エピソード10 お友達疑惑

「お友達はハルビン出身ね」

 気さくなおばちゃんがテーブルに料理を並べながら、伊織に話しかける。先ほどの世間話で本人から聞いたのだろう。

「そうなんですか」

「あなた友達なのに知らなかったの」

 はい、今知りましたよね・・・そもそも友達ではないし、バイトの雇用関係だ。伊織は口をへの字に曲げた。必要なことすら教えてくれない曹瑛は謎だらけだ。


「ハルビンはいいところね。大都会だけど自然も綺麗だし、そして冬はマイナス30度にもなるのよ。氷祭りって知ってる?毎年2月始めにやるんだけどね、氷の彫刻がそれはすごく綺麗なの、ライトアップされて。寒いけどその時期ハルビンにはお客さんがいっぱい来るのよ」

「へええ、そんなお祭りがあるんですか」

 マイナス30度で人間が生きていられるのか、伊織は未知の世界を想像して身震いした。


「今度お友達に連れていってもらいなさいよ、お兄さん」

「は、はあ、またそのうちに」

 お友達、か。伊織はそっと曹瑛を覗うが、特に否定する気もなく興味無さそうにタバコを吹かしていた。


 嵐のようなおばちゃんが去って、無言の曹瑛と二人きり。話はそれ以上発展することなく気まずい空気が流れていた。曹瑛は自然体なので、気にしているのは伊織だけなのかもしれない。


「ピータン豆腐」

 曹瑛が伊織に料理をよそう。冷や奴にネギと黒いゼリー状のものが載って、中華風味の醤油がかかっている。不意に目の前に料理を突き出されて、伊織は我に返った。

「これがピータンか」

 名前は聞いたことがある。熟成させた、つまり発酵した卵だ。おそるおそる口に運ぶと、ややクセがあるが、あっさりした豆腐と甘みのある中華風味の醤油の相性は抜群だ。


「うん、これ美味しい」

 伊織は思わず目を見張る。中華料理といえば、餃子、麻婆豆腐、エビチリ、なんて固定観念がある。伊織もリーズナブルな中華料理のチェーン店にはよくお世話になっており、中華料理はただただ脂っこいものと思っていた。しかし、そのイメージを完全に覆された。

 鍋ができあがるまでの冷菜に出されたキュウリの和え物はごま油の風味が効いて箸が進む。キュウリにこんな食べ方があるのか、と伊織は感嘆した。


 鍋が頃合いだ。おばちゃんが鉄鍋の蓋を開けるともうもうと白い湯気がたち、具材がぐつぐつと煮え立っている。

「わあすごい、美味そう」

 伊織は目を輝かせて鍋を覗き込む。それを見て曹瑛が一瞬笑ったことに伊織は全く気がついていなかった。

 牛肉はほろほろに煮えて、骨がすぐ外れるほど柔らかい。インゲンや芋はダシや肉汁としっかり煮込まれて味がしっかりついている。

 鍋の縁に貼り付けたトウモロコシ粉のパンは香ばしく焼けており、もちもちで食べ応えがあった。


「中国東北料理、美味しいですね」

「素朴な田舎料理だな」

 伊織が鍋をさらうのを見て、曹瑛はどこか満足そうだった。

 いつの間にか狭い店は満員になり、大賑わいだ。見た目だけでは古くて暗くて、何も知らなければ通り過ぎるような地味な店構えだ。しかし、知る人ぞ知る隠れた名店だった。


 大鍋が空になり、自分でもよく食べたものだと伊織は感心する。

「満足か」

「もうお腹いっぱいです」

 曹瑛がレシートをかっさらい、レジに立つ。伊織は慌てて後を追った。曹瑛は財布を取り出す伊織を尻目にさっさとアリペイで支払いを済ませる。


 経費はすべて領収書で落とす約束だが、自分の食事代は払うつもりだった。店を出て足早に歩く曹瑛に伊織が声をかけようとする。

「気にするな、経費のうちだ」

 曹瑛は伊織が気を揉んでいることに気付いたのか、振り返ってそれだけ言うと駅に向かって歩き出した。


 午後二時すぎ、新宿のマンションに戻ってきた。伊織は荷物を置いて解放されてほっと一息ついた。

 曹瑛が重そうな箱を開封するのを見ていたが、中から出てきたのは分厚い木製のお盆だった。その内側に入っていたエアキャップにくるまれたものを取り出した。それもずしりと重そうだ。

 曹瑛はそれを脇に避けて、木製のお盆をテーブルの真ん中に置いた。


 それからいろんな形の小さな器や急須をざっと水洗いして、盆に並べた。

「これは茶盤という、中国茶を淹れてやろう」

「え、本当にいいんですか。お願いします」

 思わぬ提案に、伊織はそそくさと曹瑛の正面に座る。曹瑛はしなやかな手つきでお茶の準備を始めた。

 この男は本当に謎だらけだ。そんな思いで伊織は曹瑛の優雅な所作を見つめている。

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