エピソード29 鳳凰会の男

 新宿駅東口。伊織はとんこつ系の店に曹瑛を連れてきた。狭い店内にはこてこての油の匂いが充満している。二人がけの席に座り、メニューを開いた。


「ラーメンなんて中国でも珍しくないでしょ」

「北は米が主流だからな、それに日本のラーメンは独自の進化を遂げているという」

 ラーメン屋に来ることは連れだす口実かと思っていたが、曹瑛は本当にラーメンに興味があったようだ。伊織はチャーシューがたっぷりの濃い目のスープ、曹瑛は野菜盛りを選んだ。店員が注文を取りに来た。


「これと、これ、あと白ご飯と餃子も二人前」

「ちょっと待て」

 突如、曹瑛に注文を止められた。曹瑛は店員に今はラーメンだけ注文する、と告げた。伊織が不思議そうな顔で曹瑛の顔を見ている。


「麺に、飯に、餃子・・・」

 曹瑛は眉をしかめ、呪文のように呟いている。

「やっぱりラーメン食べたら白飯食べたくなるじゃないですか、それに餃子は外せないですよ」

「信じられない」

 俺に同意を求めるな、という表情だ。

「あ、そういえば餃子は主食なんでしたっけ」

 中国人の曹瑛にはラーメンに餃子は驚きの組み合わせだったらしい。さらに白飯もというので、曹瑛は半ば呆れている。

「じゃあ、俺だけ注文しますね」

「好きにしろ・・・」


「これがラーメンか」

 曹瑛が感慨深げにスープを啜る。なんだかんだと一皿だけ注文した餃子にも箸をつけている。

「スープが濃厚だ」

 伊織がラーメンを食べながら白飯をかきこむのを見て、曹瑛も結局追加で白飯を注文した。

「スープが濃いから、白飯欲しくなるんですよね」

「わかるかもしれない」

 伊織のチョイスは間違っていなかったのだ。


「中国では、餃子といえば水餃子だ。ハルビンは餃子の有名店が多い」

「水餃子、美味しそうですね」

「焼き餃子はあまり食べないが、あの店はなかなか美味かった」

 店を出て、本来の目的地バーGOLD-HEARTへ向かう。雑踏の中で酒に酔ったサラリーマンの品のない猥談や大学生たちの騒ぎ声、カップルたちの楽しそうな会話がどこか遠い世界のものに聞こえる。

 誰も他人を気にしない、それがこの街の良いところなのかもしれない。


「これから鳳凰会の榊という男に会う」

「それってもしかしてヤ・・・」

 曹瑛は立ち止まりそうになる伊織の腕を掴んで、無理矢理前に歩かせる。

「ちょっ、わかりましたから、自分で歩きます」

「伊織、俺はこれまで交渉なしで始末をつけてきた。話すのは苦手だ。だが、今日は話をしようと思う」

 曹瑛が立ち止まり、伊織に向き直る。伊織は肩をすくめて表情を強張らせている。


「頼りにしているぞ」

「頼りって、ヤクザ相手に俺ができることなんか。でも、瑛さんが人を殺さずに解決しようとするのは良いことだと思う」

 曹瑛は伊織の額にデコピンを飛ばし、にやっと笑った。ポケットからサングラスを取り出してかける。気づけば、見覚えのある蔦の看板の前だった。


 店内に入ると、曹瑛は目線だけを泳がせ、榊を探しているようだ。カウンターをじっと見つめたかと思うと、まっすぐに歩き始めた。

 伊織は曹瑛と並んでカウンターに座る。マスターと雑談を交わし、カクテルを2つ注文した。

 曹瑛の横でスーツ姿の男が一人で飲んでいた。黒いピンストライプのスーツはオーダーメイドなのだろう、体のラインにぴったり合っており、着こなしに隙が無い。

 伊織は営業マン時代にスーツはどうせ消耗品と、量販店で吊るしの2着よりどりセールで買ったものを着ていた。安いものは肩幅が合わなかったり、腰回りがダボついたりするものだ。


「龍神から手を引け、榊」

 曹瑛が低い声で呟くように言う。伊織は動揺をひた隠しにして横目で曹瑛を見た。やはり、このスーツの男が鳳凰会の榊という人物なのか。

 それにしてもいきなり核心を突きすぎじゃないのか、もはや清々しくさえある。


「貴様、うちのオヤジを病院送りにした男だな」

 榊はこちらに顔も向けずにそれだけ言うと、静かにグラスを傾ける。瑛さん、俺の知らないうちにヤクザの組長を病院送りにしたんだね…伊織は白目を剥いてそのまま後ろに倒れそうになるのを気合いで耐えた。


「龍神がどんなシロモノか教えてやっただけだ」

「中国マフィアか、なぜ邪魔をする」

 榊がこちらを向いた。鼻筋が通った精悍な顔立ちをしていた。厚みのある唇を歪め、こちらをじっと見つめる鋭い目は静かな怒りに燃えている。


「組織の仕事ではない、これは俺からの忠告だ」

 曹瑛はサングラスを外した。榊は曹瑛をまっすぐに見つめている。2人は同じ世界に生きるものの匂いを瞬時に感じ取った。曹瑛の切れ長の瞼の奥に暗い光が宿っているのを見た。

「オヤジのシノギは俺が引き継ぐ」

 榊の声は静かに、しかし揺るぎなく響いた。曹瑛は小さくため息をついた。

「交渉は決裂か」


 伊織は恐る恐るカウンターの下を見た。曹瑛のナイフ、バヨネットが榊の脇腹に突きつけられている。よく見れば、榊もスーツに隠して銃を持っているらしく、黒光りする銃身が曹瑛の体幹を狙っていた。

「動けば肝臓を抉る」

 榊は抗争で片腹を撃たれた組の若い者が、ドス黒い血を流しながら苦しんで死んでいくのを見たことがある。肝臓を損傷したら、まず助からない。横にいる男は本物の殺しのプロ、そう確信した。


「こっちにはこいつがある」

 榊は銃の撃鉄に手をかける。

「やめておけ、お前の銃より俺の方が早い」

 一体なんだろう、まるで任侠映画のようなこのやりとりは。ここにおける自分の立場は?どうすれば良い?

 伊織は緊張で口の中がカラカラに乾いていた。額からじっとりとした汗が流れ落ちる。

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