エピソード11 中国茶の作法
曹瑛が桐箱から茶葉を取り出し、茶荷に入れる。伊織は中国茶といえば烏龍茶くらいしか知らないし、その烏龍茶もペットボトルでしか飲んだことがない。
茶葉を見るのは初めてだ。日本でよく見る粉砕茶葉ではなく、乾燥させた茶葉を丸めてある。曹瑛は茶荷を持ち上げ、伊織の鼻先に差し出した。茶葉の香りを嗅ぐよう促す。
「安渓鉄観音という」
「・・・わ、いい香り」
曹瑛が器を振ると丸めた葉葉が転がって、カンカンと澄んだ音がした。茶盤に出した茶器にふんだんに湯を注いでいく。
その湯を一度捨て、茶さじで茶葉を取り、大きめの器に入れてまた湯を注いだ。茶器を温めて、茶葉を蒸らす。手順はめまぐるしく複雑に見えた。
無駄にお湯を使っているように見えるのだが、その動作はひとつひとつに意味がある。茶器を扱う曹瑛の長い指のしなやかな動きに、思わず見とれてしまう。
目の前に出されたのは、小さな白磁の茶器に入った茶だ。澄み切った美しい黄金色をしていた。光の加減で緑がかって見えた。
伊織が作法が分からず戸惑っていると、曹瑛が自分用の茶を手に取って飲んでみせた。
「作法など気にするな。適当で良い」
伊織は小さな白い茶器をそっと手に取った。鼻先に近づけると、ふわりと甘い香りがした。口に含めば馥郁とした香りがまた広がる。仄かな渋みと相まって上品な味わいだ。喉を通った後も口の中に上品な甘みが蘇ってくる。
「こんな美味しいお茶、初めてです」
曹瑛は茶器に次の一杯を注いだ。湯切り後の茶葉を入れた容器を伊織の前に差し出す。蒸れた茶葉から金木犀に似た甘い香りが漂う。
「わあ・・・」
「こうして香りも楽しむ」
「中国茶って奥が深いですね」
伊織は感動しきっていた。曹瑛は普段より口数多く中国茶について教えてくれた。
「緑茶なら温めたグラスに茶葉を淹れるだけだ」
簡単な飲み方もあるという。曹瑛も普段は茶葉をボトルに入れて持ち歩くらしい。なんだか今日は自分の方が楽しんでいる、伊織はそう思っておかしくなった。
「あの、瑛さん・・・でいいですか」
「・・・」
名を呼ばれて、曹瑛はピクリと反応したが無言のままだ。文句を言わないということは承諾の意思表示と受け取ろう。伊織は続けた。
「ハルビン出身なんですよね、どんなところなんですか」
中国東北料理の店で聞いた地名。曹瑛のことを何も知らないが、唯一分かった個人情報だ。これから2週間ほど一緒にいるのだからもっと相手のことを知りたかった。
「ハルビンは大きな都市だが、俺が生まれたのは最北の田舎の貧しい村だった。思い出は何も無い」
いつも通りの感情のない声。しかし、どこか苛立ちの色が見える。そんなことを言われたら何も聞けなくなってしまう。
「お仕事は何をしているんですか」
このバイトは自分への払いが一日3万、山口や先輩は仲介料をもらっているはずだ。それが曹瑛の懐から出ていることになる。2週間で40万以上、伊織の手取りより断然多い。一体どんな仕事をしているのか、そもそもセレブなのか、俄然気になってきた。
「今は休暇だ、仕事のことは考えたくない」
「・・・あ、すみませんでした」
教えてくれなかった。
「兄弟はいるんですか」
それでも会話の糸口をつかもうと伊織は話をふる。曹瑛は長い睫毛を伏せて西湖龍井の入ったグラスを揺らしている。茶葉がふわりと浮いてまた沈んだ。
「兄がいたが、死に別れた」
伊織は絶句した。家族の話題に触れるのは配慮が足りなかったと反省した。しかし、世間話がこうも続かないなんて、伊織はがっくりとうなだれた。
「お前の故郷はどんなところだ」
逆に質問されるとは思わず、伊織は驚いて反射的に顔を上げる。
「海が近い街で育ちました。内海だから島がいくつも浮かんでいるんです。天候はとてもおだやかで、冬でもほとんど雪は降りません」
曹瑛は腕組をしたまま黙って聞いている。
「ドライブコースの展望台から見る朝焼けの海は特にきれいで、水面がキラキラ光って船が通り過ぎていくのを眺めていると時間を忘れるんです」
その情景が心に思い浮かぶのか、伊織は穏やかな笑顔を浮かべている。
「じいちゃんは元漁師で、趣味で釣ってきた魚をその日のうちに捌いて刺身や漬け丼で食べました。魚って新鮮だとそんなに臭みが無いんですよ」
「・・・」
「そんなところで、何もない。だから都会に憧れて東京に来たんです」
曹瑛は伊織の顔をじっと見つめていた。その視線がどうも恥ずかしくなり、伊織は話題を変えた。
「そうだ、今夜の夕食はどうします」
「何か作ってくれ」
今日も家庭料理でいいのか。男料理を気に入ってくれたことが嬉しい反面、日当3万分のプレッシャーがかかるのだった。
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