エピソード26 腐れ縁の男
朝の冷えた空気に曹瑛は目を覚ました。顔を洗い、カーテンを開ける。空は雲が多いが、いずれ天気は良くなりそうだ。ガラス戸を開けると車の少ない時間帯のせいか、空気が綺麗に感じられた。
裸足のままベランダに出てマルボロに火をつける。歩道を行くサラリーマンたちは早足に地下鉄駅の階段を降りていく。目の前のコンビニも早朝から客が多い。忙しない街だ、と曹瑛は思った。彼らも自分とは違うストレスの元で生きているのだろう。
曹瑛はベッドルームを覗いた。ふとんがめくれ上がって、伊織の姿は無い。外に出たのか。玄関の靴が無くなっていた。
「・・・ッチ」
思わず舌打ちが漏れる。関わることを恐れて夜中にこっそり自分のアパートに帰ったのだろうか。それなら追う必要もない。一人でも問題なく行動できるし、伊織には用は無いはずだ。
なのに、なぜこんなにも心がざわつくのか、曹瑛は力なくダイニングの椅子に座る。テーブルに並んだ料理、伊織との何気ない会話。飯を頬張るときの顔は見ているとおかしくなった。
玄関のドアが開く音がした。振り向けば、伊織が立っていた。
「お前、どこに行って」
「パン屋さん」
伊織はダイニングテーブルに焼きたてのパンが詰まった袋を置いた。香ばしい匂いに曹瑛は思わず気が抜けた。伊織はパンを並べ始める。
「この食パン、朝一番の焼きたてなんだ。あと適当に見繕ってきたから好きなのをどうぞ。コーヒー淹れますね」
曹瑛はエッグタルトとチョコレートの入ったクロワッサンを選び、かぶりついていた。目の前の伊織はニヤニヤしている。
「なんだ」
「瑛さんはそれ、選ぶと思ってました」
「・・・」
食パンは厚めに切ったものをトーストして目玉焼きとハム、サラダを添えた。売れ筋だけあって、表面はパリパリ、中はもちもちのリッチな食感だ。
「この仕事、降りていいんだぞ」
曹瑛がおもむろに切り出す。伊織はハッとして顔を上げる。
「・・・今は無職だから時間はあるよ」
「そういう話じゃない」
「・・・わかってる、俺は足手まといだ。それは弁えてるつもり。だから置いていかれたことは、別に」
「書き置きはした」
「それはご丁寧にどうも」
伊織は唇をとがらせる。
「でも、帰ってくるのか不安だった。もしかして、逆に殺されてるかもって」
伊織はまっすぐに曹瑛の目を見た。その強さに曹瑛は内心たじろいだ。目線をそらし、残り少ないコーヒーを飲み干す。
「俺はそんなヘマはしない」
「それに、瑛さんは何でもひとりでできるから、俺が役に立てることなんて本当は無いことも分かってる」
伊織は項垂れる。バイト契約を理由にしがみついているだけだ。
「お前の飯はうまいぞ」
「えっ、そこなの」
伊織は半ばふてくされている。曹瑛は派手なため息をついた。
「安心しろ、役に立っているぞ。伊織といれば気分が紛れる。お前はそのままでいてくれ」
伊織の不服そうな顔を尻目に、曹瑛は外出の準備を始めた。
「来ないのか?」
「行きます!」
向かう先は池袋の烏鵲堂。
伊織は本棚を見上げて本を物色していると、曹瑛が来いと手招きしている。
店の奥に向かうと、本棚の間に空間があり、地下への階段が伸びている。曹瑛の姿はすでにない。裸電球の光が揺れる薄暗い階段を地下へ降りてゆく。
「ここは・・・」
コンクリート打ちっぱなしの部屋に中国風の家具が並んでいる。曹瑛と、この間話をした老店主もいた。老店主は曹瑛に中国語で何か耳打ちしている。
それに奥の椅子に足を組んで座っているジャケットの男、かなり体格がいい。濃い色のサングラス越しにじっと伊織を見つめている。伊織はその雰囲気に呑まれてその場に立ち尽くした。
ジャケットの男が立ち上がった。随分上背がある。曹瑛よりも少し高い。中国語で曹瑛に話しかけている。
「ここは何でも屋だ」
戸惑う伊織に曹瑛が話しかける。ジャケットの男は伊織から視線を外さない。
「何でも屋って」
「武器から情報まで何でも揃う」
伊織は思わず息を呑んだ。まるで犯罪映画、完全に裏世界の店だ。雑居ビルの書店の隠し階段なんて怪しいと思っていた。
怖い、怖すぎる。この殺風景な部屋にそぐわない豪華な装飾の机や棚も不気味だ。中にはきっと銃やドラッグ、汚れた金がしまわれているに違いない。
「俺は
孫景と名乗る男は伊織に近付いてサングラスを外し、笑みを浮かべた。強面だが、涼やかな目に意外にもどこか人懐こさが感じられた。曹瑛よりやや外国人なまりがある。
「ど、どうもこんにちは」
伊織は孫景を見上げた。頬骨が張ったいかつい顔だ。短く刈り込んだ髪は軍人を思わせる。
「お前が相棒つけるの珍しいな」
「お前には関係ない、オヤジ、情報をくれ」
曹瑛はふいと顔を背ける。店主は引き出しからファイルを取り出し、テーブルに置く。曹瑛がそれを取り上げて手早くめくる。
中には写真やレポートのようなものが挟まれていた。
「これが鳳凰会の榊の資料だな」
曹瑛は資料に見入っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます