エピソード32 望まない来客

 突如、背後から長い腕が伸びてきて、伊織は反射的にドアノブから手を放す。振り向こうとして、大きな手で口を塞がれた。

 目の前には鈍い光を放つナイフ。秘密を知った伊織を生きて返さないということなのか。

 伊織は逃げだそうと必死で身じろぎするが、体を押さえつけられて全く動けない。曹瑛は長身だが、かなりの細身だ。一体どこにこんな力があるというのか。


「外に誰かいる」

 耳元で曹瑛が囁く。伊織は脱力して曹瑛に体を任せた。曹瑛は伊織を自分の後ろに追いやり、ドアノブに手をかける。その瞬間、ドアが大きく開け放たれた。


「よう」

 立っていたのは孫景だった。曹瑛の後ろにいる伊織にも笑顔で手を振り、愛想を振りまく。曹瑛は苦々しい顔で舌打ちをしながらドアを閉めようとする。

「おいおい、待てよ」

「何の用だ」

「せっかく人が挨拶に寄ったんだ、入れてくれないなんて野暮だぞ」

 ドアを挟んででかい男2人が攻防を繰り広げる。曹瑛は大きなため息をついて、折れた。邪魔するよ、と孫景は軽い調子でブーツを脱ぎ、部屋に上がり込んできた。


 今生の別れの瞬間に水を差され、玄関に置き去りにされた伊織は茫然と立ち尽くす。このままそっと出て行くか、改めて別れの挨拶をするか。完全にタイミングを逃してしまい、伊織は頭を抱える。

 不意に腕を引っ張られた。振り向けば曹瑛だった。

「茶でも飲んでいけ」

 思いがけぬ言葉に、伊織はうん、と頷いた。


 澄んだグラスに西湖龍井の葉が浮いては沈む。明るい緑色の茶葉は涼やかで、心が落ち着いた。ダイニングテーブルを囲んで3人、先ほどから孫景がどうでもいい世間話を続けている。


「それで、お前どうやってここが分かった」

 腕組をした曹瑛は不機嫌全開で眉根に深いしわを刻んでいる。

「GPSだよ、伊織のポケットに入ってるはずだ」

 伊織には全く覚えが無かった。そういえば烏鵲堂の地下で初めて孫景と会ったとき、名刺をポケットにねじ込まれたのを思い出した。あの時にGPSを入れられたのだろう。曹瑛は小さく舌打ちをした。

「最近のは小型で高性能だからな」

 孫景はジャケットの内ポケットをまさぐっている。探しているものが見つからないようだ。


「切らしてたな、一本くれ」

 曹瑛はポケットから取り出したマルボロの箱ごとテーブルの上を滑らせて孫景の方へ寄越した。ライターは持っていたらしく、タバコに火を点けようとして、孫景は伊織を見た。

「吸っていいか?」

「え、ああ、どうぞ」

 孫景はガタイがでかくて乱暴そうに見えるが、気配りができる男のようだ。そういった処世術は曹瑛よりも長けていると感じられた。孫景は美味そうに紫煙をくゆらせている。


「榊とは会ったのか?」

「交渉は決裂した」

 曹瑛はつまらなそうに言う。

「じゃあ取引の現場を潰すのか」

「・・・それしか無いな」

「どうする気だ」

 孫景の質問攻めに、曹瑛は面倒くさそうに目を閉じる。

「今考えている」

 曹瑛は伊織とのやりとりがリフレインしているのか、やや苛立っているようだ。


「お前は時々抜けてるところあるからな、心配だぜ」

 孫景がタバコの灰を落とした瞬間、曹瑛が身を乗り出し正面に座る孫景の喉元にナイフを突きつけている。孫景は手を上げて無抵抗のジェスチャーをした。

「ああ、悪かったよ、でもお前を心配してやってるんだぞ」

「余計な世話だ」

 曹瑛は伊織を一瞥してナイフを引っ込めた。

「ほら、孫景さんも言ってるじゃないか」

 伊織がぼそっと呟いた。曹瑛が横目で睨みつける。


「腹減ったなあ。お、飯は作ってるのか」

 孫景はキッチンの調味料を見つけ、ここで自炊していると気づいたようだ。

「伊織が作ってるのか」

「はい、時には瑛さんが・・・」

「え、曹瑛が?料理できるのお前?」

 孫景は身を乗り出して驚いている。曹瑛は頬杖をつき、タバコをくわえたまま無視を決め込んでいる。


「中国料理、めちゃくちゃ美味しいですよ」

「信じられねえ。曹瑛の飯食べたの伊織が世界初じゃないのか、こいつが料理なんて」

 孫景は珍獣でも見るような目つきで曹瑛を凝視する。曹瑛は不機嫌そうにタバコをぐりぐりと揉み消した。

「そんなにレアなんですか」

 確かに、この無愛想な男が料理を振る舞ってくれたのは奇跡に近いのかもしれない。


「ま、でも伊織に作ってもらおうかな」

「それなら、食材を買いにいかないと」

 じゃあ行こう、と暗い影を落としている曹瑛を尻目に、孫景に連れられて伊織はマンションを出た。

 帰ったら鍵をかけられているか、居なくなっているかも、という不安が頭を過ぎる。そうなるとスーパーの買い物袋を手に路頭に迷うことになってしまう。


 マンションから一番近いスーパーを目指し、伊織と孫景が肩を並べて歩く。

「心配してるのか」

「実は、さっきケンカというか、俺が瑛さん怒らせちゃって、もう出て行けって。そこにちょうど孫景さんが来て、なんかもうすごいタイミングだったんですよ」

 伊織は項垂れる。

「何で怒ったの、あいつ」

「俺が口を滑らせて、瑛さんは抜けてるって言っちゃったんです」

 孫景はぶっと吹き出した。しばらく笑い転げた後、ちょっと寄り道しようかと孫景はひなびた喫茶店に伊織を連れていった。奥のボックス席にかけてコーヒーをふたつ注文する。


「曹瑛は仕事は完璧にこなす。組織の評価も高い。で、周りを信用しないから誰とも組まない。まあ裏の世界は誰も信用できないもんだけどな」

 ウエイトレスがコーヒーを2つテーブルに置く。孫景は彼女に愛想良く手を振り、コーヒーを口にする。

「孫景さんも瑛さんと仕事したこと無いの」

 付き合いがありそうな孫景でも正式に組んだことはないという。


「あいつな、危なっかしいんだよ。真っ直ぐすぎる。誰にも頼らないし、だから抜けてるところがあるんだよ」

 抜けている、穴を埋める人間がいないという意味か、伊織も何となくそう思っていた。危険な仕事を自分だけで全てこなそうとする。


「曹瑛はな、自分の組織の仕事を潰そうとしているんだ」

「・・・えっ」

「中国東北地方を拠点にしている八虎連という連合組織がある。曹瑛が雇われているのはそのうちの枝。龍神の生産と販路拡大はこの八虎連が仕切っている。その上位組織が上海の九龍会だ」


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