エピソード17 伊織の決意

「無理するな、お前は怖くて震えていた」

 伊織は口ごもる。怖くないはずがない。チンピラに絡まれただけでも怖かったのに、ドラッグにヤクザに裏社会なんて、自分とは遥かに縁遠い世界だ。


「怖いよ、でも瑛さんは助けてくれた」

「甘えるな。あのときはお前が死ねば面倒だったからだ。俺に捜査の手が伸びれば組織にも気づかれる」

 確かに甘えている、伊織は恥ずかしくなってうなだれた。


「俺には瑛さんのこと、悪い人と思えない。一緒にいて楽しかったし、仲良くなれるかなって思ってた。お茶のことや、故郷のことも教えてもらいたいし」

「お人よしにも程がある」

「じゃあ、何で全部教えてくれたの」

 曹瑛ははっとした。これから出て行こうとする伊織にこんな話をする必要はない。曹瑛は天井を向いて声を出して笑い始めた。


「もう、何なんだよ」

 訳がわからず、伊織は曹瑛の肩を揺らした。

「何でだろうな、俺にも分からない」

 心のどこかで一緒にいるのも悪くないと思っていたのか、曹瑛はそのことに驚いていた。仕事上の利害関係なく自分に興味を持ったのはこの男が初めてだった。

「飯だ」

「嘘だろ」

 伊織もおかしくなって笑う。ひとしきり笑った後、お互いの顔を伺う。


「瑛さんもそんな風に笑えるんだね」

「久しぶりに笑った」

「俺は物騒なことは嫌いだけど、瑛さんが危ない目に遭うのも嫌だ。それに引き受けた仕事はちゃんとやりたい」

 伊織の責任感の強さを曹瑛は奇妙に思う。金を払うと言われたら、もらって終われば良い。日本人の真面目さを見た。


「お前を巻き込んだことを後悔している」

「え」

「俺の案内には、ここの繁華街に詳しいヤクザ者の末端構成員がくると聞いていた。初めて会ったときから妙だとは思ったが、面白そうだからそのまま任せていた」

「そ、そうなの・・・!?」

 今回のバイトを持ちかけた山口の先輩というのが裏世界の人間なのかもしれない。伊織にお鉢が回るとは、とんだ丸投げだ。

「ヤクザ者ならそれなりの使い道もあったが、伊織じゃ無理だな」


 曹瑛がマルボロを口に咥え、ジッポを弄ぶ。

「明日からも頼む」

「瑛さん・・・」

 曹瑛は真剣な顔で伊織を見据える。心臓を鷲掴みされる迫力のある瞳に伊織はぐっ、と喉を鳴らす。

「だが、これから先、お前が逃げ出したくなるようなことがたくさん起きるぞ」

「分かった。本当に危なくなったら全力で逃げる」

「・・・早く寝ろ」


「瑛さん」

 ソファから立ち上がった伊織が曹瑛を振り返る。

「この先、人を殺さないで欲しい」

「それは約束できない」

 曹瑛は冷たく言い放つ。予想した答えだった。伊織は唇を噛む。

「瑛さんのしようとしていることは正しいことだ。でも、人を殺すのは駄目だ」

 曹瑛のアイデンティティを否定する言葉だが、伝えなければならないと思った。曹瑛は無言のまま、マルボロに火を点けた。これ以上、会話を続けるつもりはなさそうだ。


 伊織は冷蔵庫からペットボトルを取り出して緊張でカラカラの喉に流し込み、ベッドに入った。

 曹瑛が何者かを話してくれた。想像の遙か上をいく話で衝撃的だったが、嬉しかった。一線を引いて自分に何ができるのか、不安はある。でも孤独に戦おうとする曹瑛をほったらかして逃げ出すのも違うと思った。

 頭の中は情報過多だったが、程なくして驚くほどすとんと眠りに落ちた。


 朝、車の行き交う音に目を覚ました。伊織はベッドから身を起こして伸びをする。カーテンを開けると外は快晴だ。変わらぬ朝の風景に、昨夜の話が嘘のようだ。キッチンでは曹瑛が朝食の準備をしていた。

「おはようございます、準備するよ」

「いいから顔でも洗ってこい」

 世話役という話だったのに、これでは自分の方が世話をされている。伊織は冷たい水で顔を洗い、気持ちを引き締めた。

 鏡に映る自分の顔をまじまじと見つめる。夜更かしのため目の下にクマがあるが、やつれた顔ではない。顔を両手でパンと叩き、キッチンへ向かった。


「いただきます」

 今日の朝食は趣向が違った。たまご入りお粥。刻んだネギが添えてある。ゆで卵は表面が茶色い。ソーセージとサラダ。グラスには甘みをつけた温かい豆乳。健康志向だ。


「中国の屋台で食べる朝食はこんなもんだ」

 素朴だが、気遣いが感じられて伊織は嬉しくなった。卵の殻を剥くと、香辛料の独特の風味があった。

「茶葉卵といって茶の葉を使って作る」

 中華食材店で買った香辛料だと合点がいった。卵はしっかり煮込んである。いつの間にか仕込みをしていたようだ。

「卵はさっぱりした風味で美味しい。あ、このソーセージ、甘い」

「なんだ、普通だろう」

「日本で売ってるソーセージはどちらかというとスパイシーなのが方が多いかも。不思議な味だなあ」


 会話が弾む。心なしか曹瑛の口数が増えた気がした。昨夜の不穏な話など無かったかのように和やかな時間だ。

 朝食の片付けを終えてテレビをつけると、朝のワイドショーをやっている。ニュースに歌舞伎町の映像が映っていた。伊織は一気に現実に引き戻された。通り魔事件、けが人は5名、死者は1人。


「え、死者が出てる・・・」

 ニュースは犯人の死亡を伝えていた。伊織は曹瑛の顔を見た。

「あそこまで錯乱状態なら、助からない」

「・・・そうなんだ」

 やはり、龍神というドラッグは危なすぎる。あんな危険な人間が街中に増えたら。そう考えるとゾッとした。

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