エピソード42 束の間の日常

 灰が舞い散るように雪が降っていた。白い雪に覆われた灰色の村。目の前で兄を斬り殺され、小さな曹瑛は何もできない悔しさと悲しさ、そして恐怖に泣き叫んでいる。涙でぐちゃぐちゃになった顔で、黒い帽子の男を見上げる。

 男は額に銃を突きつける。黒かった髪はいつの間にか白いものが混じり、目尻には亀裂のような醜い皺が刻まれている。男が黄色い歯を見せて笑う。


 引き金を引く音がした瞬間、曹瑛は目を覚ました。焦点が緩やかに定まってゆくと、タバコのヤニで薄く黄ばんだ天井が見えた。

 体中にじっとり汗をかいている。血液が通う度に腕と太ももがズキズキと疼く。痛みと、帽子の男への憎悪に唇を歪めた。


 頭を横に向けると、誰かがすぐ傍で眠っている。切り裂かれたジャケットの背中を見て、深夜の出来事を思い出した。

 曹瑛はゆっくりと半身を起こした。力を入れると傷が痛み、思わず顔を歪める。ベッドが軋んで伊織も目を覚ましたらしく、のろのろと顔を上げた。

「瑛さん・・・起きたの」

「ああ」

「気分はどう、怪我は痛む?」

「最悪だが、大丈夫だ」

「良かった」


 伊織は安堵して、ホッとため息をついた。今何時だろう、時計を見ればいつの間にか夕方4時をまわっていた。

「帰るぞ」

 曹瑛は撃たれていない方の腕を支えに体を持ち上げ、立ち上がった。床に足をつくと体重がかかり、大腿の傷が疼いた。


「わ、危ない、無理だよ」

 立ち上がりざまにバランスを崩した曹瑛の体を伊織が慌てて支えた。

「自分で歩ける」

「今転びそうだった」

 伊織はちょっと待って、と曹瑛をベッドに座らせてバタバタと部屋を出て行った。

 曹瑛は頭を抱えた。このくらいの怪我、いつもなら自分で歩いて隠れ家まで帰り、適当に消毒して布で縛ってそのまま寝ていたものだ。


「これ、借りてきたよ。それに支払いは孫景さんが済ませてくれた」

「・・・そうか」

 孫景に借りができてしまった。伊織はスチール製の松葉杖を曹瑛に手渡す。曹瑛はいらないと拒否したが、伊織はかっこつけている場合じゃないと強引に押しつけた。


「車で迎えに来てもらおうか」

「いや、いい。あいつは運転が下手くそだからな、傷が開いてしまう」

「・・・瑛さんもそう思うんだ」

 伊織はおかしくなって笑った。同じ中国人の曹瑛でも孫景の運転にはもの申したいらしい。

「ここはどこだ。近くで踏み切りの音が聞こえたから、駅が近いはずだ」


 曹瑛は立ち上がり、松葉杖をついてよろよろと歩き始める。伊織は慌ててついていく。処置室を出ると、母と子を見送る院長の姿が見えた。

「先生、ありがとうございます、お世話になりました」

 曹瑛に付き添いながら伊織は深々と頭を下げた。院長は穏やかな表情を浮かべる。


「行くのか、気をつけてな。またいつでも来い」

「それは勘弁だ」

 曹瑛がぼやく。

「あんたが紅い虎と呼ばれた男か。話に聞くような男には見えんのう、噂は噂か」

 曹瑛は何も言わず、裏口に向かって歩き始めた。伊織はドアを閉める前にもう一度院長に会釈をした。院長は2人の出て行ったドアをしばらく眺めていたが、やがて診察室へ消えていった。


