エピソード24 残されたメモ

「お風呂お先・・・あれ、瑛さん?」

 バスルームから出た伊織はタオルで濡れた頭をガシガシ拭きながらリビングを覗いた。定位置のソファに曹瑛の姿はない。


 ベランダでタバコでも吸っているのかと思うが、鍵がかかっている。コンビニにでも出かけたのだろうか。玄関に向かう途中、ダイニングテーブルに紙切れが置いてあるのに気が付いた。


「出かける・・・どこにだよ」

 ツッコミをしても答える相手はいない。流麗な字で書かれたメモを裏返してみるが、追記が書かれているわけでもない。

 まあ、出かけるのだろう。しかしコンビニに行くのにこんなメモを残すはずはない。きっと、龍神絡みだ。伊織に文句を言われるのが面倒だったのだろう。


「瑛さん・・・」

 ついて行っても何もできない、それどころか足手まといになる。伊織は何もできない自分に苛立ちテーブルを殴った。


***


 曹瑛は地下階にある店のドアを開けた。ダウンライトの店内では囁くような会話が交わされている。

 天井から吊された無数のワイングラスが光を反射して輝いている。店内はカウンター席とテーブル席があり、パーソナルスペースを保って配置されていた。

 仕事に疲れたサラリーマンが酔っ払う店では無さそうだ。仕立ての良いスーツ客や、美しく着飾った女性ばかり。曹瑛は自分には場違いな場所だと思った。


 目的は鳳凰会柳沢組組長の柳沢誠司。金曜日の夜はだいたいこの店にいると情報を得た。

 曹瑛は奥まったカウンターの端に座り、炭酸水を注文し、サングラスのまま店内を観察する。一番奥のソファ席に6人の男たちが座る。中心に壮年の男、その横に赤いスパンコールドレスで着飾った妙齢の女性がついていた。


 中央が写真の男、柳沢に違いない。周囲の男は体格が良いものが2名、ボディガードだろう。派手な色のスーツの取り巻きが2名、柳沢の斜め前に少し離れて座る男はやや若い。

 オーダーメイドの黒のスーツにダークグレーのシャツ、紫のタイで薄闇にひっそりと溶け込んでいる。まだ30代前半か。他の男たちが談笑している中、まるで別世界にいるように静かにグラスを傾けている。

 この男は注意すべきかもしれない、曹瑛は直感した。


 柳沢はウイスキーを続けて注文している。ウエイターがドリンクをカウンターに並べて準備していた。

 曹瑛は席を立ち、すれ違いざまにウイスキーに液体を落とした。ウエイターは全く気づかずにトレイにドリンクを乗せて柳沢のところへ運ぶ。


 曹瑛はバーテンダーにタバコをもらい、席に戻った。タバコを一本吸い終わるころに、柳沢が席を立つ。用心棒らしき黒ずくめのスーツ姿の男がひとり後をついてくる。

 柳沢はトイレに向かった。強面のガタイの良い用心棒は腕を組んでトイレ前で待機する。取り巻きがいる席からは死角になっていた。


 曹瑛は用心棒の横を通り過ぎながら、隙をついて右脇腹に拳を見舞った。肝臓に鋭い一撃を食らった用心棒はぐ、と短く呻いて倒れ込む。曹瑛は細腕で男を支え、トイレのドアを開けてその巨体を中に放り込み、鍵をかけた。


 柳沢は個室でうなり声をあげている。先ほどウイスキーに混ぜた嘔吐誘発剤が効いている。ごく微量なので、吐き気に苦しむだけだ。

 柳沢は違和感に首をかしげながら個室から出てきた。水道で手を洗っていると、アールデコ風にしつらえた鏡で自分の背後にいつの間にか長身の男が立っているのに気が付いた。

 ドアの脇をみれば、組の用心棒が床でのびている。


「貴様、なに者だ」

 ドスを効かせた声でそう言い終わる前に、柳沢の首筋にナイフが突きつけられていた。薄皮を切られ、すうと血が流れて白シャツに血が滲んでいる。

「どこの者だ。ワシにこんなことをしてただで済むと思っているのか」

 柳沢は鏡に映る曹瑛の姿を見ようと目線を動かした。それを察知した曹瑛は柳沢の首に当てがったナイフの角度を変え、それを防ぐ。

「お前、日本人じゃないな」

 曹瑛は沈黙を守っている。


「何が望みだ」

 ヤクザの親分を張るだけあり、柳沢に怯える素振りはない。

「俺は一切交渉をしない、通常ならばな」

「ほう、ならば今回は違うのか」

「龍神から手を引け」

 そのキーワードに柳原は身もだえる。しかし、腕を背中で捻り上げられ、身動きができない。


 曹瑛はさらに柳沢の腕を捻った。骨がきしみ、柳原は苦痛の呻きを上げる。

「お前がどこからその情報を得たのか知らんが、龍神は途方も無い利益を生む。俺のような成り上がり者が上に立つにはあれが必要だ」

「龍神がこの街を滅ぼすぞ」

「関係ねえ、その後に立つのは俺だ」

 柳原は叫んだ。曹瑛はナイフを柳原の喉元から遠ざけた。その隙を突き、柳沢は曹瑛に向き直り、胸元から取り出した銃を曹瑛に向けた。

 曹瑛は両手を下ろし、佇んでいる。ゆっくりと片手でサングラスを外した。


 切れ長の瞳の奥に静かな殺気が宿るのを感じた。まるで、闇夜の湖のような底知れぬ暗い瞳だった。

 柳沢は恐怖を覚えた。ナイフを喉元に当てられたときよりも本能的に死を意識するほどに。

「こ、殺してやる」

 取り乱した柳沢が引き金を引こうとした瞬間、曹瑛は瞬時にトリガーを押さえ込み、それを阻止する。


「なんだこれは」

 柳沢は首筋に微かな痛みを感じた。鏡には何かを突き立てられる自分の姿が映る。

「もう一度言う。龍神は狂気のドラッグだ。手を引け」

「誰が手をひくか!もう走り出している、止められない!」

 曹瑛は柳沢の首筋に刺した注射器で中の液体を内頸静脈に一気に流し込んだ。柳沢は首を押さえてふらふらと後ずさり、鏡台にもたれかかった。

「高濃度の龍神、静脈注射だ。お前自ら味わうといい」

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