エピソード31 けんかと別離

 カーテンを開ければ、清々しい青空が広がっている。ビルに反射する朝日が眩しく、伊織は目を細めた。

 ダイニングテーブルには溶き卵とねぎを入れたシンプルなお粥、漬物、味噌汁が並ぶ。カクテル一杯で大いに悪酔いした曹瑛には、胃に優しい朝食がいいだろう。


「昨夜は面倒をかけた」

 食卓を囲んでいるときだった。曹瑛はばつが悪そうに呟いた。伊織は目を丸くする。この男、人に謝ることもあるのか。

「ここまで連れて帰るの大変でしたよ、だから止めたのに」

「あの場で飲まないのは格好がつかない」

 曹瑛はぼんやりした目でぽりぽりと漬物をかじっている。面子のためだったのか。確かに、榊がブランデーを傾ける姿はサマになっていた。

 不思議なもので、店を出て人気が無くなるまではしっかりした足取りで歩いていた。気合いで酔いをコントロールできるなら、なぜマンションに帰るまで気合いを入れてくれないのかと思ったが、伊織はあえてそれを口にしなかった。


「あのとき伊織がマスターに話を振らなければ、榊を刺していたかもしれない」

「え、マジか」

 伊織はあの時の胃がキリキリするような緊張を思い出し、頭を抱えた。血なまぐさい乱闘事件を起こさないよう空気の流れを変えるのに必死だった。

「交渉、ダメでしたね」

「まあ、そうだろうな」

 曹瑛は粥をすすりながら平然と言い放つ。この男は本来バリバリの武闘派なのだろう、どう見ても交渉が上手いようには思えなかった。


「だが、榊がどんな男か分かった」

「そう言えば、あのタカヤって青年と待ち合わせしていたようですね」

 店の特性を考えると、同性カップルの可能性が頭をよぎる。ああいう店に取り巻きを連れて乗り込むような無粋な男ではない。だから、曹瑛は伊織を連れて行ってもリスクが少ないと踏んだのだろう。


「高谷結紀とか言っていたな」

 曹瑛は雑音の多い店内で伊織とタカヤの会話が聞こえていたようだ。地獄耳にも程がある。

「龍神で恋人を失ったのに、新しい男が龍神を売り捌こうとしている」

「それって、残酷だ」

「相手を知らずに付き合うのが悪い」

 伊織は複雑な表情で曹瑛を見つめた。目の前で味噌汁を啜っている男のことを自分はどこまで知っているのだろう。


「次はどうする」

「中国の組織と取引開始の顔合わせがある。もとは鳳凰会の柳沢が出向く予定だったが、代理の榊がトップで参加するようだ」

「まさか・・・」

「潰しにいく」

 昭和のヤンキー漫画の台詞か、と伊織は思った。地元の中学校は随分荒れていた。派手なカラーのツーブロックにド派手な刺繍を学ランの裏地に入れた奴らが授業をサボって校舎裏でタバコを吸っているような学校だった。

 鬱屈したエネルギーを持て余し、隣町の学校を潰しに行くなんていきがって怪我をして帰ってきた奴は英雄になっていた。

 潰しにいく、やんちゃな奴が連呼していたのを思い出す。

 だが、これはそんなオママゴトではない。


「あのう、そんなヤバい場所に乗り込んで、どうやって戦うの」

「今考えている」

「ちょっと待って瑛さん」

 平然と答える曹瑛に、伊織は目を見開く。

「俺は嘘は嫌いだ」

 伊織はテーブルに突っ伏した。曹瑛は食器を片付け、ソファに座った。マルボロにに火をつけ、天井を見上げる。伊織は唇を引き結んだまま、その横に立つ。


「逃げてもいいぞ、伊織」

 曹瑛が目を細めて煙を吐き出す。

「それは、できない」

 伊織は拳を握り締め、自分に言い聞かせるように答える。

「お前は無理をしている。俺はもういいと言っているのに、何故関わろうとする」

「だって、瑛さんちょっと抜けてるとこあるし・・・ほっとけないよ」

「何だと」

 曹瑛の低い声。しまった、思わず口にしてしまった。曹瑛が鋭い視線で伊織を睨みつける。恐ろしい迫力に、伊織は口をつぐんだ。気まずい空気が流れる。


「出て行け」

「えっ」

「やっぱりお前がいると調子が狂う」

 曹瑛は乱暴にタバコを揉み消した。さっきの言葉に怒ったのだろうか、しかし謝ればいいという雰囲気ではもはやない。

 肌がピリピリするほどの曹瑛の殺気を感じる。このまま何か言い続けたら首でも絞められかねない。

 伊織は無言で背を向けて、バッグに少ない荷物をまとめ始めた。


 中国人は面子を重んじるという、伊織は曹瑛の面子を潰したのだ。このまま部屋を出れば、おそらく曹瑛はすぐにここを引き払ってしまうだろう。そしてもう二度と会うことはない。

 鳳凰会の取引を見事阻止できるか、もしくはしくじって曹瑛が闇に葬り去られるか。どちらにしろ裏社会に縁の無い伊織には、曹瑛の安否を知る術は無い。


 伊織は着替えを詰め込んだバッグを肩にかけ、リビングを通り過ぎる。曹瑛はただ無言でソファに座っている。またタバコに火をつけたようだ。戻って来いと言ってはくれないのか。

 伊織は唇を噛んだ。せっかく打ち解けられてきたと思ったのに、これで終わりなんて。

 吐いた言葉は戻せない。後悔に心が締め付けられる。


 玄関のドアを見れば、曹瑛の投げたナイフの傷がうっすらと残っていた。あの夜、曹瑛は自分が何者なのかすべて打ち明けてくれた。人にナイフを投げつけるなんてとんでもない奴だけど、楽しい時間の方が多かった。そう思うと知らず涙がにじんだ。

 鍵を開け、ドアノブに手をかけた。

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