エピソード41 眠り

 帰りは伊織がハンドルを握ることになった。孫景は烏鵲堂の店主に電話をしながらメモを取っている。そしてナビに住所を入力して目的地をセットした。

「病院の場所を登録した。このまま行こう」

 首都高速は早朝でも車が多いが、渋滞にはつかまらずに都内へ戻ってくることができた。高速を降りて、ナビが示す古めかしい小さなクリニックの駐車場に到着した。


「華田医院、ここだ」

 後部座席の曹瑛を2人で担いで入り口脇のインターホンを押した。孫景が中国語で何か話している。

 ガラス張りの自動ドアの向こうのカーテンが開いた。豊かな白髪の初老の男性が立っており、手動で自動ドアを半分開けた。3人が入ると、午前臨時休業の張り出しをしてまた自動ドアを閉めた。


「銃創です、2発。腕と足」

「こちらへ」

 初老の男性はよれよれの白衣を羽織った。銃創と聞いても驚かないのは、ここはいわゆるもぐりの医者なのだ。裏社会の人間はお抱えの闇医者を持っている。こんな情報を提供してくれる烏鵲堂は本当に”なんでも屋”だ。


 曹瑛は処置室へ運ばれ、伊織と孫景は外の待合で待つことになった。伊織はクッションがくたびれた長椅子に座った。

 壁には手指衛生、予防接種、生活習慣病予防の行政ポスターが貼ってある。その隅の方には漢方薬の一覧。見たところ、ごく普通の開業医だ。子供向けのスペースもあるので小児科も診ているのだろう。


「ここの院長は烏鵲堂のオヤジの古い知り合いらしい。腕も確かだと聞いている」

「それなら安心ですね」

 伊織は無理に笑顔を作る。

「死ぬような傷じゃない、安心しろ」

 孫景は伊織の背中をポンと叩いた。彼がそう言うならきっと大丈夫、伊織は目を閉じてそう言い聞かせた。


「モーニングでも食べに行こうか」

 そういえば、昨日の夜から何も食べていない。ここで待つだけでは気が滅入るし、孫景の提案はありがたかった。

 処置中の院長に声をかけ、裏口から外へ出る。時計を見れば朝の8時。横断歩道の向こうに昭和の雰囲気を残すレトロな喫茶店を見つけた。

 店内には出勤前のひとときを過ごすサラリーマンがちらほら座っていた。伊織は孫景について奥のボックス席へ着席する。モーニングセットを2つ注文した。水を口に含めば、冷たさに空っぽの胃がぎゅっと縮み上がるのを感じた。座り心地の良いソファに体が沈み込む。


「伊織も頑張ったな」

「無理矢理付き合わせて、ありがとうございました。孫景さんがいなければどうなっていたか」

「あいつもプロだからな、易々と殺されたりはしないだろう」

 ただ、帽子の男に対して冷静さを欠いていた。あの曹瑛が自分を見失うほど感情的に動いていたことに驚いた。


「榊さんはどうなるんでしょう」

 高谷の兄という強面の極道のことも伊織には気がかりだった。

「極道のけじめをつけることになるだろうな。取引の失敗、それに大事なブツを灰にしちまったんだからな。八虎連からも狙われるだろう。おそらく、今回の取引の破談で日本の別の組織に話が回る。龍神の流通は止められない」


 不穏な話の最中に、焼きたてのトーストとサラダ、コーヒーがテーブルに並ぶ。トーストには目玉焼きとハムが添えられている。伊織の腹がぐうと鳴った。こんなときに緊張感のない胃袋が憎い。

 皿を空にして温かいコーヒーを飲めば、ほっと一息つく。体が鉛の様に重かった。全速力で走ったり、敵の刃物の前に飛び込んだり、普段はしない運動をしたため節々が酷く痛かった。


「そろそろ見舞いにいくか」

 孫景が指に伝票を挟んで立ち上がる。伊織も慌てて立ち上がる。支払いをしようとポケットを確認したが、財布は無かった。

「ごちそうになります」

 伊織は孫景に頭を下げる。またおごられてしまった。華田医院の裏口を開けると、院長が奥の部屋から顔を出した。


「出血はひどいが、肩の傷は肉を抉っただけ、足の方は弾を取り出した。あとは療養じゃ。目が覚めたら連れて帰ってやれ」

 伊織はそれを聞いて、安堵のため息をついた。死なないと分かっていても、曹瑛のあの蒼白な顔を見ればやはり心配だった。しかし、医者から帰宅許可が出るなら安心だ。

 孫景は院長と2人で金の話を付けている。話がついたのか、奥へ引っ込もうとした医者を伊織が引き留めた。


「自宅で療養するときの注意、教えてもらえませんか」

「しっかり栄養を取って、とにかく静養じゃ。それと傷口を清潔に保つ。シャワーくらいはかまわん。血を作るものを食わせるのがいい。漢方を処方しておいた。持って帰るといい」

「ありがとうございます」

 伊織は頭を下げた。小柄な院長は背を向けたまま手を振って、奥へ引っ込んでいった。


 処置室のドアを開ける。薄いカーテンの向こうに簡易ベッドが見えた。そっとカーテンを開けると曹瑛はまだ眠っている。

「鎮静が効いているんだろう、いつ目が覚めるかわからんな」

 蒼白だった顔色は、やや血色が戻ったように思えた。伊織は傍らの丸椅子に腰掛けた。胸にかけてあるシーツがかすかに上下しているのを見て、生きていることに安心する。

「俺、側にいます」

「いつ起きるかわからないぞ」

「起きたとき、側に誰もいなかったらきっと不安だから。それに俺はまだ観光案内のバイト中ですしね」

「もし、迎えが必要なら電話してくれ。俺の番号知ってるな」

「ありがとうございます」

 伊織は笑顔で孫景に礼を言った。扉が閉まる音。それからは壁に掛けられた時計の針の音しか聞こえなくなった。


 何でこんなことに巻き込まれたんだろう。静かに眠る曹瑛の顔を眺めながら思う。割の良い観光案内のバイトか、とんだ冗談だ、そう思うとおかしくなった。曹瑛の目的は狂気のドラッグ、龍神をこの世から消すこと。彼は一人で戦う覚悟を決めて日本にやってきたのだ。

「やっぱり、ほっとけないよ」

 伊織はいつの間にかベッドの脇に座ったまま顔を埋めていた。遠くで子供達の声がする。クリニックの診療が始まったのかもしれない。もう少し、このまま。伊織は深い眠りについた。

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