エピソード33 高谷の相談事
伊織は一度口をつけたコーヒーカップを置いた。国際的なヤクザの戦争ということか、とんでもないことに首を突っ込んでしまった。
「曹瑛は日本に来たことを組織に話していない。しかしそのうちバレたら追われる身だ。組織には面子があるからな。子飼いの暗殺者が逃げたとあっては執拗に追われて、もちろん消される。おっと、そんな顔するなよ伊織・・・あまり喋ると曹瑛に叱られるな」
孫景はしまった、という表情で頭をかいている。
血の気が引いていく。なんとなく、そういう世界の話というのは頭では分かっていたものの、歯に絹着せぬ説明をされるとやはりショックだった。
「曹瑛は出て行けって言ったんだな、危険な目に遭わせたくなかったんだろう。そもそも、これまであいつとこんなに一緒にいた奴は見たことがない。相当気に入られてるぞ、伊織」
「こんなにって、まだ1週間も経ってないですけど」
そうだ、出会ってまだ一週間も経っていないのか。知らない世界に足を突っ込んであまりにも濃厚な毎日だった。
「こっちに来て、あいつは変わった気がする。以前は近づく者を威嚇するヒリつくような殺気を漲らせていた。日本で平和ボケしたか、伊織に感化されたか。だいたい、料理ってマジか」
孫景はなにやら想像しているらしく、ニヤニヤ笑っている。
「俺はケンカすらできないから役に立てないし、邪魔になるのは分かってる。でも、瑛さんを助けたいんだ。けど、やっぱりもう戻らない方がいいのかな…」
孫景は吸おうと手にしたラッキーストライクを弄びながら、何やら考えている。
「そうだ、伊織は戦闘要員じゃない」
思考を停止したままコーヒーカップの文様を何気なく目で追っていた伊織は、顔を上げて孫景を見た。
「あいつは今まで組織が与える殺しの指令だけを完璧に遂行して生きてきた。それが今、初めて自分の意思で何か行動を起こそうとしている。伊織はあいつの心の支えになっているんじゃないか。俺はそう思うな」
「でもあんなに怒ってたし・・・どうしよう」
「ま、帰って飯を食おうや」
孫景はテーブルの端に置かれていた伝票を取り上げて、レジに向かった。伊織は慌てて財布を出そうとしたが、いらないと突っぱねられた。
喫茶店を出てスーパーで買い物を済ませる。会計のレジで若い女の子が今日は違うお友達と一緒なんですね、と伊織に話しかけてきた。
「いつも背の高い人と一緒に買い物に来てますよね」
「あ、ええまあ」
見られていたのか、と伊織は内心驚く。曹瑛は長身だし、モデルのような整った顔立ちは目立つのだろう。
「あの人すごくカッコいいなあって、ねえ」
一緒にレジを打っていたやや年配の女性と顔を見合わせた。
「あんな仏頂面が好みなの」
伊織の肩越しに孫景がからかい調子で店員に話しかける。
「綺麗な顔よね、イケメンだわ」
「ほんとに、テレビの人かと思ってたわ」
テレビの人、というのはテレビに出るほどの有名人という褒め言葉だ。
孫景が買い物の代金を払ってくれた。大入りの買い物袋を手にスーパーを出る。
「瑛さん人気だな」
伊織はしみじみ呟く。
「組織に誘拐されなきゃ、あいつにも他の人生があったんだよな」
孫景の何気ない言葉が伊織の心に重くのしかかる。
マンションについてエレベーターに乗ろうとしたとき、エントランスにいた青年が立ち上がった。伊織はその顔を見て、驚いて立ち止まる。孫景はいつでも武器を取れるよう身構えた。
「高谷くん」
伊織の前に立っているのは、新宿のバーで会った青年だった。昼間の光の中で見れば思っていたよりもずいぶん若く見える。服装もパステルカラーのシャツに薄手のパーカー、イージーパンツ、少し長めの前髪が目にかかって心なしか幼い印象を与えていた。
「どうも、こんにちは」
高谷はぎこちない表情で軽く会釈する。その態度はごく自然で、あの店にいたときのような不敵な気配は消えていた。
孫景はまだ気を許していない。彼が次にどう出るか、動きを見守っている。伊織も思わぬ人物から突然声をかけられたことで戸惑っていた。
「なぜここが」
伊織は一番の疑問を口にする。
「友達に聞いて探してもらったんです。さっき、たまたまエントランスから出てくるのを見かけたのでここで待っていました」
高谷は申し訳なさそうに頭を下げる。この青年は鳳凰会の榊の知り合い、か恋人だろう。
わざわざコンタクトを取ってくるとは不穏な話に違いない。伊織は身構えた。しかし、高谷のどこか余裕のない表情を見て無碍にすることもできなかった。
「相談したいことがあります。俺からの相談です」
つまり、榊の指示ではないということだ。孫景はエレベーターのボタンを押した。3人で部屋の前に来た。
チャイムを押すと、しばらくして鍵が開く音がした。伊織はドアを開ける。
「ただいま・・・」
曹瑛がいてくれた、それだけで伊織はほっとした。曹瑛の緊張が解けたのが分かった。
「入れ、・・・なんだその男は」
ドアを開き、目の前に立つ高谷に気づき、曹瑛は背中に隠したバヨネットに手を伸ばした。
「待て待て、せっかくのお客さんだろ。みんなで飯にしよう」
孫景が割り込んでドアをいっぱいに開け、高谷に中に入るように促す。そのいかつい外見から無神経で強引な印象を与えるが、この男は周囲をよく見て気を遣っていると伊織は感心した。
ダイニングには曹瑛と孫景と高谷の3人が座っている。伊織はキッチンで4人分の昼食の用意をする。
曹瑛が醸し出している険悪なムードの中に入らずに済んで、安心していた。ちらと振り返ればダイニングはお通夜の様相を呈している。
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