劉玲に向ける。
「そういう訳にはいかんのや、こっちも仕事やからな」
今度は劉玲が斬りかかる。細身で軽やかな動きだ。リーチも長い。3合ほど打ち合ってまた間合いを取る。榊がドスを低めに構え、下から突き上げた。劉玲はそれを長刀で受けるが、榊はドスをひねり上げ、それを弾き飛ばした。劉玲の刀は音を立てて床の上に転がった。
「観念しろ、そこをどけば危害は加えない」
劉玲は刀を持っていた手をさすりながらニヤリと笑う。
「やっぱり刀は苦手や」
劉玲が肩の力を抜き、両手をぶらんと下げた。
「あいつ、降参するのか?」
「いや、何かあるな」
孫景の問いに、曹瑛は劉玲が何か仕掛けようとしていることを見抜いている。高谷は息を呑んで榊を見守っている。劉玲が真っ直ぐに足を蹴り上げた。榊はそれをのけぞって避ける。劉玲は軽やかな着地と同時にもう片方の足で回し蹴りを放つ。榊の胸元が裂け、血が流れ出す。
「榊さん!」
高谷が悲痛な叫びをあげる。
「何が起きたの・・・!?」
劉玲は榊に蹴りを見舞っただけだ。なぜ榊が傷を負ったのか分からない。
「奴の靴だ」
「仕込みナイフか」
榊が吐き捨てるように言う。劉玲の靴の先端に10㎝ほどの刃物が光っている。
「俺は足癖が悪いんや、こっちの方が性に合ってる」
「榊、交代だ」
曹瑛が祭壇に上がり、劉玲と対峙する。
「この男はプロだ、俺がやる」
榊はギリ、と奥歯を噛んだ。ガキの頃から喧嘩に明け暮れ、場数だけは踏んできた。度胸だけは誰にも負けない。しかし、曹瑛が言うように殺すための訓練を受けた者に喧嘩技は通用しない。先ほどの蹴りも劉玲はおそらく手加減していた。本気を出せば、喉元を切り裂けただろう。榊は曹瑛の目を見て、頼んだぞと短く言い祭壇を降りた。曹瑛は無言で頷く。
「瑛さん、気をつけて」
伊織が声をかける。劉玲が伊織の姿を見て口をぽかんと開けた。
「なんや伊織くん、こいつらと一緒なん?」
「そうです・・・このために来ました」
「あんたみたいなええ子がこんなガラの悪いのと関わっとたらあかんのやで」
「みんな大事な友達なんです」
伊織と劉玲の間に曹瑛が割って入る。
「無駄口を叩くな、お前を排除して龍神を処分する」
曹瑛は真面目な顔をしているが、その表情には明らかに不機嫌なものが混じっている。背中から赤い柄巻のナイフを取り出した。劉玲も曹瑛を見て同業者と気が付いたようだ。
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