エピソード16 真夜中の告白

 伊織は後ずさる。曹瑛の鋭い目は伊織を捉えて放さない。伊織は反射的に玄関へ向かって走った。本能が逃げろと叫んでいる。それでどうにかなるか何も考えられなかった。


 ドアノブに手をかけようとしたとき、曹瑛が動いた。テーブルを軽々とまたぎ、並んだナイフの一本を指先に引っかけ、その勢いで弾くように飛ばした。伊織のこめかみを掠り、玄関のドアに刺さる。


「ひぇっ!」

 何が飛んできたのか分からなかった。振り向いた瞬間、曹瑛の顔がすぐ目の前にあり、伊織はドアと曹瑛に挟まれて身動きできない。顔の左側にはドアに突き立ったナイフ、右側は曹瑛の肘がある。曹瑛は玄関ドアのナイフを抜いた。


「どこへ行く」

 普段の低音より一際低い声。まるで脅しつけるような強い響きを帯びている。伊織は息をのんだ。

「アパートに忘れ物を・・・いや、嘘だよ。逃げようと思った」

 曹瑛の顔をまともに見られない。伊織は顔を背けた。感情の読めない切れ長の目がただじっとこちらを見つめている。


 曹瑛は伊織を解放し、ソファに座った。

「契約は解消で構わない」

「・・・え」

「案内の仕事はこれで終わりだ。当初の期日分の金は用意しておく」

 薄い闇の中から響く声。伊織はドアノブに手をかけた。曹瑛はこれ以上引き留めるつもりはないようだ。心のどこかで何か言ってくれるのを待っているのかもしれない。伊織は唇を噛んだ。


 不意にリビングのライトが点いた。曹瑛が顔を上げると伊織が目の前に立っている。曹瑛は右手で弄んでいたナイフを置いた。

「瑛さん、教えてよ。あんた一体何者なんだよ」

「契約解消と言ったばずだ。出て行けばいい」

「い、嫌だ、行かない」

 伊織の思いのほか強い口調に、曹瑛は顔を上げた。伊織は唇を引き絞ってまっすぐな瞳を向けている。


「せっかく仲良くなれるかもと思ったのに、これで終わりなんて、それに危ないことばかりして、ほっとけないよ。大体、そのナイフ何?何でそんなに持ってるの?売り物?さっきは俺を殺そうとしたよね?」


 伊織はだんだん興奮してきた。ゲイバーでは連れとして扱われ、ドラッグ中毒の男に殺されそうになった上に、ナイフを投げられて壁ドンなんて、一体何なんだ。

 曹瑛は短いため息をつき、顎でソファに座れと指示する。伊織はちょっと離れて曹瑛の横に座った。


 思えば、そのナイフが収納されている黒いケースは西川口で購入した茶盤の中に隠されていたものだ。つまり、曹瑛の買い物は茶器ではなく、このナイフだったのだ。

 あの店は通常、海外から持ち込みができないような危険なものを扱う裏の仕事をしているのだろう。


「俺は、幼少の頃に裏社会の組織に売られた。実の親の手によってな。そのときに反抗した兄は殺された。組織では人を殺すことをたたき込まれた。子供だからと容赦は無い。同じように連れてこられた子供で、使えない奴はいつの間にか消えていった」

 伊織は曹瑛の横顔をのぞき込む。ただ無表情で、まるで他人事のように語り続ける。


「俺の仕事は組織のための暗殺。時々、フリーの仕事もやる。今は休暇中で、俺の意思で日本に来た」

「なぜ日本に」

 ツッコミどころが多すぎて、聞きたいことが多すぎる。

「龍神だ。新種のドラッグで、大陸の東北地方で栽培される芥子から作られている。バーにいたタカヤの話通りで、依存性と凶暴性が高い。ジャンキー相手の安い取引は龍神の効果テストのためだ。最終目的はテロや抗争に使われる。どこまでも冷酷で凶暴な兵士を作るためだ」


「そんな」

 伊織は絶句した。作り話とは到底思えない、しかしあまりにも現実離れしている。

「日本がそのデモンストレーションを兼ねた試験場に選ばれた。これからさらに凶悪犯罪が増えるだろう。全世界がそれを見て、龍神に金を出す。組織は潤い、少年兵をつくるための誘拐事件も増える」


「瑛さんはどうするの」

「組織を潰す。そして龍神をこの世から消す」

「そんなことどうやって」

「龍神を扱おうとしている日本のヤクザ、龍神の精製、流通を管理する中国東北地方の組織、必要ならばその上に位置する上海の組織を潰す」

「・・・」

 伊織は唇をへの字に曲げ、眉間に深いしわを刻んでいる。もう完全に自分の住む世界の話ではない。スパイアクション映画でも観ているのか、サラリーマンを辞めたとたんにこんなことに巻き込まれるなんて。


「気が済んだか」

「え?」

 不意に声をかけられ、呆然としていた伊織は我に返る。

「嘘は言っていない。この先お前がいても邪魔なだけだ。出て行くといい」

 曹瑛は黒いケースをくるくる丸めて仕事道具を片付けた。ドアの方へ首を傾けて伊織に出て行くよう促す。伊織は膝に置いた拳を握りしめた。


「怖いし、できれば関わりたくない。けど…もしかしたらいずれ友達や家族が巻き込まれるかもしれない。そんなことがこの国で起きるなんて嫌だ。俺には人殺しなんて無理だけど…何か手伝いたい」

 伊織は分かっていた。曹瑛はひとりでも行動できる。彼が来日してから自分は何の役にも立っていない。


「お前に何ができる」

 曹瑛が鼻を鳴らし、からかうように言う。

「人は殺さないし、人殺しの手伝いはしない。電車やバスの乗り方とか、食べ物とか、買い物とか、日本に滞在する手助けはできる」

 伊織の瞳は迷いなく、誠実な色を帯びていた。

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