 新宿駅について、リハビリで歩くと言い張る曹瑛を無理やりタクシーに押し込んで、マンションに帰った。

「せめて今日はおとなしくしてください」

 曹瑛はふて腐れてリビングのソファに倒れこんだ。マルボロに火を点けてうまそうに煙を吐き出している。思えば1日ぶりのタバコだった。煙が肺に染み渡る。

「腹が減ったな」

 面倒だからデリバリーを頼もうという曹瑛に、伊織は買い出しに行くと妙に張り切って部屋を飛び出していった。


「元気だな、あいつ…」

 曹瑛は閉まるドアを眺めながらつぶやいた。短くなったタバコをもみ消し、シャワーを浴びる。傷口にこびりついた血や汗を洗い流せば気分もサッパリした。慣れた手つきで消毒をして包帯を巻いておく。部屋着に着替えてソファに身を投げた。

 伊織たちに救われた。もし一人だったら、帽子男に頭を撃ち抜かれて死んでいた。曹瑛は唇を噛む。日本に来て、相当腑抜けている。しかし、フライパンだと、曹瑛はおかしくなって笑いだした。


 チャイムが鳴り、伊織が帰ってきた。両手に食材が詰まったスーパーの袋を抱えている。慌ただしくキッチンに運んで、料理の支度を始める。

「お前も疲れているだろう、そんなに張り切ってどうするんだ」

 ソファから立ち上がった曹瑛を伊織は押し戻した。

「けが人は休んでてください」

 いつになく強引な伊織に気圧されて、曹瑛はただ黙って従うしかなかった。トントンと包丁のリズミカルな音が聞こえてくる。平和な音は束の間の日常に戻った気分だ。


「あ、フライパンを、孫景さんの車に忘れてきました」

 榊の刀を受けたフライパンのことだ。この部屋に備え付けのフライパンはあれ一つしかない。

「ちょっと、取りに行ってきます」

 伊織が慌ただしく玄関に向かう。

「おい、待て。孫景がどこにいるかわかるのか」

「あ、知らない」

 曹瑛が呆れて伊織を止めようとしたとき、玄関のチャイムが鳴った。誰だ、もしかして八虎連か鳳凰会の刺客がやってきたのか。緊張が走る。伊織がおそるおそるのぞき窓を覗くと、相手も覗きこんでいたようで、顔がアップになって驚いた。


「孫景さん」

 伊織はドアのカギを開けた。ドアの外には孫景が立っていた。

「無事に帰ってたんだな、邪魔するぜ」

 まるで自宅であるかのようにのしのしと上がり込んでくる。

「昨日の礼にメシでもごちそうになろうかと思ってな」

 孫景が背中からフライパンを取り出した。伊織は思わずフライパンに飛びつく。

「ちょうど探してたんです、これ」

「そうだろうと思ったよ」

 孫景は不機嫌な顔の曹瑛を見てニヤリと笑い、ダイニングの椅子に腰を下ろした。曹瑛は舌打ちをしながらソファに戻っていった。


「いただきます」

 3人で囲む平和な食卓に、鉄工所での命がけのバトルがまるで嘘のように思える。

 フライパンには榊のつけた刀傷が残ってはいたが形状に問題はなく、皿に山盛りのレバニラ炒めを作ることができた。テーブルに並ぶのはわかめたっぷりの海藻サラダに、もやしの酢の物、ほうれん草とベーコンのバター炒め、山芋と刻んだオクラを乗せた鉄火丼。


「すごいごちそうだな」

 孫景は目を見張る。

「血を作る食材なんだって、しっかり食べてはやく治さないと」

 曹瑛は黙々と食べている。傷を負ったものの、食欲は通常運転だ。山盛り作ったレバニラは最後には孫景と取り合いになるほどで、結局孫景が折れた。

「お前は招かれざる客だからな」

「フライパン無かったらこれ出来てないからな」

 いかつい男2人の小学生レベルの言い合いも、どこか微笑ましい。


 皿はすべてきれいに片付いて、曹瑛が淹れたお茶がテーブルに並んだ。さわやかな渋みのある西湖龍井だ。グラスの中に瑞々しい茶葉がふわりと浮いている。

 伊織は近所の老舗の和菓子店で買ったみたらし団子を並べた。

「今後の龍神の取引の話、つかんだぜ」

 孫景がだんごを頬張りながら切り出した。曹瑛と伊織は孫景に注目する。

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